10.【シオン】と【ノクス】

 夢だと分かった。

 もう何度も、繰り返し見ている──悪い夢。


 わたしの、前々世を辿る夢。

 ああ、またこの夢かと溜息が漏れる。わたしは舞台の客席に一人座り、大きな白幕に映し出される記憶を眺めている。何度も繰り返される、この光景。

 席を立つことは許されていない。

 顔を背ける事も、目を閉じる事も許されない──悪い夢。



 夢の中のわたしは、地方にある小さな町を治める町長の娘だった。

 町長である父は外ではいつもにこやかにしていたけれど、家の中では暴力的で、自分以外の全てを見下しているような人だった。

 母はそんな父に従順に従って、兄は父そっくりになっていって、わたしは……息を潜めて部屋で過ごす事が多かった。


 ある時、わたしが町の図書館に出る時の事だった。

 外面のいい父がわたしの荷物持ちとして、雇っている傭兵の一人を付けてくれたのだ。娘を大事にしているというアピールと共に、わたしの行動を監視する目的もあったのだろう。


 彼は赤い髪が鮮やかで、空のような青い瞳が美しい人だった。

 名前はノクス。首筋に入れた薔薇の入れ墨が大人っぽくて格好良くて、いつもちらちらと見てしまっては笑われていたものだ。


 彼は父の覚えも良かったから、わたしが外出する時はいつもノクスをつけてくれるようになった。

 だからわたしが外出する頻度も、増えていった。彼と過ごす時間は、とても楽しいものだったから



 ノクスは色んな国を渡り歩いている人で、わたしの知らない様々な事を教えてくれた。

 竜の治める国、魔女の住む国、海に囲まれた小さな島国──この町の事しか知らないわたしにとって、彼の話してくれる全てがどんな物語より輝いていたのだ。


 そんな彼に惹かれて、奇跡のように想いが重なって、二人で過ごす時間が増えて。

 あれが間違いなく、【シオン】の人生で最も幸せな時だった。


「海はノクスの瞳よりも青いのかしら」

「さぁ、比べた事がないから分からないな。でも俺は、さくらんぼみたいなシオンの赤い瞳が好きだよ」

「そんな喩え、初めてされたわ」

「センスがないのは自覚してる」


 図書館からの帰り道、夕陽に照らされる石畳で出来た道をゆっくりと歩く。

 雨上がりの空はいつもよりも夕焼けが綺麗。雲も空もピンク色に染まっている。


「この黒い髪も、目元にあるほくろも可愛いと思ってる」


 ノクスの声が砂糖菓子みたいに甘くって、それだけでわたしの鼓動は早鐘を打つ。

 彼の手にそっと伸ばした指先が触れる。ぎゅっと握り締めてくれた手が温かくて、大きくて、わたしもきつく握り返した。


 この時間がずっと続けばいいのに。

 そんな願いを打ち壊したのは──父からの『領主様に後妻として嫁げ』という命令だった。

 この町が手厚い支援を受ける為に、わたしは差し出されたのだ。



「逃げよう、シオン」


 青い瞳が真剣な光を湛えている。

 真っ直ぐにわたしを見つめたノクスは、わたしの両腕を掴みながらそう言った。


 わたしもそれに応えたい。でも──


「だめよ、あなたまで危険な目に遭う必要はないもの。……ノクス、お願いだからこの国を離れて。わたしの事は忘れて、自由に生きて、幸せになって欲しい」

「君がいないと意味がないんだ。危険でもいい。死んだって構わない」

「そんな事を言わないで。あなただけなら──」


 涙が浮かぶ。

 本当はノクスと一緒に行きたい。でも、不幸になると分かっていて、彼を巻き込むなんて出来ない。

 そんなわたしの思いを全て知っているかのように、ノクスは引いてくれなかった。


「領主の話は聞いているだろう? 妻に迎え入れられるのも君で四人目だ。美しい妻を甚振って、尊厳も踏み躙って、それで最後は殺してしまう。これは噂じゃない、本当の事なんだ」


 それを聞いて、体が震えた。

 噂話は父も知っていたはず。それでも構わないのだろう。使い道があったと喜んでいるかもしれない。


 甚振られるのは怖い。そんなところに嫁ぎたくなんてない。

 何よりも……わたしはノクスと添い遂げたかった。


「シオン、お願いだ。君の命を俺にくれ。俺の命も君に捧げる。これで死ぬ事になっても、俺は君を諦められない。辛い思いをさせるかもしれない。怖い目にだって遭うだろう。だからこれは……俺の我儘だって分かってる。頼む、シオン」

「……あなたと一緒に行くわ。命を落としてしまってもいい。あなた以外の人に嫁ぐなんて、死んでしまうのと同じだもの」


 ノクスの覚悟に、わたしの覚悟も重ねた。何があっても、最期まで彼と一緒に居たい。

 

