素っ頓狂な娘、剣術指南に奮闘す

◆3-1

 本格的に学院の授業が始まって一巡り程経った。一日に三回から四回、様々な教科の講義が行われ、学生達は好きな、或いは進級に必要なものを自由に選択する。

 その中でも神学の講義は、試験が他のものに比べて簡単だと代々先輩より伝えられており、教室は常に満員になっていた。

「……か、かくして世界は始原神により球体となり、混沌は澱となって世界に塗されました。昔から伝わる、『悪しき思いは澱を呼ぶ』という諺は決して夢物語ではなく、人々の悪感情が目に見える程強まると、魔を呼び寄せるというのは決して絵空事ではありません。勿論、今日では少なくなりましたが――」

 額に汗を掻き、僅かにどもってはいたけれど、ウィルトンによる講義は卒なく続けられた。若くはあるが教鞭をとって数年、漸く慣れたといった心地なのだろう。

「む、昔から暗い所に留まっては駄目だと言われるのは、そこに金陽神アユルス様の光が届かず、人の悪意が浄化されず瘴気となって留まってしまうからです。それだけならば決して、心身共に健康である人に被害はありません。しかしそれが長期間持続すると、気体である瘴気は粘性のある澱になり、精神だけでなく、肉体にも障りを齎します」

 教室の中の生徒達は、熱心な講義に対してどこか弛緩しているように見えた。無理もない、確かに過去、人間同士の諍いが魔の者を呼び寄せ、藍皇国よりも南の大陸は現代でも魔の者達に支配されているという。しかし、神の力を使い魔を退けずとも、魔操師による様々な発明の恩恵により、人々は生きられるようになった。嘗ての事実は酷く遠くなり、実感を齎さないのだ。

「も、勿論、夜空の下には銀月女神リチア様の加護がありますので、ちゃんと眠る前には明かりを消しましょう。近年は燃料不要のランプが売り出されていますが、とても私の安月給では手を出せないので――」

 くすくすと生徒の中で忍び笑いが起きた。いまいち絞まらない教師に対する共感か、もっと単純な嘲笑を隠しているのか――それとも、一番前の席に座りながら、更に堂々と舟をこいでいる女生徒に対してか。

「んん……」

 かくん、かくん、と上下左右に首を振りながらラヴィリエは小さく呻いていた。瞼は完全に閉じられており、口元から涎が垂れ落ちそうになっている。あまりにもあからさまな居眠りの姿に、ウィルトンもちらちらと視線をやってはいるが声をかけにくいらしい。

 教室の後ろ側には、生徒達が連れてきた従者が並んで立っている。流石訓練された従者達は、不真面目な女生徒の太平楽な寝顔を見ても口元を緩めることは無かったが、一番端に立つヤズローは、舌打ちしたいのを全力で堪えて、小さく息を吐いた。

主の娘は、教本を読むこと自体は好きなのに、他人の話を黙って聞くということが大変苦手だ。優しくおっとりしたウィルトンの声が、それに拍車をかけてしまったらしい。

 ヤズローは無言のまま、他者の目がこちらを向いていないことを確認して、自分の耳朶を指で掴む。片耳を覆うように付けている、蜘蛛の形をした銀色のカフスを音もなく外し、そっと床に落とした。

 一見金属のように、固く鋭い音を床で立てるのかと思いきや、その銀蜘蛛はふわりと八本足を広げ、音もなく床に着地した。そして命を得たかのようにさかさかと床を這って行き、一番前の席まで辿り着き――誰にも気づかれないまま、船を漕ぎ続けるラヴィリエの背中まで登り。

「ええと、失礼、シャッス男爵令嬢――」

「――っいたああああー!!」

 ついに耐えきれずウィルトンが声をかけたと同時、がぶりと蜘蛛の顎がラヴィリエの柔らかい首筋を思い切り嚙んだ。血が出ないぐらいの力加減は完璧だが、痛いものは痛い。当然痛みと驚きでラヴィリエの小さな体が飛び上がる。ウィルトンだけでなく周りの生徒も驚いて、どたんばたんと後退り、沈黙。

「……あら、まぁ」

 ほんのちょっぴり涙を浮かべて、自分の手の上に銀蜘蛛が落ちてきたことにより、何が起こったのか理解したらしく。

「失礼、神官様。秋の柔らかな日差しと風、神官様の素敵なお声のお陰で、夢の世界で揺蕩っておりました。さ、どうぞ講義を続けて下さいな!」

 芝居がかった仕草で軽く淑女の礼をして見せて、何事も無かったようにすとんと椅子に座り直す笑顔のラヴィリエにウィルトンは茫然とし、他の生徒や従者からはおいおい、という目で見られ、授業終了のベルが高らかに響いて、ヤズローは今度こそ深々と溜息を吐いた。



