14.恋の色

 ジルがシガレットケースを取り出して、わたしに断りを入れてから煙草を一本口に咥える。指先に灯った炎が光の軌跡を描いて消えていくのが、まるで流れ星みたい。


 すっかり慣れてしまったミントの香りが心地よくて、わたしはゆっくりと深呼吸をした。

 ジルは紫煙を吐きながら煙草を持つ指先で、わたしの髪を指さしている。


「今日の髪飾りもフィーネちゃんの作った花でしょ? 可愛いね」

「ありがとう。百合で作った髪飾りの試作品なんだけど、中々上手く出来たと自分でも思うのよ」


 ジルに良く見えるよう、腰を捻るようにして後ろ髪を向けた。今日の百合は自分でも可愛らしく出来たと思うから、ジルが気付いてくれて何だか嬉しい。


 気分良くグラスを手にしたわたしは、白ワインを一口飲んだ。先程の赤ワインよりも少し甘いワインで、これはまた飲みやすい。


「刺繍っていえばさ、ちょっとフィーネちゃんに頼みたい事があるんだよね。忙しいのは分かっているから、出来たらでいいんだけど」

「頼み事なんて珍しいわね。なぁに?」

「刺繍をしてほしいんだ。フィーネちゃん以上に刺繍が上手な人は知らないから」


 それは買い被りだけれど、確かにジルより得意なのは間違いない。

 先程のやり取りを思い出して、笑い声が漏れた。


「ジルに出来なくて、わたしに出来る事ね? 無いと思っていたけれど、実際にあったみたい」

「もっと他にもあるんだけどね。お裁縫はどうも苦手で」

「知ってる。でもわたしだって裁縫でも苦手なものがあるから、別に恥ずかしい事じゃないわ」

「レース編み?」


 ジルが笑いながら言うものだから、わたしは舌を出して見せた。

 苦手なものは誰にでもあるのだ。そう、だからレース編みが出来ないお針子だって居てもおかしくない。


「フィーネちゃんはからレース編みが苦手だもんね」

「その分、刺繍が得意だからいいのよ。それで? 何を刺繍してほしいの?」


 グラスを置いて問いかけると、灰皿に煙草の灰を落としたジルが身を乗り出してくる。ミントの香りが強くなって、わたしの酔いもすっきりするようだった。


「魔石には魔導回路っていう式が組み込まれているんだけどね、それを刺繍に出来ないかって相談を受けたんだ」

「魔導回路を刺繍で……?」

「布にも糸にも魔力を染み込ませた特殊なものを使って貰うんだけどね。例えば火と風を組み合わせて温風を出す魔導回路を布に刺繍にしたら、その布自体から温風が出るのかっていう実験なんだ。他にもいろいろあるんだけど、どれも細かい刺繍になるから、フィーネちゃん以外に思い当たる人がいなくてさ」

「面白そうね。いいわよ」


 刺繍花作りばかりしているけれど、平面に刺す刺繍だって得意だ。どんな式になるのか想像もつかないけれど、やってみたい。

 わたしの返事が予想外だったのか、ジルが驚いたように目を丸くしている。短くなった煙草を灰皿に押し付けて消すと、困ったように眉を下げた。


「大丈夫? 忙しいのに、無理していない?」

「無理なら無理って言うわよ。あんたの事だから、少し日数はくれるんでしょ?」

「それはもちろん。……あまりにも簡単に承諾してくれるから、びっくりしちゃって」


 ステーキの付け合わせだったにんじんのグラッセをフォークに刺しながら、わたしは思わず笑っていた。口に運んだそれは丁寧に煮てあるのか、とても柔らかくて甘かった。


「面白そうっていうのもあるけど、わたしに出来そうなことだったから。それに……頼って貰えるのも嬉しいしね」

「ありがとう、フィーネちゃん。お礼は必ずするからね」

「そういうのは刺繍が成功してからね。図案が出来たら連絡して──っ!」


 フォークをお皿に戻した、その時だった。

 強い風が通りを駆け抜けていく。まるで冬が来てしまったのかと勘違いするくらいに冷たくて、肌を刺すような鋭さを帯びた風だった。

 肩を竦めるように身を縮こまらせて、その風が通り過ぎていくのを待つしかない。


「大丈夫?」

「ええ……もう秋なのね。毎年この風にはびっくりしちゃう」


 これは秋の風物詩。

 不意に冷たい風が唐突に駆け抜ける。おばあちゃん達は【豊穣女神の溜息】なんて言っているけれど、わたし達は【秋呼風あきよびかぜ】と言っている。この風が吹くと秋が来たと実感するのだ。あっという間に木々も色付いて、寒くなっていくのだろう。


