9.雨の夜は

 強い風が大きな音を立てて窓を揺らす。その音にはっと意識を戻したわたしが窓を見ると、雨が窓を叩き始めるところだった。あっという間にその勢いは強くなって、硝子を伝い落ちる滴は太い筋へ変わっていく。

 強張ってしまった体を解す為に大きく伸びをすると、ふぅと小さな息が漏れた。


 手元には刺繍セット。枠の中には赤くて細い花弁を持つダリアが刺繍されている。細かい刺繍だから集中しすぎていたらしい。時計を見ると、もう日付が変わってしまっていた。


 日中の仕事中だけではとても追いつかなくて、部屋に戻ってからも残業をして刺繍の花を作る毎日だ。とても忙しいけれど充実しているのだから、自分は本当にこの仕事が好きなのだと実感する。


 刺繍職人は他にもいるけれど、立体刺繍を作れる職人は多くない。刺繍花を作る腕は自分で言うのもなんだけれど、中々のものだと自負しているし両親にも認められている。だから今回のドレスの肝となるこの刺繍花作りは、わたしに一任されていた。


 そうなると時間が足りなくて、刺繍花作りに専念していても、それでも足りない。睡眠時間は削りたくないけれど、夢中になってしまうと時間を忘れてしまう。……体を壊しては余計に遅れてしまうから、その配分も考えないといけない。


 そう思って、今日はここで切り上げる事にした。

 ピンクッションに針を刺し、刺繍セットを片付ける。椅子の背凭れに背を預けてまた大きく伸びをすると、背中がぼきぼきと鳴ってしまった。



 作業机を離れたわたしは部屋の明かりを消した。ベッドサイドの小さなランプにだけ明かりを灯すと、開けたままのカーテンを閉めるべく窓へと近付く。


 全てを塗り潰すような、強い雨。

 窓に叩きつけられる雨滴は硝子を濡らして、その先に見える世界を歪ませているようにも見える。


「……ひどい雨」


 ぽつりと零れた声はあまりにも感傷的な色をしていて、自嘲に笑った。


 雨は好きじゃない。

 前々世、わたしがまだ……恋をしていたあの夏も、よく雨が降っていたから。

 あの人が死んでしまったあの夜も、こんな強い雨が降っていた。


 これ以上雨に濡れる世界を見ていられなくて、勢いよくカーテンを閉める。

 足早にベッドへ向かって飛び込むと、石鹸の香りが鼻を擽った。


 全て、わたしの見る夢だったらいいのに。

 あんな前世も前々世もなくて、わたしの幻想で、昔読んだ何かの話に引き摺られているだけだったらいいのに。


 上掛けの中に潜り込み、膝を抱えるように丸くなる。自分の鼓動が響くようなこの態勢がひどく落ち着くのだ。


 恋はしない。

 死にたくない。

 好きな人が死ぬ姿を見たくない。

 わたしが死ぬ姿を見せたくない。


 でも……恋をして、幸せだったあの頃の記憶が胸を焦がす。

 人を好きになって、ふわふわとする気持ち。不安や寂しさで泣く夜もあったけれど、それ以上に幸せで、嬉しくて、温かな感情で満たされていた。


 冷たかったシーツが、少しずつ温まっていく。

 わたしの体温が広がっていく、この感覚が好きだ。さざ波のような眠気がゆっくりと体を包んでいく。小さな欠伸が漏れた。


 恋をしていない今だって、幸せだと思う。

 仕事に満足しているし、家族仲だって良好だ。友人だっているし、不自由ない暮らしもしている。

 でも──


「死ぬまで、一生……怯え続けるのは嫌だわ」


 恋をしないよう、そんな感情を抱かぬように心の奥に鍵をかけて。

 それで本当に安心していられるんだろうか。それをずっと続けていられるんだろうか。


 臆病な自分に溜息が漏れるのと同じくらい、だから死なないで居られたんだと、そうも思う。


「……どうしたらいいのか。自分の事なのに、もう──」


 ──よく分からなくなってくる。



 気持ちを切り替えようと、先日行ったばかりの植物園の事を思い返した。

 夢うつつの中に咲き乱れるのは、色鮮やかな花々たち。


 私を見てとばかりに咲き誇っていたダリア、ひまわり、ユリ、クレマチス。カンパニュラの柔らかな紫を表現出来たらきっと素敵。

 そしてやっぱり美しかったアムネシア。薔薇の中でもアムネシアが一番好きだ。夕と夜の合間を切り取ったような色合い、そして繊細な花弁。


 美しい花を思い浮かべると、心が落ち着いてくるようだった。

 考えても仕方がない。為るようにしかならないし、恋をしないと決めたのはわたし。


 迷う事がこれからもあるかもしれないけれど……その度に、悩めばいい。

 こんな感傷的になるのも、夜のせい。それから──雨のせいだもの。


 欠伸を漏らすと浮かんだ涙もそのままに、わたしはゆっくりと目を閉じた。

 もう少し花を思い浮かべて……なんて思っていたのに。


 浮かんできたのは、ジルとナンシーさんの姿だった。

 ジルにぎゅっと抱き着いて寄り添うナンシーさんの瞳は恋の色を宿していた。


 ジルはあんな風にしていたけれど……いつかはナンシーさんに応えるのかしら。

 そうしたらもう、今までのように一緒に遊んだりは出来ないけれど、それも仕方のない事だろう。


 そう分かっているはずなのに、胸の奥が少し痛むのは寂しいからだ。小さな時から一緒だった幼馴染が、手の届かないところにいってしまう感覚。


 わたしは目を閉じたまま枕を引き寄せて、ぎゅっと抱き締めた。大きな枕だから縦にすれば頭を乗せながらも抱き締める事が出来る。


 今までの距離が近すぎたのだろう。

 もうわたし達も二十歳で、いい大人だ。恋をしないと決めているわたしはともかく、ジルはいい人を見つけていくのだ。


 ……やっぱり寂しくて、枕を抱く腕に力が籠った。

 その寂しい気持ちを口にしてはいけないと、心の奥では分かっている。


 雨がやけに耳につく、そんな夜だった。

 わたしの内側まで浸食していくような、そんな雨。

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