 ×××



「――かくして、ネージ国は神の頸木を拒むことを選びました。これは決して神や神殿を軽んじるわけではなく、神の名のもとに隠された歴史を紐解く為です。これこそが初代学長アンセルム様が望む、新しき生活、新しき政治なのです。……本日はここまで」

 ベルが鳴ったため、ネージ史の教授が頭を下げて教本を閉じる。教室の入りは半分程度で、一番前の席に陣取り、真剣に講義を聞くグラナートは、幾分他の生徒達に遠巻きにされていた。

 そもそもこの学院初の女生徒というだけで周りは色めき立つが、初日の騒ぎもその分あっという間に広まってしまったのだ。更に彼女が母国では侯爵令嬢としての地位を持っているので、家名の貴族位が彼女よりも低い生徒では軽々しく声をかけられない。それが貴族のルールだ。

 尊重されているというよりは珍獣扱いされている事実に、グラナートも腹を立ててはいるが、それを表に出すのも貴族の子女として失格であると解っているので、平然とした風に過ごしている。それでも、教室隅に控えさせている従者である霊の姿を、旋毛から足先まで、誰から見ても普通の人間であるように形を保たせているのが彼女なりの気遣いだ。多少肌が青白いのは目を瞑ってもらう。

 軽く息を吐いて、手持ちの小さな黒板を近づいてきた従者に手渡す。此処に書いた内容を後で紙に纏めるのだ。ネージでもビェールイでも紙は未だ貴重で、教本ならともかく手習いに紙を使うのは、上級貴族でも難しい。これから昼休みなので、昼食を取ったらすぐに行わなくては。

「失礼、フルゥスターリ嬢」

 そう考えている最中、不意に声をかけられ、無作法であると指摘する前に扇を広げて口元を隠した。目の前に立っている相手が、無視は出来ない相手だったからだ。ネージでは有数の家門である侯爵令息――地位だけで言えばグラナートと同じだ。

「これはヴァロワ侯爵令息、御機嫌よう」

 制服の裾を抓み、あくまで優雅に返事をしたグラナートに対し、白皙の美貌を持つ侯爵令息、ミシェル・ドゥ・ヴァロワは鷹揚な笑顔で頷いてみせた。自分が相手に傅かれることに慣れている笑顔だった。

 彼が後ろに控えさせているのは従者ではなく、立派な体躯と長めの金髪を持ち堂々とした辺境伯令息ルイ・ギレムと、大人しげだがミシェルとは違う魅力的な容姿の子爵令息マルク・ステンシルだ。彼ら三家は親同士も嘗てこの学院に通っていて親しいらしく、入学してからよく三人一緒に行動していたので、グラナートも自分の知識と照らし合わすことが出来た。その二人はあくまで後ろに控え、喋るのはミシェルだけのようだが。友人同士といえど、明確な身分差があるらしい。

「こちらこそ。君のような美しき花が咲いているのなら、つまらない講義にも喜びが増すというものだ。折角同じ講義を取った縁、君ともっと親しくなりたいと声をかけてしまったよ。良ければ昼食を一緒にどうだろうか? サロンに招待するよ」

 そう言って、ミシェルは優雅にエスコートの手を差し出す。生徒の集まる食堂の二階に、上級貴族専用のサロンがあることはグラナートも知っている。入るには地位だけでなく、上級生や自分より高位の子息による推薦が必要な事も。魅力的な誘いではあるが、扇の下で僅かに嘆息して答える。

「お誘い有難う存じます。申し訳ございませんが、昼餐は友人達と取る予定になっておりますの。もしまたお声かけを頂けるのならば、その時には必ず」

 丁寧な受け答えだったが、ほんの僅かミシェルの眉間に皺が寄った。女性に対し、自分の誘いが断られるとは微塵も思っていなかったのだろう。上級貴族としてはありがちな感覚だ、グラナートとてにべもなく誘いを断られたら腹が立つ。しかし地位が同じだからこそ、妥協はしない。もっと単純に言うのなら、浮草のように軽い誘い文句が気に食わなかった。続いた言葉とともに隠し切れない侮蔑が、瞳の中に浮かんでいることも。

「それは残念だ。失礼だが、君の友人と言うと、共に入学してきた女生徒達のことだろうか? 君が心を預けるだけの尊きものがあるとは到底思えないが」

 きゅ、と扇を持ったままの指に力が籠る。確かにラヴィリエはこの国では一番低位の貴族である男爵令嬢であるし、紫花にはそもそも貴族地位が無い。彼の言っていることは貴族としては正論であり、地位が同じ相手と交流を深めるのは貴族の子息子女として大切なことだ。しかし。