「これ、使って」


 これからの寒さを思って溜息をつくわたしに、ジルが差し出してきたのはストールだった。ジルの首に巻かれていたもので、露わになった白い首筋が寒々しい。


「いいわよ。ジルの方が寒そうだもの」

「僕は寒がりじゃないって知ってるでしょ。体を冷やしたらいけないから」

「……ありがとう」


 きっとジルは引かないし、有難くそのストールを借りる事にした。首に巻くとほんのりと暖かい。それだけで何だか胸の奥までぽかぽかと暖まってくるようだった。

 今年はマフラーを新しく編もうと思っていたけれど、ジルにも編んであげようか。前に編んだら喜んでくれたから、きっとまた喜んでくれる。


 そんな事を考えながらワインを楽しんでいたわたしの事を、ジルが真っ直ぐに見つめてくる。紺碧の瞳が僅かに翳りを帯びた気がして、どうかしたかと首を傾げた。

 

「そういえばさ、口説いてきた問屋さんって誰? あと警邏隊ってまさか同級生のあいつだったりする?」

「っ、ごほ……っ! 何よ、急に」


 予想外の問い掛けに、ワインを噎せてしまった。ナフキンで口を拭きながら咳き込んでいたら、苦しさに涙が滲んでくる。

 一体どうしてそんな事を聞いてきたのか。


「いや、さっきリーチェちゃんが教えてくれてさ」


 リーチェとのやり取りは、わたしには内緒にするのかと思っていたのに。

 内心の動揺を隠しながら息を整えて、今度はさっきまでよりゆっくりとワインを口にした。


「別に……口説かれたってわけじゃないのよ。食事に誘われただけで」

「それを口説かれたっていうんだよ。警邏隊は?」

「同級生のあの人だけど……断ったわよ」


 わたしの言葉に小さく頷いたジルは、また煙草を取り出している。指先に生み出した炎で火を灯すと、深く吸い込んで、それからゆっくりと紫煙を吐き出した。

 それが……いつものジルではないようで、まるで、そう……何か、焦っているような、そんな雰囲気さえ纏っていた。


「……フィーネちゃんが恋をしないって、それは分かっているんだ。それでもさ、君の一番近くに居るのが僕ならいいって、そう思ってた」

「ジル……?」

「でも、そうも言ってられないのかな」


 真っ直ぐに向けられる眼差しから、目を逸らす事が出来なかった。

 溺れるくらいに深い、青の瞳。


「フィーネちゃんの意思を尊重するつもりだけど、僕は君の傍にずっといるよ。それだけは譲らない」

「でも、わたしとずっと一緒になんて……それは無理よ。ジルにはジルの幸せがあって、いつかは誰かとお付き合いをして、結婚して……そういう未来だってあるじゃない? 幼馴染だからって、いつまでもわたしに付き合わなくてもいいのよ」


 脳裏にナンシーさんの姿が思い浮かんだ。

 少し寂しいけれど、いつかはジルだって──


「そんな未来いらないね」


 きっぱりと紡がれた言葉に、息が止まるようだった。

 言葉を探して口を開くけれど、何を言っていいのか分からない。ワイングラスを口に運ぶけれど、もう既に空っぽだった。


「恋っていう形じゃなくてもいい。僕が想っているだけでもいい。君が僕を幼馴染としてしか見ていなくたっていいんだ。君の隣に居るのが僕ならば」


 ジルの瞳に、ジルの声に宿る色に気付きたくなかった。

 この関係がそんな形で終わるのなんて、認めたくなかった。


 震える吐息で唇が渇く。

 何と言っていいか分からなくて、軽くなったワイングラスを握り締めているしか出来ない。

 そんなわたしを見て、ジルは──にっこりと笑った。

 いつものような、穏やかで優しい笑顔だった。そこにもう、恋の色は無かった。


「なんてね。デザートはどうする?」

「え、あ……そうね、選んできましょうか。一緒に行くでしょ?」

「うん。温かいものが食べたいよね」


 ジルと一緒に立ち上がる。

 これが用意された逃げ道だと分かっていたけれど、わたしは甘えた。狡いと分かっていても、胸の奥が軋んでも、それ以外は選べない。

 まだ賑やかなお店へと目を向けながら、気付かれないようにゆっくりと息を吐いた。


「パンケーキを売っているお店があったわよ。焼きたてなら温かいかもね」

「生クリームと蜂蜜をたっぷり掛けてもらおうか」

「わたしは栗を使ったパンケーキにする」

「何それ、美味しそう。そんなのあった?」


 軽口を叩きながら、並んでお店へと向かう。

 わたしの狡さを嘲笑うかのように、また秋呼風が吹いた。寒さに負けて顔を埋めたストールは、ジルのコロンの匂いがした。

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