三人娘の新学期 ~季節の変わり目には気をつけて~

※軽いものですが病気の描写がありますので、気になる方はご留意下さい※


――――――――――――――――――――――――――――――――



 ひたり、と金属の掌を汗ばんだ額に当てられて、ラヴィリエは安堵の溜息を吐く。口元が緩んでいるのに気づかれたのか、すぐに手を引いた従者はいつも刻んでいる眉間の皺を更に深くした。


「熱がまだお高いのに、暢気に笑わないでください、お嬢様」


「ふふふ、ごめんなさいね。冷たくて気持ち良かったのだもの」


 呆れたように鼻を鳴らすヤズローの姿は、貴族に仕える従者としては許されざる行いだろうが、彼のやり方も普段の佇まいも、自分と自分の両親に対する忠誠も良く良く知っているラヴィリエは、素直に微笑むしかない。火照って汗ばむ体も、どうにも怠い手足も、そこまで気にならない。


 ……短い夏の盛りが過ぎれば、ネージは日々寒くなっていく。夏の体暇を友人と二人揃って実家のある王都で過ごしたラヴィリエだったが、色々なトラブルという名の冒険に巻き込まれ――正確には自ら首を突っ込み――、無事に生還したは良いものの従者と友人、そして母に散々心配をかけてしまった。反省すべきだという自覚もある。


 そして季節の変わり目も祟り、長旅の疲れもそれに加わったのか、新学期が始まってすぐにラヴィリエは体調を崩してしまった。最も、子供の頃から良くあることだったので彼女は慣れたものだ。大人しく布団にもぐり直し、冷水にくぐらせた布巾を絞って額に乗せてきたヤズローに強請る。


「ちょっとだけど、お腹が空いたわヤズロー」


「仰せの通りに。ミルク粥をご用意いたしますので、少しお眠りください」


「それと、グラニィと紫花には、心配しないように伝えてね」


「仰せの通りに。お二人とも下階でお待ちされておられるようですので、お言伝して参ります」


「頼んだわ。それから、それから――」


 ふと目の前が暗くなる。ヤズローの金属製の掌が、両の瞼を覆ったからだ。


「失礼。……喋り過ぎは喉を傷められます。大人しくしていて下さい」


「……ええ、解ったわ。ありがとう」


 ご尤もな従者の言葉に、ラヴィリエは渋々口を閉じた。じわりと胸の内に浮かぶ寂しさに蓋をして。








 ×××








 部屋のドアを開め、ヤズローは静かに息を吐く。


 無理やり寝かせようとした時に、言葉を止めたいなら目じゃなくて口を塞ぐべきよ、などといった混ぜ返しが来なかったところを見ると、どうやら今回はかなり重症らしい。


 彼女の父――ヤズローが全ての忠誠を誓うシアン・ドゥ・シャッス男爵に似て、ラヴィリエは幼い頃から季節の変わり目に良く体調を崩す。今回は長旅と大冒険の疲れがそれに重なってしまったのだろう。


 必要な薬と食事を準備するため、女子寮という名の家屋の一階に降りる。と、ロビーと呼ばれる玄関兼広間に留まったままの、ラヴィリエの学友が駆け寄ってきた。


「ヤズロー、ラヴィリエの具合は如何なのです? 授業には出られるのかしら?」


 貴族の礼を保ちつつも、冷徹にも見える青白い美貌を心配の一色に染めているグラナートが口火を切ると、


「別に無理する必要はないサ、今日必修授業は無い筈だしネ。朝飯は食べたのかイ?」


 普段通りの瓢々とした口調のままだが、ラヴィリエの分であろう鞄も纏めて準備したらしい紫花が肩を疎める。形は違えど友人を心配している少女達の言葉に礼を返し、ヤズローはあくまで淡々と答えた。


「お二人にはお気を遣わせて申し訳ございません。お嬢様は本日、体調を崩しておられる為、授業に出られるのはお控えになられます。お食事はこれから取られますので、どうぞお二人はこのまま登校して頂きたいと存じます」


