◆5-3
黒い粘性の澱は、その塊の天辺から、緩い噴水の如くどぶどぶと溢れていた。
もしかしたら嘗て人だったのかもしれない、というぐらい原型を留めていないその姿は、身をめりめりと分けて、緩慢な動きで腕のように伸ばしてきた。威嚇するように、或いは、縋りつくように。
それが動くことに呼応したように、床の黒海が泡立つ。澱に飲まれた虫や鼠が、ごぼごぼと沸き立ち、ヤズローの張った銀糸を登ろうとして、その鋭さにすぱりと切られ、落ちた。しかし彼らの数は多く、糸も段々と黒ずみ、千切れかけ始めている。
「あまり時間はかけられません。お覚悟を」
「ええ、解ったわ。――グラニィ! 紫花! そちらにも余波が行くかもしれないわ、注意して!」
糸を登るのは無理だと思ったのか、黒い波が階段の僅かな破片を飲み込み、更に上階へと触手を伸ばしている。瘴気や澱に中てられたものは基本的に光を嫌う。弱ければ逃げて散るが、光に耐えきれるだけの質量があるのならば、逆に光を覆うために動く。狙われるのはヤズローの灯篭と、上階の明かりだ。
ラヴィリエが警告を発すると同時、ヤズローは主の娘の体を抱え直し、銀糸を蹴った。極細の糸の上を銀具足で滑るように走り、飛び掛かってくる黒虫達を無造作に手刀で切り飛ばす。じゅわりと嫌な音がするが、銀の腕は傷もつかない。
「痛くは無いのね、ヤズロー?」
「ご心配なく。それより、剣のご準備を」
「あらいけない」
腰を抱えられたまま、ラヴィリエが剣を抜いた。そんなに広くはない地下の部屋だ、あっという間に濃い澱の塊に肉薄する。どろどろとした澱にへばりつかれ、苦し気に蠢くのは触手――否、纏わりつかれた人の腕だ。ラヴィリエの目から見える限り、どうも三本以上ある。
「やっぱり三人一緒な気がするわ、解るかしら?」
「少々お待ちを」
短く答え、ヤズローは左目――紫一色の瞳を澱の塊に向けた。昔眼球を失って、代わりとして嵌めた紫水晶の瞳は、魔操師特製の義眼だ。視力を保つばかりか、この世ならざるものを見通し、瘴気を退ける効果すらある。流石に澱自体を消し飛ばすことは出来ないが、澱の中に何がいるかぐらいは見通せる。
瞳に睨まれた澱の塊が、怯えたように震えた。大きな塊がぐにゃりと撓み、三つに割け、左右が這いずる。それは巨大な芋虫のように蠢き、敵と見た相手に向かい始めた。既に侵食され、魔の者になり果てているのか。ヤズローは僅かに眉を顰め、拳を握り構える。
「お嬢様、奥の真ん中、左胸上、恐らくそこまで深くはありません。まだ間に合うでしょう。風が吹いたら投げます」
「解ったわ、ではそれまで護衛をよろしくね」
「仰せの通りに」
不意に床の波が撓み、足場の糸が無造作に千切り取られた。がくりと体が傾ぐがヤズローは驚きひとつ見せず、主の娘を抱えたのとは別の手指を軽く振り、其処に伸ばした糸を掴み、ぐるんと体を反転させ飛び上がると、地下室の天井に難なく着地した。そこにも既に銀蜘蛛が糸を張っており、足を引っかけて体重を支えている。
そしてヤズローは緩慢に近づいてくる澱の塊を睨みつけ、明確に怒りを込めて叫んだ。
「――ミシェル・ドゥ・ヴァロワ侯爵令息、及びルイ・ギレム辺境伯令息!」
鋭く飛んだ声に、澱の塊は怯えたように震えた。もし彼らがあの中にいるのだとして、その意識を目覚めさせれば剝がしやすくなる。事実、腕かと思われた太い片割れ達は蠢動し、拒むように中心部から離れようと足掻き始めた。
『ゴボ・オゴ・ゴォボアアアア……!!』
人とは思えぬ悲鳴が、澱が泡立ち開いた穴の中から響く。怒りに震えているのか、助けを求めているのか解らないが、この状態を拒んでいるのは解る。それならば、もっと楽になる。
「お嬢様、暫しこちらでご辛抱を」
