素っ頓狂な娘、求める声に応える
◆5-1
「お前のせいだ!」
罵声と共に、頬が熱くなり、床に叩きつけられる。更に腹に足先が突きこまれて、蹲った。
「お前の父親がいらん気を回したせいで、ミシェル様に恥をかかせたじゃないか!」
ルイの怒りに震える声が響く。如何にか目を開けると、顔を真っ赤にして息を切らせたルイと、その後ろでいつも通り笑っているミシェルがいる。彼は決して手を出さないが、ルイが自分の望むように動いている限り何も言わない。だから、この怒りはミシェルの怒りでもあるのだろう。再婚の話を持ってきたのは侯爵家側なのに。
父親同士が元々この学院の同級生だったからといって、三人の身分差は明白だった。ルイの父も自分の父も、ミシェルの父に阿り彼の望みを叶えることを至上としてきた。その結果、自分達も遠慮なく甘い蜜が啜れる、豊かな日々が約束されているのだからと、学院に入る時に厳命されていた。
「ふん! これに懲りたら二度としゃしゃり出るなよ!」
「マルク、父君にも伝えておいてくれ。今後の巻き返しに期待していると」
「ミシェル様は甘すぎます、これ以上こいつを好きにさせておくのは――」
勝手な事をずっと言い合っている二人の声を聞き流す。反論したところで、二人揃って潰しにかかってくるだけだ。だから笑って、黙っていなければ。二人が満足するまで、気絶したふりでもした方がいいかもしれない。
ここは、校舎からも寮からも遠く離れた、古い時計塔の地下。ずっと物置として捨て置かれていたおかげで、滅多に警備の見回りも来ない。つまり、助けがくるわけもない。そんなことは、マルクの人生ではいつもの事だったけれど。
嫌なことが終わるまで、黙っていること。それが彼にできる唯一の防衛手段で――
ぴちゃ、と僅かな水音がした。マルクの指先に何か、ぬかるんだものが触れている。血が出るぐらいの怪我をしてしまったんだろうか。重い瞼を如何にか開くと、
「――ぁ」
古びた棚の下から、とろとろと、何かが零れ出ている。薄暗い中で上手く判別できないが、血のような粘性のあるもの。しかし色は、随分と暗い。それが指に、触れて、塗れて、
「おい、さっさと起きろ! 急ぎ貴様の父君へ手紙を書け!」
罵声と共に襟首を掴まれ、ああ、嫌だなぁ、と思った瞬間、マルクの意識は黒に飲み込まれた。
×××
「流石に図書館の蔵書量は凄いわね! 本棚を確認するだけで卒業してしまうかもしれないわ!」
「もう少し絞って文献を探した方が良さそうですわね。禁帯出の書庫もあるようですし」
「成績優秀者じゃないと入れないんだってサ。こりゃあラビー頑張らないト」
「そうね、剣術訓練以外の成績は、二人共頼りにしているわ!」
「結果が出る前から頼るのはお止めなさいな!」
放課後の時間を図書館で過ごした三人娘が、寮に続く夕暮れの細道を並んで歩く。元気に宣言するラヴィリエを叱るグラナートに、紫花がケッケと笑い――その笑いが、ふと止まった。何か、嫌な臭いを嗅いだとでも言いたげに顔が顰められる。
「どうしたの? 紫花」
「いヤ、なんカ――気持ち悪イ」
顔を僅かに蒼褪めさせて口元を覆う紫花に、ラヴィリエが声をかけると、グラナートも異変に気付いて首を巡らす。図書館から出て女子寮までの道のりの間に、木々に埋もれたような獣道があり、紫花の視線はそちらに向いていた。その奥から、じわりと冷気のような怖気が伝わってくるのをグラナートも感じ、きゅっと眉を顰める。
「……この先に何か、建物がありますの?」
問いに、紫花の背を摩っていたラヴィリエが自分の従者へ視線を向けると、僭越ながらと頭を下げて話し出す。
「昔使われていた時計塔があるようです。本館を建て替えた際、捨て置かれて生徒の侵入は禁止されている筈です」
「そう言う所、誰だって入りたがるわよね」
さらりと告げたラヴィリエに誰ともなく頷いた時、じゃり、と足音がした。はっと全員が視線を向けると、暗い道を足を引き摺るように誰かが歩いてくるのが見える。生徒としては大分大柄で、刈り込んだ金髪の持ち主だった。
「……ルイ・ギレム辺境伯令息?」