 瞬きと共に涙が零れた。

 それを唇で掬い取ったノクスは、嬉しそうに顔を綻ばせるものだから、わたしもつられるように笑ってしまった。



 屋敷を逃げる日は、雨の夜だった。

 最低限の持ち物だけで、外套を深く被って、わたし達は夜闇に紛れた。


 部屋のベッドには毛布を詰め込んで、寝ているように見せかけたからきっと朝まで気付かれる事はないだろう。今までだって、夜にわたしの様子を見に来た人なんていないもの。


 だから大丈夫。

 そう思っていたのに──


 わたし達は町を離れた森の中で、父の追っ手に囲まれていた。

 どうしてこんなにも早く知られてしまったのか。そんな事はどうでも良かった。


 大事なのは、どうやってこの場を切り抜けるかだけ。


「……シオン。俺が道を開くから、君は逃げるんだ」

「そんな……逃げるなら、あなたも一緒に。言ったでしょう、死んでしまっても構わないって」

「これも俺の我儘だ。出来る事があるなら、まだあがいていたいだけだよ」


 ノクスが口端に笑みを乗せる。

 わたしの恋した優しい瞳に、少しだけ寂しさの色が宿っている。


「頼む、シオン。……来世で、きっと幸せになろう」


 ノクスはそれ以上、わたしの言葉を聞くつもりはないようだった。

 剣を抜いた彼はわたしの背後にいた傭兵達をまとめて切り伏せていく。


「行け!」


 叫ぶようなその言葉に押されるように、私は走り出した。

 雨によって柔らかくなってしまった土が、伸びている草が足を阻む。それでもわたしは走り続けた。


 結局わたしが逃げ切れる事はなく、追っ手に捕まってしまって……連れ戻された先程の場所で見たものは、血溜まりに沈む愛しい人の姿だった。



 捕まってから一週間。

 わたしは部屋から出る事を許されず、何をするにも監視の目がついていた。

 

 雇っていた傭兵に裏切られた苛立ち。従順でなければならない娘が反抗した事への怒り。

 それらに駆られた父は結婚式を目前に控えているにも関わらず、わたしの頬を平手で打った。

 お嫁に行くのだから暴力は……と珍しく母が言葉を掛けてくれたけれど、躾だと言って父はわたしを殴る手をやめなかった。そのうち、母も何も言わなくなった。


 わたしがやっと一人になれたのは、結婚式の朝だった。

 この地域特有の花嫁衣裳。白一色でも華やかなドレスにティアラを飾り、そこに顔を隠す薄いベールをかぶる。

 この一週間、大人しいというより無気力だったわたしに、監視の目も少しは薄らいだ気がする。もうあとは式を挙げて、領主の元に嫁ぐだけ。

 結婚式の日だという慌ただしさと、浮かれた雰囲気も関係しているのかもしれない。


 わたしは自室にいた。

 部屋の扉は大きく開かれているけれど、部屋の中にはわたししかいない。


 到着した領主を出迎える為に、屋敷の者全てがエントランスに集まっているからだった。

 領主がわたしを迎えに来るのに、その部屋に他の男が居るのは宜しくないと、今だけは監視役の傭兵もいない。


 ──わたしはこの時を待っていた。


 わたしの部屋は三階にある。

 庭に植えられている樹よりも高い場所。その窓から身を投げ出したら……きっと。


 確証はない。

 もしかしたら死ねない高さかもしれない。

 痛い思いだけをして、生き永らえてしまうかもしれない。


 それでも顔や体に傷や後遺症は残るだろう。そんな娘を嫁に迎え入れる事もしないと思った。


 ごめんなさい、ノクス。

 あなたが守ってくれた命を捨てるような真似をして。

 わたしが恋をしなければ、あなたは死なずに済んだのかしら。


 あなたのいない世界はこんなにも濁った色をしているの。

 その汚泥に塗れて心を失くすくらいなら、いま──


 部屋に向かってくる足音がする。

 わたしは窓辺へ駆け寄って、窓を大きく開け放った。


 今日も雨。

 空が悲しみに満ちているように見えるのは、わたしの心がそうだからだろうか。


 窓枠に足を掛け、身を躍らせる。

 冷たい雨がドレスを濡らして、わたしの意識はそこで暗転した。



 客席からその記憶を見終わったわたしは、深い溜息をついた。

 何度も見ている夢なのに、初めて見た時のような痛みが胸を貫く。


 好きな人が死んでしまうのは、もう嫌だ。

 これはきっと警告なのだろう。


 恋なんてしないようにと、わたしの心が言い聞かせているのだ。

 目を閉じると体が沈んでいく感覚がする。目覚めが近いのだと理解して、悪夢から解放される事に安堵した。

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