16.恋が眩しい
見上げた空は、夏よりも色が薄い青。
わたしは小さなラタンのバスケットを腕に掛け、落ちた葉っぱが彩る道を歩いていた。赤、黄、橙の葉は道に沿って植えられている木々から落ちたものだろう。まるで絨毯のように鮮やかな道とは裏腹に、見上げた木々は寒々とした枝の姿になっていた。
そんな道を歩いていたら、目的地はもうすぐだ。
煉瓦色の外壁に大きな塔が目印のそこは──王立魔導研究所。大塔には大きな時計が飾られていて、それはもう少しで正午を報せるところだった。
研究所を囲う高い壁に沿って歩き、曲線が優美な門の前に立つ衛兵へと声を掛けた。
「こんにちは。フィーネ・レングナーと申しますが、ジル・アーレント研究員へお取次ぎをお願いできますか?」
「少々お待ちください」
剣を腰に携えた衛兵の内の一人が、門の側にある詰所へと向かう。きっとそこで、ジルに連絡をしてくれるのだろう。
わたしはバスケットを片手に持ち直し、空いた手でストールを留めるブローチを軽く直した。
今日の目的は、ジルに昼食とアップルパイを届けること。
ジルが『おばあちゃんのアップルパイが美味しかった』と言っていたと祖母に伝えたところ、大きなアップルパイを焼いてくれたのだ。切り分けたそれと、簡単な昼食も作ってくれたので、バスケットに詰めて届けにやってきたのである。
秋呼風よりは柔らかいものの、吹き抜ける風はやっぱり冷たい。
風に煽られてくるくると回る落ち葉が、足元で遊んでいるようだった。
「フィーネちゃん!」
掛けられた声に顔を上げると、白衣を着たジルが走ってくるところだった。
いつものように一つに束ねられた青い髪が背中で弾んでいる。
「お仕事中にごめんなさい。大丈夫だった?」
「うん、もうすぐ昼休憩だから。フィーネちゃんが訪ねてくるなんて珍しいね。何かあった?」
ジルに促され、門から離れる。
近くにある大きな木の下で足を止め、持っていたバスケットを差し出した。ジルは不思議そうにしながらもそれを両手で受け取ってくれる。
「おばあちゃんがアップルパイを焼いたの。『ジルくんが美味しかったって言ってくれるなら、張り切って作るわ』って喜んでいたわよ」
「嬉しいな、おばあちゃんのアップルパイは絶品だから。フィーネちゃんも伝えてくれてありがとね。それから、届けてくれた事も」
「どういたしまして。昼食も入っているから、良かったら食べて」
「フィーネちゃんが作ったの?」
「残念。それもおばあちゃんよ」
そっか、と笑うジルは本当に嬉しそうだった。
おばあちゃんのアップルパイを喜んでくれて、わたしも嬉しくなってしまう。思い返せばよくジルと一緒におばあちゃんのおやつを食べたものだ。
懐かしい思い出に笑みが零れた。
「一緒に食べない?」
「そうしたいところだけど、すぐに戻らなくちゃいけないの。お店にお客様が来るから、母さんと一緒に応対する予定があって」
「そっか……じゃあ、また今度こうやって来てくれる? 一緒にお昼ごはんを食べようよ」
「いいけど……」
学生の時はよく一緒にお昼を食べていたっけ。お互い働くようになってからはそういう事もなくなったけれど、たまにはいいかもしれない。
そう思って頷いた時、大きな鐘の音が鳴った。
音の方に目を向けると、大塔の時計針が正午を指している。その下にある鐘がゆっくりと揺れているのが見えた。
「ずいぶん大きな鐘の音ね」
「前はもう少し小さかったんだよ。聞こえなくて研究に没頭する職員が多くてさ、強制的に昼休憩を取らせようと大きくしたんだって」
「ジルもそうだった?」
ふと聞いてみただけなのに、ジルは気まずそうな顔をして目を逸らす。
そんな様子に思い当たる事があって、わたしはその顔を覗き込んだ。困ったように笑った紺碧と視線が重なった。
「また食べていなかったのね?」
「……面倒で。最近は食べてるよ、それなりに」
「ちゃんと食べなくちゃ。研究職だって体が資本なんでしょ?」
前にジルが言っていた言葉をそのまま口にすると、ジルは苦笑いを浮かべるばかりだ。
不意に風が吹いて、シニヨンに纏めていたわたしの髪を乱していく。幸い崩れる事はなかったけれど、前髪は変になってしまったかもしれない。
片手でそれを直そうとするも、それよりも早かったのはジルの手だった。
わたしのよりも大きな手が、前髪を整えてくれる。その手は前髪から離れてわたしの頬を撫でていった。
大きくて、骨張った、男の人の手。
「フィーネちゃんが一緒に居てくれたら、ご飯も美味しいんだけどな」
「バカな事言ってないでちゃんと食べなさいよね」
「あはは」
胸の奥がざわつくのは、頬に残る温もりのせいだろうか。
苦しくて──少しこわい。
こないだの夜みたいな、熱を感じてしまうような不思議な空気感。
そう、まるで恋のような。
何かを言おうとしても、何を言えばいいのか分からない。
ジルの紺碧の瞳が色を濃くしているようで、真っ直ぐに見る事が出来なかった。
「ジル先輩! ここにいたんですね!」
そんな空気を崩したのは、甘く弾むような声。
そちらを見れば白衣を着たナンシーさんが駆け寄ってくるところだった。
「ジル先輩、ナンシーと一緒にご飯に行きましょ!」
「いや。僕はこれがあるし、一人で食べるから」
ナンシーさんは赤く色付いた唇を可愛らしく尖らせている。小首を傾げると緩く波打つ黒髪が肩にかかって光を受けた。
「あら、レングナーさんもいたんですね。こんにちは」
「……こんにちは」
目が合うと、今気付いたとばかりに笑いかけてくれる。苦笑いを浮かべながら挨拶をすると、ナンシーさんはジルの腕に両腕を絡みつかせた。
ずきん、と胸の奥が軋んだ感覚に、わたしは戸惑いを隠せなかった。
「……わたしはそろそろ行くわね。じゃあ、また」
「店まで送るよ」
「大丈夫。お昼休憩なんだから、ゆっくり食事して」
「でも……」
「レングナーさん、さようなら」
ジルが腕を離したら、またナンシーさんが抱き着いて。ナンシーさんの声に潜む棘が、心に刺さってしまったんだろうか。二人の様子を見ていられなくて、「じゃあ」と告げてわたしは踵を返した。
「ジル先輩、行きましょ! ナンシーもお昼を買ってくるので付き合って下さい」
「僕は研究室に戻るから、バルシュさんは好きに買っておいでよ」
「えー、一緒にテラスで食べましょうよ」
「食べない」
二人の声を背で聞きながら、わたしはいつもより早足でその場を離れたのだった。
ナンシーさんの声が耳に残っている。
ジル先輩、と甘える可愛らしい声。真っ直ぐな好意が……眩しかった。
羨ましかった。
恋が出来る、あの人が。好きな人に好きと伝えられる、あの人が。
ジルがその好意に応えていない事に、安堵をしている自分に気付いて、そんな自分の醜さが気持ち悪い。
恋をしないと言いながら、
胸の奥が痛い。
頬に触れてくれた温もりのせいなのか、自分の醜悪さを自覚しているせいなのか、もう自分でも分からなかった。
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