 余計な心配をかけないようにと心得たつもりだったが、二人は困ったように顔を見合わせた。普段は授業に行きたがらないラヴィリエの尻を叩くヤズローが病欠を促し、健啖家――もっと素直に言えば食いしん坊――である彼女がこの時間になっても朝食を取っていないということは、無理も出来ぬ程に体調が悪く食欲も無いという事実に繋がってしまうのだろう。未熟と思いつつ、ヤズローは表情を変えぬままに手を差し出して、紫花から学生鞄を取り戻した。


「……解りましたわ。何か必要なものはありませんこと? 薬などは?」


「全てこちらでご用意致しますので、問題ございません。僣越ではありますが、お嬢様の代わりに、本日の授業について後日ご教授頂けましたら幸いです」


「そうだネ、それぐらいならお安い御用サ。ホラ行くヨ、ガニー」


「左様ですわね。では、わたくし達は授業に参ります。差し出がましくはありますが、ラヴィリエの事、よろしくお願いしますわ」


 未だ心配は有れど納得の息を吐き、主の娘のご学友は登校して行った。始業前の鐘が鳴り始めたが、敷地内の教室ならば充分間に合うだろう。


 肩に僅かだが力が入っていたことに気づき、自嘲の溜息を吐く。ヤズローはその生まれと育ちから、女性というものが全般的に苦手だ。ラヴィリエの学友であるあの二人が、信頼を置くに値する存在であると理解していても、主の娘を挟まずに会話をするのは緊張を伴う。我ながら情けないとは思っているけれど、実の母に捨てられて、憚ましい女達に身も心も散々貪られた――文字通りの意味で!――結果、信じられる女性は主の妻と娘、自分の師匠である魔女とその弟子ぐらいのものだ。


 しかし心底から主の娘の無事を祈ってくれる娘達に不義理をするなど従者としてはもっての外だ。寮に備え付けの小さな台所へ入り、乳粥の準備に合わせて、茶請け用の菓子の制作に入る。せめてもの詫びと労いとして、あの二人に受け取って貰う為に。








 ×××








「では、三限目以降はお任せ致しますわ」


「はいヨ。こっちはネージ史の板書だから、ガニーが使っとくレ」


「お礼をを差し上げましてよ。助かりましたわ」


 ラヴィリエが履修している授業を受けるため、グラナートと紫花は手分けして授業に当たっていた。自分達もそれぞれ取っている授業が違う為、パズルのように互いの予定を組み替えながら行っているのだ。幸い、グラナートの担当はもう終わったので、ひとつ授業が空いてしまった。手を振って次の授業に向かう紫花を見送ってから、―人で考え込む。


 普段ならば空いた時間は寮に戻って自習に充てているのだが、今戻っても病人看護の邪魔になりそうで二の足を踏んでしまう。かと言って、何もない無為な時間を過ごすというのは勤勉なグラナートにとって耐えがたいし、かといつて図書室や食堂で自習をするにしても、身が入らない自覚はある。


「……大丈夫なのかしら」


 結局のところ、ラヴィリエが心配すぎて気もそぞろなのだ。普段の元気すぎる彼女を見ている限り、床に臥せって動けないとなれば、普段から死に近しいグラナートの脳裏には、万一の可能性さえ浮かんで消えなくなってしまう。それでも授業は彼女の為と真剣に受けられたが、他事に気を割くことが出来そうにない。かといって病人の看病など、役に立てるとも思えない。


 悩みながら廊下を歩く彼女の姿は、憂いを帯びた美しさと、思いつめたような不気味さを同時に醸し出していて、他の生徒が遠巻きに見守っている。中にはそこが良いと熱心に崇拝するような信奉者も混ざっているが。


「……! そうですわ!」


 名案を思いつき、はしたなくならない程度の早足で寮へと戻る。が、目的地は寮の中ではなく、裏に備え付けられた倉庫だ。扉には当然、大振りの錠前が付けられている。


 しかしグラナートは鳥の骨で組み上げられた、美しくも気味の悪い扇子をばらりと広げ、風を撫でるようにゆらりと仰いだ。


「御出でなさい」


 静かな、しかし絶対的な命令に、まるで香の煙のような靄が広がり、緩やかに人の形を取っていく。彼らは皆彷徨える魂であり、グラナートの手管によって仮初の体を得た者達だ。