「あら? 仕方ないわね、待つわ」
するりと腕を解かれても自分の体が浮いたままのラヴィリエは少し驚くが、肩口に現れた銀蜘蛛に理解を得て笑みを返す。ハンモックのように糸によって彼女の体を確保したまま、ヤズローは躊躇わず黒海の上に落ちた。糸は全て主の娘を守るために使っているため、当然澱の中に銀具足の足をつける羽目になり、嫌な音と煙が巻き起こるが、気にした風も無く駆け出す。足が溶けるよりも先に済ませれば良い。
ぐにゃぐにゃと逃げ出す一塊、暴れるままにこちらに向かってくる一塊。一瞬悩むが、まずは迎撃が先決だ。泥人形のようなそれが緩慢と向かってくるのを捉え、右腕を一度軽く振り、機能を解放させる命令を紡ぐ。
「
ばつん、という鋭い音と同時、右腕の手甲が弾け、形が変わる。鋭い刃を持つ巨大な大鋏だ。魔操師特注の魔銀製であるそれは、並の石壁ぐらいならば真っ二つに出来る。
「グラニィ、ひとり上に逃げていくわ! ヤズロー、手加減はしてね!!」
上から主の娘の鋭い命令が飛ぶ。勿論その命を違えるつもりはないが、手加減をするつもりもない。何せ、ヤズローの水晶眼には此処までくればもう見えている。この分厚い澱の下にいるのは、辺境伯令息の方だ。
「――お嬢様の命に感謝しやがれ。そうでなければぶち殺していた」
耐え切れず地下街育ちの悪罵を漏らしながら、右腕を思い切り振る。澱の衣を一息に切り裂き、露になった体に思い切り蹴りを叩きこみ、その体を壁まで吹き飛ばす。主の娘の髪を無遠慮に扱った罪に対して、金髪を刈り取ったぐらいでは腹の虫が収まらなかったのだ。
×××
上階に上がってくる虫達を、骸骨兵が踏みにじり、手持ちの骨の剣で潰す。しかしその澱は散って瘴気となり、骸骨兵達の骨を蝕んでいく。青白い眼窩の炎がじわりと黒く染まったのを確認し、グラナートは扇を振った。
「
呪文に応え、骸骨兵がぐずりと崩れ落ち、骨に戻る。再び新しい兵士を呼び出すが、グラナートの息も切れ始めていた。それでも引くつもりは一切なく、後ろにいる紫花に鋭く命じる。
「早くなさい、紫花!」
「急かすなヨ……!」
それだけ言って、紫花は床に両膝をつき、ずっと噛んでいた薄荷の葉をぺっと吐いた。当然吐き気は収まっておらず顔色も悪いが、息を大きく吸って歌い出す。原初の七竜に呼びかける歌を。
『――
ひゅう、と風が動いたことを確認し、グラナートは戦場に向き直る。骸骨兵に関わらず
『グラニィ、ひとり上に逃げていくわ!』
「!!」
奥から響く声と同時、澱の海が大きく持ち上がり、そこから上がってきた海魔の如き悍ましき姿。澱に塗れたまま我武者羅に逃げようとしているのだろうが、迷惑この上ない。そしてあんな澱の塊には、骸骨兵程度あっという間に飲み込まれるだろう。
「ッ――」
僅かな怯えを噛みしめて、グラナートはその場に留まる。ここで退くなど、貴き者として、またフルゥスターリ家の息女として許されない。否、それより何より、自分が逃げれば犠牲になるのは紫花であるし、自分が傷ついても彼女が傷ついても、きっとラヴィリエは嘆くし悲しむだろうと、解ってしまったので。
「――無礼者ッ! このわたくしをグラナート・ゴールヌィ・フルゥスターリと知っての狼藉ですか!」
だからこそ、声を張り上げて己の名を名乗る。この矜持さえあれば、自分は如何なる相手にも立ち向かえる。そして骸骨兵では駄目だ、もっと強く、自分達を守る壁となるものを呼び出さなければ。
「
呪文は知っているが、召喚に成功したことはない、死者の魂が埋め込まれた動く鎧。今自分が思いつく、思い出せる、一番強き壁を。
「
制服の下に付けてきた、護符である黒曜石の首飾りを引き千切り、床にばらまいて触媒とする。もう二度と使えなくなるが構うものか。