訝しげにラヴィリエが名を呼ぶと、その人影は顔を上げた。ひゅ、と紫花が息を、或いは込み上げてきた吐き気を飲み込む。
その顔には、黒い穴が開いていた。目の玉が落ち窪み、真っ黒に染まっている。其処からだけでなく鼻や口からも、まるで香のように細い黒色の煙が流れ出て、暗い道を更に暗く染めていた。
ぎしぎしと、おぼつかない足取りが停まる。黒い煙はまるで触手のように、彼の体に絡みついて引き摺るように動いていた――道の奥へと向けて。首にもその煙が絡まり、がくりと顔が仰のいて――
「だ、すげ」
濁った声が口から漏れた瞬間、ものすごい速度でその大きな体は、闇の奥に引きずり込まれて消えた。
「――ッ、ぉえェ……!」
耐え切れず、蹲って紫花が吐いた。彼が纏っていた黒い靄は、恐らく魔の力や悪意が形を成した瘴気の類だ。祓魔の家系ならばまず一番にそれから身を守る為の術を教えられるが、彼女にはその手の知識が無く、更に魔女――竜の使いと言われる者達は、それに中てられやすいのだ。
「紫花! ヤズロー、薄荷の葉はある!?」
「仰せの通りに、こちらを」
「助かりますわ! 紫花、これを噛み締めなさい。少しはましになりますわ!」
ラヴィリエが汚れた口元を躊躇わず手で拭ってやり、グラナートが口の中に清涼な香の薬草を入れてやると、紫花自身もその正体に気付いたのかゆっくりと噛む。
「良い子ね紫花! さあ転身よ、決して遁走では無いわ!」
「至極同感ですわね、まずは態勢を整えますわよ……!」
そして二人で彼女の体を支え、女子寮へ向けて駆け出した。道を覆うように広がっていた瘴気は消えず、じわりと立ち昇ろうとしていたが、
「――失せろ」
ヤズローが紫水晶の瞳でそれらを睨み付けると、怯えたように震え、掻き消えていく。それを見届けて、主達の後を追った。
×××
寮に帰りついてからも、紫花はぐったりと自室の寝台に倒れ伏していたが、ラヴィリエが手早く薄荷の香を焚き、ヤズローが急ぎ呼んで来たウィルトンが瘴気祓いの結界を部屋に張ると、漸く症状が落ち着いた。
「全く、瘴気祓いなど魔女術において基本中の基本でしてよ。徐に吸ってしまうものがありますか」
ぷりぷりと怒りながらも、グラナートは吐瀉物で汚れた制服を着替えさせてやり、濡れたハンカチで手ずから顔を拭うなど甲斐甲斐しく世話を焼いている。ベッドから漸く起き上がった紫花の方が、いつになく気まずげに唇を尖らせていた。
「言っただロ、アタシは落ち零れだったっテ。……迷惑かけて悪かったヨ」
「貴女がしおらしいと逆に心配ですわ、いつも通り怪鳥のように笑いなさいな」
「そうね、制服も染みにはならなさそうだから安心していいわよ!」
つんと顔を背けるグラナートに続き、洗濯を終えたらしいラヴィリエが戻ってきた。殆どの作業はグラナートの従者達がやってくれたようだが、抱えた茶器は自力で用意したらしい。茶の中にも薄荷を入れたのだろう、湯気と共に清涼な香りが湧いた。
「
「アー……ありがト。あんなん初めて見たヨ、北方ではよくあることなのかイ?」
体を起こし、受け取ったカップをちびちび呷りながら、大分顔色の良くなった紫花が尋ねる。丁度戻ってきた、かなり疲弊したウィルトンと彼を連れたヤズローにも向けて。全員の視線が自然と神官に向けられて、当の本人はがちりと緊張しつつ、おずおずと話す。
「さ、さ、先程、ヤズローさんからも伺いましたが、あの旧時計塔周辺に、かなり強い呪詛が存在する可能性が、あります。俄かには信じがたいですが……わ、私も学院全体に結界を張れるわけではありませんし、入ってこないと断言はできませんが、少なくとも数日前まではあの塔にも見回りが入っています。異常は無かった筈なんです」
「その数日の内に何某かの呪物を持ち込み儀式をしたとしても……難しいですわね。あれだけ強い呪詛ならば、年単位で準備が必要でしょう、例え本職の呪殺師がいたとしても」
祓魔の家系として得た知識を思い返し首を捻るグラナートに、ヤズローが頷く。
「グラナート様の仰る通りです。今回の件は寧ろ偶発的な事故である可能性が高いと思われます」
「成程、成程。ではヤズロー、ルイ・ギレム辺境伯令息を助ける為にはどうすれば良いかしら?」