「鍵をお開けなさい。それと、わたくしの荷物から探して欲しいものがありますの」


 霊達はまるではるか昔から彼女に仕えていたかのように従順な礼をして、命令の通りに動き出す。ひとりがぐにゃりと形を変えて小さな鍵穴にあっという間に潜り込むと、音もなく閂が外れる。残りの霊は粛々と倉庫の中に入っていき、多量の荷物の中に滑り込んでいく。


 実は、此処に入っている荷物の殆どがグラナートの物なのだ。実家と一族の期待を背負って留学している彼女には、月に一度程の頻度で様々な贈物が届く。食料や菓子などの消え物ならまだしも、服や貴金属は学生の最中に使う機会はほとんどない。結果、倉庫を突貫で新設して保管することになったのである。当然だが倉庫の建設および管理もグラナートが資金を出し責任を持っているので、鍵は霊にしか開けられない仕様だ。


 やがて、一体の霊がするりと箱の中に入り、その体の密度を高めてそっと蓋を押し上げる。良い仕事をした従者に、グラナートは箱の中を見下ろして満足げに頷いた。


「ご苦労でした、誉めて差し上げてよ。……これならば、邪魔にはならないでしょう」








 ×××








「っアー……終わったァ」


 普段より多く授業に出る羽目になった紫花は、金陽が傾きかけた校舎から出て来て大きく伸びをする。いつになく真面目に勉強してしまったので疲れも激しい。このまま帰って寝たいところだが、友人の無事を考えるとどうにも据わりが悪い。


「何か見舞いを持ってきたいけド、どうしたもんかネ」


 朝のヤズローの口ぶりからして、食事や薬等に関しては問題が無いのだろう。もしラヴィリエに危機が迫っているのであれば、誰だろうと頭を下げることは厭わないあの従者のことだ、つまり現状の看病に問題が無いのは間違いないと思われる。


「――紫花!」


「んゲッ」


 じゃあどうするかとやっばり首を傾げていた思考が、不意に随分と正しい発音で呼ばれた己の名に止まる。同時に首を絞められた狐のような声が出てしまった。


 溌剌と近づいてきたのは、腹立たしくも己の許嫁を名乗っている――いや実際その通りなわけだが――男だった。彼がその振る舞いを見る限り、一学年上の許嫁である女に夢中であるというのは今や学校中の常識であり、その秋波を悉く無視しているように見える紫花の評判は悪化の一途を辿っている。勿論評判自体は気に掛けることもないが、原因がこの男だという事実に腹が立つ。


『どうした? 今日は随分と遅いな』


『……真面目に勉強してたんだよ』


 腹が立つが、母国の言葉で会話をするのは楽だし嫌ではないので、割と素直に返すと満面の笑みを返されて鳥肌が立った。昔はそんな顔、自分に見せることは一度も無かったのにと。


『それは良いな、お前はやれば出来る奴だ。安心したぞ』


『いらねぇ……』


 無意識のうちに上から言ってくるこの年下の男を本当どうしてくれようか、と何とも言えぬ苛立ちを感じつつも歩き出すと、堂々とついてくる。


『紫花、今度の週末は如何する?』


『何をだよ』


『否、そろそろ藍商会の船がブリュームに着く頃だしな。皇国の物を安く買えるいい機会だ、週末には街にも届いている筈だろう。良かったら――』


『っそれだ!』


 男の言葉を聞いてぴん、と頭の中の弦が弾かれる。ぱっと顔を輝かせた紫花に迫られ、男がぎしりと身を固めるが、気にせず言い募った。


『船、もう着いてるんだな!?』


『あ、ああ、恐らくな。だがシャラトまで着くには――おい!?』


 それさえ聞ければ後は気にしない。駆け出した紫花は、荷物の中からひらりと薄手のショールを取り出して広げる。故国の言葉では、羽衣ユウイーと呼ばれる薄布だ。お騒がせの女生徒が今度は何をやらかす気だ、と周りの生徒がさざめく中、ひとり彼女の目的に気づいた男が叫ぶ。


『おい待て、紫花……!』


風竜様オーフエレ風竜様オーフエレ、ちょいと息吐いてくださいな!』


 歌うように高らかに、くるりと回って紫花が南方語を叫んだと同時。ぶわっと強風が吹きつけ、生徒たちが慌てて目を閉じた時、その羽衣は風を孕み軽々と夕暮れの空に舞い上がっていた。それを掴んだままの紫花と共に。