「
力ある言葉に応え、それは来た。床に神紋で描かれた黒い陣が広がり、湧き上がる瘴気の帳の中、それよりも黒い鎧を纏って。
かしゃりと僅かな金擦れの音を立てるだけで、それは其処に立っていた。豪奢な黒い全身鎧、穴だらけの血色の外套、構える槍は穂先から軸まで黒曜石。優にグラナートの二倍を超える大柄の体には、ただ首だけが無く、その穴からめらめらと青白い炎を燻らせていた。
「あ――」
自分が呼び出したものがなんであるか、ようやく認識できたかのように、ぺたんとグラナートの膝が折れる。彼女の現在の実力では本来有り得ないものを召喚してしまったのだ、血肉だけでなく魂の一部が削れてしまったような脱力感を堪えて、目の前に立つ黒き壁を見上げる。
首のない黒騎士は、怯えたように止まってしまった澱の塊を、槍の軸で無造作に払った。何の慈悲も遠慮もなく。ぶん、という風切り音の後、黒い泥の塊は塔の壁にべしゃりと張り付いて、落ちた。広がって消えていく澱から瘴気が立ち昇り、充満していく。それに気づいて何とか立ち上がろうとしたグラナートの細い体が、甲冑に包まれた腕で軽々と抱き上げられる。
「、ウー」
思わず彼の名を呼ぼうとした瞬間、ぐずりとその鎧が罅割れ、崩れる。不完全な術ではもう存在を留めるのが限界だったのだろう。それでもその騎士は、グラナートを支えてその場から数歩離れ、完全に崩れ消えた。――彼女を射線から逃がすために。
黒き鎧が完全に搔き消えた瞬間、嵐が吹き荒れた。
×××
『風竜様、風竜様。姿無き、されど牙も爪も鱗も有り』
吐き気を堪え、紫花は歌を続けていた。瘴気に喉が締め上げられて、息を吸うのも辛いが、床に爪を立てて必死に歌う。
姉や妹ならば、一節どころか、一息吐くだけでこの程度の瘴気、燃やすことも流すことも出来るだろう。知っている、自分にそこまでの才は無い。これだけ声を張り上げても、時間をかけても、姉や妹のようにはとても出来ないと知っている。
『風竜様、風竜様。冷たき北、熱き南、強き東、寂しき西――』
だからどうした、と言える。たかがそれだけのことで、今歌わない理由にはならない。この国で初めて会った少女達は、こんな出来損ないの息吹使いを褒め称え、瘴気避けも出来ない自分に当然のように一番大事な仕事を任せてくれた。
『風竜様、風竜様。悪しき障り、忌まわしき澱、混沌の海を越え賜え……!!』
目の裏がちかちかと瞬いて視界がぶれるが、その中でもグラナートが何かに運ばれていくのは見えた。どうやら射線を理解して逃げてくれたらしい。もはや何を憂うこともなく、紫花は叫んだ。唇の前に集まっていく巨大な風の球を、正しく竜の
「――全部、吹っ飛べェ!」
世界を形作る肉、七竜のうちの一翼、一番気紛れで、姿すら持たぬ風竜オーフエレの力、竜巻の如き突風が炸裂した。
×××
地下に叩き込まれた風圧が、澱を巻き上げて吹き飛ばす。粘性のそれは散り散りとなり、瘴気となって吹き飛ばされる。
ヤズローが蹴り飛ばしたギレム辺境伯令息が壁際に叩きつけられると同時、最後まで留まっていた塊の澱も半ば引きはがされた。その下に覗く、怯えたような瞳を見た瞬間、ラヴィリエは剣を振るって自分を支える糸を切り飛ばした。
「ヤズロー、足場を!」
「仰せの通りに!」
落ちる主の娘の下に一瞬で走りこんだヤズローは、片手を伸ばして掌を掲げる。狭い其処を思い切り蹴って、風に煽られてラヴィリエは軽々と飛んだ。真っ直ぐに、よろめく最後の一人に向かって。
「ごめんあそばせ――マルク子爵令息!」
「……!!」
名を呼ばれ、怯えたように後退る青年は、未だその体を半ば澱に浸していた。彼の左胸元から、根を張ったような無数の黒い管が伸びていて、再び彼を包み込むように澱を吐き出し、蠢き始めている。