いつも通りの笑顔のまま、さらりと問うたラヴィリエに、一瞬全員が沈黙し。
「確かに、呪詛に見舞われたのは不運でしょうが……わたくし達の力だけであの瘴気を祓えるとでも? それこそ、高位の神官様か本職の呪殺師が必要でしょう。ウィルトン様は――」
「と、と、とても無理です……! 瘴気に飲まれた人を祓うなんて、僕程度の研鑽では、数巡りかけて儀式を行わなければ奇跡を齎せません……、どうにか、瘴気の根源から飲まれた人を離すのが、先になるかと」
「……ちょっとちょっト、お人好しが過ぎないかイ、アンタラ。そもそもあいつを助ける理由がどこにあるってのサ」
忌々しげだが事実を告げるグラナートに、心底申し訳なさそうに俯くウィルトン。そんな彼らに呆れたように、まだ顔色の悪い紫花が混ぜ返すと。
「理由? 決まっているわ、助けを求められたからよ」
ラヴィリエがきっぱりと言い切り、部屋の中は今度こそ沈黙に支配された。
「確かに、神殿にまず連絡をして助けを待つのが一番正しい行動なのでしょうね。でもその間に辺境伯令息は、瘴気に飲まれて魔と化すか、命を落としてしまうかもしれないわ。でも今ならまだ間に合うかもしれないの。それに彼が犠牲になったということは、他のお二人も同じ目に遭っているのかもしれないし」
少女はまるで舞台上の女優のように悠々と部屋の中を歩き、壁際に控えている従者の前に立つ。
「あと、もうひとつ。今ここで貴方に命じれば、きっと貴方は全部、解決してくれるわよね、ヤズロー? どんな手段を使っても」
「お嬢様がお望みならば、全て仰せの通りに」
ヤズローはいつもと同じく、無表情のまま告げる。そう、彼はあくまで従者であり、父から借り受けたラヴィリエの持ち物に等しい。それを使う為に命じるのも、今この場にいるのはラヴィリエだけだ。まっすぐに、自分よりだいぶ高い位置にある従者の瞳を見つめ、少女は微笑んで続けた。
「ええ、ええ、私はそれでは嫌なの。もしここで、神殿やヤズローに任せて何もしないままでいてしまったら、私はきっと、明日から食べる食事が美味しくなくなってしまうから、とても嫌なの」
笑顔のまま、ラヴィリエは告げる。己の従者に向けて、命令を。
「ヤズロー。放棄された塔へ共に向かい、私を守りなさい。出来うる力のすべてをかけて、祓魔の家系、シアン・ドゥ・シャッス家に連なる者として、瘴気に苛まれる方を助けましょう」
「全て、仰せの通りに。お任せ下さい、お嬢様」
胸に手を当て腰を折り、はっきりと答える従者と、満足げに頷く主を見て、グラナートは扇を握りしめて、天を仰ぎ嘆息した。
「……ああ、もう! そのような無茶をするというのなら、わたくしが黙っているわけには参りませんわ!」
「グラニィ? これは私の我儘だもの、貴女まで付き合う必要は無いわ」
「見縊らないで下さる? 助けを求める者に力を貸すのは貴族の務めです。たかが瘴気程度、フルゥスターリの死霊術師を苛むことなど許されませんわ!」
目をぱちくりさせるラヴィリエに、憤って詰め寄るグラナートは、青白い頬を僅かに紅潮させている。誇りを求める高揚か、友情に対する羞恥か、恐らく両方だろう。そんな二人の姿を見て、紫花も肩を竦めてベッドから降りた。
「ったク、二人共格好付けないでおくれヨ。吐いてるアタシが馬鹿みたいじゃないカ」
「紫花、貴女まで」
「瘴気の避け方は解ったかラ、もうドジ踏まないサ。風竜様に頼んデ、吹っ飛ばすぐらいならやってやるヨ。あの偉そうな連中に恩売れるってんなラ、悪くないしネ」
細い片目を瞑ってにやりと笑う紫花と、つんと顎を上げたグラナートを交互に見て、ラヴィリエは困ったように眉を下げた。気づかれないぐらいほんの少しだけ。その後はただ、いつものように満面の笑みで。
「グラニィ、紫花! 私は本当に、友人に恵まれたのね! 全てが終わったら、最高の友を二人も得たのだと、お父様とお母様当ての手紙にしたためるわ!」
自分よりも大きな友人二人の手を握りしめ、飛び跳ねるように喜んだ。
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