『ケッケッケ! いい事聞いたなぁ、光竜様イヤスロの標が見えた!』


 南方国――正式名称は藍皇国では竜の息吹と呼ばれる、自然に祈り力を貸して貰う手妻だ。この国の魔女と呼ばれる者達も、箒や籠に乗って空を舞うらしいが、紫花としてはどちらも乗り心地が悪そうだと勝手に思っている。羽衣の方が持ち運びが楽だし、何より軽々と飛べて気持ち良いからだ。


 紫花の力も決して強くは無いが、風に乗って飛ぶぐらいなら軽いもの。しかもこれなら、山の中腹にあるシャラトから面倒な道を下らなくても、港町ブリュームまで数刻で行って帰って来られるのだ。


『おい! 外出許可を取らないと――』


『金陽が沈み切るまでには帰るさ! ケッケッケ!』


 高らかに笑って、風に乗った息吹使いは去っていく。ぽかんとした周りの生徒達を置いたまま。


『……あの、馬鹿野郎……!』


一人残って、悔し気に。男が母国語で吐いた時の顔は、嘗て故国で良く見た顔であったことに、当然紫花は気づかなかった。








 ×××








 喉の渇きにより、ラヴィリエは浅い眠りから覚めた。


 熱で潤んだ瞼を開くと、いつも通りの寮の自室だ。日の光は僅かに傾いでいるので、少しは眠れたらしい。多分ヤズローが水差しを用意してくれている筈、と視線を動かして、


「あぁ、目が覚めたのね、ラヴィ」


「……、おかあさま?」


 枕元の椅子に腰かけている、銀色の髪を綺麗に結い上げ、青と金で丁度縦半分に分かれた不思議な瞳を持つ女性が、真白いドレスを着て優しく微笑んでいた。ばちばちと何度も瞬きをして、有り得ない光景を飲み込もうとする。


「ど、して、おかあさまが……んっ」


 乾ききった喉が掠れ、咳が出てしまう。他人に飛沫をかけるような真似をする訳にはいかないと枕に顔を埋めると、汗ばんだ頭がそっと冷たいもので撫でられた。


「大丈夫よラヴィ、これは貴女が見ている夢なのだから」


 母の声はいつだって優しく、強張っていたラヴィリエの体がふにゃりと緩む。そうか夢なのか、と熱に浮かされた頭で納得してしまった所もあった。漸く咳が収まったので体の向きを変えると、丁度母は水の入った碗を用意して、差し出してくれた。


「喉が渇いているのね。まずはお飲みなさい」


「ふぁい……、」


 素直に首を持ち上げられて、碗にそのまま口をつける。自分の手で支えもせず、まるで赤ん坊のような仕草だという自覚はあるが、抵抗する気も起きない程未だ体は怠いのだ。夢にも関わらず、喉に通る水はとても冷えていて美味しかった。


「まだ辛いのでしょう、ゆっくりお休みなさい」


「ええ、いいえ……お母様、これぐらいなら平気よ、熱もそんなに高くは無いわ」


 喉がすっきりしたので、いつも通りに舌を回すことが出来るようになった。事実、これぐらいの発熱をするのは年に数回は起こることだし、一日寝込んでいればすぐに治る。そう思って言い募ったのに、母は少し困った顔で笑った。困らせるつもりは無かったので、どうしようと思う。


「言ったでしよう、ラヴィ。これは夢なの。だから、好きなようにお話しましょう」


 幼い子を宥めるように、あやすように、母の手が頭と頬を撫でてくる。それが冷たいのにとても優しくて、何故だかラヴィリエは泣きそうになった。きゅっと上掛けを握りしめ、堪えようとするが、母はずっと優しく自分を見下ろしてくる。……普段は仕舞い込んでいるものが、ほろほろと崩れ出す。