「然様ですわね。しかしシアン・ドゥ・シャッス家はネージ建国以来の御家と伺いましたし、陶家は遠き藍皇国で竜に愛された家と崇められているそうです。わたくしが友人として選ぶ家名として、何ら問題はないと愚考致しますわ」

 あくまで貴族の娘として、恥じることは無いという旨だけ伝え優雅に微笑む。これ以上いちゃもんをつけられたら従者を白く溶かして襲い掛からせてやろうか、と危険な思考に陥る前に、幸い向こうが引いてくれた。

「そうか……いや失敬。君の友人達によろしく伝えてくれたまえ」

「光栄ですわ」

「ただ、友人は慎重に選んだ方が良いと思うよ。悪食男爵の娘と、南方国の人間では、君と釣り合いが取れるとはとても思えない」

「――御忠告、痛み入ります。失礼致しますわ」

 にっこり微笑んでそれだけ言い、踵を返す。ごく普通に相手を選んで蔑んでくる、その気概が気に食わない。合わない相手や腹の立つ相手がいるとしても、それをおくびにも出さず微笑むのが貴族の矜持だろう。あからさまに下位貴族や他国の人間を馬鹿にする貴族が、他から軽んじられると何故思わないのだろうか。

「全く、この国の貴族も知れたものですわね」

 近年、神殿の後退と魔操師による近代化が進み、王家が退き合議制になったことで、貴族の矜持自体が時代遅れとなっていくのだろうか。それは生粋の貴族であるグラナートにとって腹立たしく、また寂しくなるものだった。



 ×××



 北方共通語――ネージだけでなくビェールィや他の国でも通じる、商人達が使う言語だ――の授業が終わり、紫花はやれやれと体を伸ばした。板書が多すぎて手持ちの黒板はすっかり白くなってしまっている。これは纏めるのに骨が折れそうだ、と嘆息した。

「マ、これぐらいならついてけるかナ」

 幸い、文字の種類は母国語の半分以下なおかげで、読み書きについては大分慣れた。発音が苦手なのはどうしようもないが、聞き取りは悪くないし、このまま暮らしていけば少しは矯正できるだろう、多分。

「――見ろよ、あの髪」

 だから、食堂へ向かう道すがら、すれ違いざまに囁かれた僅かな悪意にも気づくことが出来た。

「木炭のように黒いな。悍ましいことだ」

「恥ずかしくはないのかね、魔の者の証のような姿を晒して」

 随分と時代遅れな事を言っている、と紫花は呆れた。どうやらまだ言葉が通じないとでも思っているのか、考え無しの子息達がこちらに聞こえるぐらいの音量で会話を続けている。その癖、制服の隙間から見える足には視線を向けてくるのだから間抜けなことだ。

「そも、貴族位を持たない輩がどうしてこの学院に通うことを許されたのか」

「なんでも、胡散臭い魔女の術が南方では未だに重んじられているとか。時代遅れ極まれりだな」

 野蛮な者達を嘲るような、嫌な笑みを浮かべて続けられる会話は、何とも中身の無い代物だ。そもそも、全世界で魔の証とされているのは黒髪金目だ。崩壊神アルードとその子供達が黒い体毛と金色の瞳を持ち、それに追随する魔の者は皆その色を纏った、という神話の一節から来ている。しかし南方――紫花の故郷である藍皇国を初めとした国々では、黒以外の髪を持つ者は逆にほとんどいないし、北で魔女術と呼ばれる竜の息吹使いは藍皇国では引っ張りだこの職業だ。他国の常識を自然と下に見る姿に呆れすぎて笑えてしまう。

「時代遅れな奴らニ、時代遅れって言われたくないネ」

 なので遠慮なく、こちらも聞こえる声できっぱりと言ってやった。生徒達が一瞬止まり、自分達の言葉が通じていたことに気付き、戸惑いと怒りを見せる前に紫花は悠々と廊下を横切り、躊躇わず窓の桟に足をかけた。

「こんな便利なもノ、使わないなんテ、勿体ないだロ?」

 周りが驚き止めるよりも先に、にやりと笑って、二階の窓から外に踏み出す。勿論自然と体は下に落ち、生徒達の悲鳴が遠ざかって――

風竜様オーフエレ、風竜様、寝る前の欠伸を今此処へ』

 鞄から薄布を引っ張り出し、母国語で歌うように呟くと、ぶわりと風の塊が足元に広がり、布が大きく撓んで紫花の体を受け止める。風はすぐに止み、軽く着地して上を見上げると、窓に鈴生りになって呆然としている生徒達が見えてまた笑ってしまった。

「ケッケッケ! それジャ、また明日ネ」

 悠々と手を振って、羽衣ユウイーと呼ばれる薄布を肩にかけると、紫花は軽い足取りで待ち合わせの食堂へ歩を進めた。

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