8.ジルの研究

 久しぶりに訪れた植物園は、どこか懐かしい匂いがする。幼い頃は祖母に連れられて、ジルも一緒によく来ていたっけ。

 そんな事を思い出しながら、芳しい花香を胸いっぱいに吸い込んで、それからゆっくりと深い息を吐きだした。

 温室の中は少し暑いけれど、汗ばむほどではない。それでもわたしは羽織っていたカーディガンを脱いで腕に掛けた。


「大丈夫?」

「ええ、平気よ。そういえば……ジルは今日、お仕事をしていたんでしょう? わたしに付き合っていて平気なの?」

「うん、暇だからちょっと行っていただけだし。研究所だってつちの日とようの日は休息日だからね」


 わたしの隣を歩くジルも、シャツの袖を肘まで捲っている。ひとつに結んだ青い髪を背に払うその様子に、随分髪が伸びたものだと思ってしまう。


「休日出勤なんてご苦労様ね。研究は忙しい?」

「好きな事だし、必要な事だと思っているからね。忙しいのも苦じゃないよ」

「何の研究をしているのかって聞いてもいいのかしら」

「もちろん。論文だって発表しているし、秘匿するものじゃないからね。フィーネちゃんはあんまり興味がないかなって思って、話をしていなかっただけだから」


 話をしながら通路を進む。

 人の数も多くなく、すれ違う事もほとんどない。この植物園は広いから、混雑するという事もそうそうないのかもしれないけれど。


 目を向けた先の一角では様々な色のダリアが咲いている。

 ダリアと言っても色んな種類があるようで、大輪の花は立体刺繍にしたら映えるかもしれない。……花弁が多くて作るのも大変そうだけれど、だからこそやりがいもある。


「別に興味がないわけじゃないのよ。聞いていいものなのかって迷うのもあったし……難しい話になると丁寧に説明してもらわなきゃいけないのが、ちょっと心苦しいだけで」

「踏み込んでこないのがフィーネちゃんらしいよね。……ダリアのスケッチする? 座ろうか」

「ありがとう」


 口にしなくても分かってしまうのは、やっぱり長い付き合いだからだろうか。

 ダリアの傍に誂えられているベンチに腰を下ろし、バッグからノートと色鉛筆を取り出した。ベンチの端っこに色鉛筆を置いて、ノートは膝の上。


「じゃあ研究の事を聞かせて。手は動いているけれど、ちゃんと聞いているから」


 赤い色鉛筆を手にしながらそう口にすると、ジルはいつものような穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。それを確認して、わたしはまずボールのような球状になっている種類のスケッチをする事にした。


「魔石ってあるでしょ。火や水、光、風……色んな魔法を閉じ込めている結晶体。それがあるから僕たちの生活は便利になっているわけだけど」

「そうね。すごく助かってる。それもジル達、研究員の方々のおかげね」

「まぁ元はずっと昔の偉大な魔導士が開発したことからなんだけどね。でもさ……魔石に出来ない魔法もあるんだ。それが……回復魔法なんだけど」


 ジルはわたしの手元を覗きながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。難しい専門用語を使わないでくれるのは有難い。一々、その意味を聞かなきゃいけなくなってしまうもの。


「回復魔法は治癒院でしか受ける事が出来ないものね」

「そう。でもそれだと間に合わない命もある。薬草を煎じて薬にしたって、大きな怪我には効き目も薄い。回復魔法を使える人自体が少ないから、治癒院に頼るしかないのは分かっているんだけど……もし、魔石に回復魔法を込める事が出来たら救える命だって増えるでしょ」


 ジルの言葉に頷きながら、色鉛筆を走らせていく。

 もし……前々世の時に、そんな魔石があったなら。わたしを守って死んでしまったあの人は、命を取り留めていたかもしれない。


 ジルはベンチの背凭れに深く体を預けながら、空を仰いだ。わたしもつられるようにして顔を上げるけれど、見えるのはドーム状の温室の屋根ばかり。半透明のそれは空の青をぼんやりとしか映してくれない。


「全てを癒やす上位の回復魔法じゃなくてもいいんだ。怪我なら傷口を塞ぐだけでもいい。病気なら症状を緩和させるだけでもいい。最終的な治療は治癒院に任す事になっても、応急処置をもっとしっかりと出来るようになれば……なんて、そんな研究をしてる」

「素敵な研究だと思うわ。旅をする人、狩りをする人、治癒院にすぐには行けない人達もそれがあればきっと安心できるものね」

「うん。……ありがとう、フィーネちゃん」


 穏やかな声に目を瞬いた。

 お礼を言われるような事は何もなかったと思うんだけど……。そう思って顔を上げると、ジルはとても優しい顔でわたしの事を見つめていた。

 紺碧の眼差しがまるで静かな波のよう。


「お礼なんていらないのに」

「でも、君がそう言ってくれるから……僕の考えている事は間違っていないって、そう思えるんだ」

「……バカね。自分の事は自分で信じてあげなさいよ」

「はは、そうだね。でも嬉しかったから」


 あまりにも真っ直ぐな言葉に眩暈がしそう。

 胸の奥が歪に軋む感覚がして、それには気付かないふりをした。


 この男はいつもそうだ。

 恥ずかしくもなく、思ったままに、眩すぎるくらいに真っ直ぐな言葉を紡いでいく。


「……いつか本当に刺されそうな男ね」

「なんで?!」

「無自覚タラシ」

「いや、フィーネちゃんはたらしこまれてくれないでしょ」

「たらしこむつもりもないくせに」


 笑って、再度ノートに視線を落とす。

 赤、それからオレンジで花のイラストを完成させていく。ベンチを立ったわたしは柵の側まで近付いて、これから図案を起こしやすいようによくダリアの花を眺めた。花弁の質感、色が変わっていく様子を記していくのは胸が踊る。


「フィーネちゃんは恋をしないんだもんね」


 ノートを閉じたわたしは振り返って頷いた。

 ジルにも繰り返し伝えてきたから、恋をしないと知っている。その理由を告げる事は出来ないけれど。


「そうよ。さて、次の場所に行きましょうか。珍しい花が見てみたいわ」

「じゃあこっち。案内板で確認しておいたんだ」


 ノートと色鉛筆をバッグにしまい、ジルの後について歩く。

 図鑑で花を見るのもいいけれど、こうして実物を見るのもやっぱり素敵。


 それからわたしは閉館時間ぎりぎりまで色んな花を見て回り、ジルを付き合わせる事になったのだけど……彼はいつもみたいに穏やかな笑みを浮かべるばかりで、嫌な顔なんてちっとも見せなかった。

 有難かったから、今度はお酒でもご馳走しなくちゃ。


 そう思うくらいに、充実した時間だった。

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