「駄目よ。それ以上澱に馴染めば、あなたの魂が危ないわ」
きっぱりと言い切り、ラヴィリエは剣を振るった。澱の管を僅かに傷つけたが、まだ芯までは届かない。
「――ど うして」
ごぼ、と口から瘴気を吐き出しながら、マルクは途方に暮れたように震えた声で囁いた。どうやら魂までは侵されていないと解り、ラヴィリエは安堵の息を堪える。いつも通り、笑みを見せたまま――不安や緊張を相手に悟られない為に、あくまで軽く、芝居がかった口調で問いに答えた。
「だって貴方を見捨てたら、とても寝覚めが悪いのだもの!」
もう一度、未だ澱が僅かに残っているのを踏まないように、踊るように回って剣を振る。もう一本管が切れたが、まだ届かない。まるで助けを拒むかのように、蕾の如く固く集まって閉じられている。
「うそだ。うそだ。うそだ。うそだ。うそだ」
よろめきながら小さく呟き続ける青年は、ラヴィリエに攻撃するでもなく、かといって逃げを打つわけでもなく、まるで心臓を守るように蹲ってしまう。ごうごうと未だ止まない風に、その姿を大分縮めているのに。
「何故嘘だと思うのかしら? 私は今此処に居るのに?」
流石にこれでは剣を振れず、困ったようにラヴィリエは肩を竦めた。無防備に両手を広げてみせるが、僅かに顔を上げて見上げてくる瞳には、恐怖と怒りと――諦めがあった。ラヴィリエは本当に困った、諦めている相手を助けるのはとても難しいからだ。
ラヴィリエの本気の困惑が伝わったのか、マルクは何処か、途方に暮れたように囁く。
「ぼくを、すきじゃない、のなら、そんなこと。できるはずが、ない」
自分が誰かに好かれているなど、微塵も信じていないと。その彼の言葉に呼応して、体の周りを黒い管が這い――その上から伸びてきた銀糸に、管ごと彼の四肢が絡めとられた。まるで蜘蛛の巣にかかった毛虫のように。
「あ、あああああ!」
悲鳴が上がるが、抵抗はない。瘴気によって糸は黒ずみ始めてはいるものの、まだ余裕がある。優秀な従者の手管ににこりと微笑みを見せてから、ラヴィリエは再びマルクに向かい合った。
「成程。貴方がそう出来る相手は、本気で愛した方だけなのね?」
あくまで穏やかに問いながら、ラヴィリエは剣を伸ばす。切っ先は、ぐずぐずと蠢いている胸元へ向けて。
「でも私は、そうではないの」
にこりと笑い、剣を振る。左胸を三度切りつけた結果、彼の胸元が三角に切り裂かれ、黒い管ごとぼろりと落ち、砕けた。
「私と貴方は違う人だから、貴方が出来ないことも出来てしまうのよ」
まるで観客に礼をするかのように、制服の裾を抓んで優雅に礼をするラヴィリエは微笑んだままだ。しかしその言葉はどこか、聞き分けの無い子供を宥めるようにも聞こえた。
「ひ、ど、い」
どうしてそんな恐ろしいことが出来るのか。
どうしてそんな勇ましいことが出来るのか。
どうしてそんなに、羨ましいことが出来てしまうのか。
本当に解らない、と言いたげに、僅かな呻きと嘆きを漏らして、がくりとマルクの体は倒れた。
「ええ、私は我儘で酷いのよ。勝手に貴方を助けるのだから。貴方がこれからどんなに苦労したとしても構わないし――」
彼の背負っている鬱屈など素知らぬ限りと言いたげに、ラヴィリエは微笑んだままで。
「でももし、私に助けを求めるのなら、私はその度に応えるわ。こう見えても私、貴族の端くれなのだもの」
彼の胸元から、ぽろりと小さな塊が零れ落ち、マルクの瞳は絶望に揺れたままゆっくりと閉じられる。
気づけば地下室の瘴気はすっかり吹き飛ばされ、思ったよりも狭く古びた壁と床を晒していた。
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