「……お母様」


「ええ、なあに?」


「本当は、あまりお腹が空いていないの。朝も、折角ヤズローが乳粥を作ってくれたのに、お皿の半分しか食べられなかったわ」


「大丈夫よ、ヤズローも解っているわ。熱が下がった時に、いつも通り沢山食べれば良いのよ」


「お薬、とても苦かったけど、我慢して飲んだわ」


「まあ、偉いわ。ドリス直伝の薬は、とても苦いものね」


 元々実家のメイド長であリヤズローの師匠だったが、ラヴィリエが物心つく前には引退してしまった魔女の名を囁き、母は笑った。


「お母様も、飲んだことがあるの?」


「勿論。効くのだけれど、飲むのが大変よね。わたくしはいつも、口直しに角砂糖を貰っていたのよ」


「そうなの? ヤズローはくれたことが一度もないわ」


「じゃあ、わたくしが言っておくわね。きっと今日の夜の分は、用意してくれるわ」


 ゆっくり、ゆっくり。頭を撫でられながら、とめどなく、ラヴィリエは母に伝え続ける。幼い頃と同じように。悪戯を、懺悔するように。


「……この前、家に帰った時に。お母様達に内緒で、旧王都に行ったの」


「ええ、知っているわ」


 声に怒りは無かったが、反省して眉を下げた。友人達とヤズローだけで、こっそりと向かったのだ。今や半壊した旧王都とその地下に広がる洞窟街は、地上の者を拒む迷宮と化している。子供が只の興味本位で、入れる場所では無いのだが。


「ごめんなさい、お母様。でも、どうしても必要だったの。グラニィの大切なブローチを盗んだ相手が、そこに逃げ込んでしまったから」


「そうだったのね。確かに、王都の騎士でも中々、洞窟街には入れないものね」


「ええ、そうなの。私達で、取り返そうと思って……でも、そのせいで、私、ヤズローに」


 母の手をきゅっと掴む。懺悔と共に、どうしようもない恐怖を伝える為に。母はずっと優しい笑みのまま、ラヴィリエの手を包んで撫でてくれていた。


「ヤズローに、酷い命令をしたわ。勝てるか解らない相手に、必ず勝つように命じたの。……あの時あの場所で、あの相手と戦えるのはヤズローしかいないと、思ったから。ヤズローはお父様の従者で、決して私の従者ではないのに」


 ラヴィリエは貴族だ。自分に仕える者に命じ、またその忠誠に報いる義務がある。父がラヴィリエに、一番信頼する執事であるヤズローを預けているのも、彼女が貴族として振る舞えるようにという教育のひとつ。しかしそれは、まだ成人していない少女にとっては酷く重いもので。


「ヤズローは、私の願いを叶えてくれたけれど。……本当は、とても怖かったの。ヤズローの命を、私の手の中に握ってしまったことが。ごめんなさい、お母様。もっと強くならなければ、いけないのに」


 また、熱が上がってきたような気がする。ぐるぐると頭の中が回って、何を言っているのか解らなくなる。貴族という矜持で作り上げた殻に皹が入って、中の何物でもないものが溢れ出してしまうように錯覚した。きしりとベッドが僅かに軋んで、


「大丈夫よ、ラヴィリエ」


 抱きしめられた。母の体温はいつも低くて、触れるとひんやりとしていて、――身の内に溜まっていた瘧のような熱が、ゆるゆると解けていく。


「背負うのが重いものを、恐れてしまうのは当然よ。命なのだから。恐れている限り、貴女はその重みを忘れることは無いでしょう。貴女は何も、間違ってはいないわ」


「でも、」


「わたくしも、旦那様も。皆それを恐れながら、笑顔の殻にそれを隠して生きていくのよ。人々の上に立つのならば、天から与えられる試練を自ら受けなければなりません。――ただ、どうしてもその重たさが辛いと言うのなら」


 そっとベッドの上に戻されて、頬を両手で包まれた。内緒話のように、母が耳元で囁く。


「重みを全部捨ててしまっても、わたくしも旦那様も、決して貴女のことを責めないわ。それで貴女が、幸せになれるのなら。でも、貴女はそれを望む?」


「……」


 僅かに息を飲み。ラヴィリエは、ふるふると首を横に振った。


「いいえ。いいえ、お母様。どれだけ重たくても辛くても、私は私の生き方が好き。だから、捨てたくないわ」


 ごくごく自然に、そう言えた。好きでなければ、毎日笑っている事なんて、とても出来るわけがないのだから。


「私は今が好き。ヤズローと一緒にいるのも、グラニィや紫花と遊ぶのも、お母様とお喋りするのも、全部大好きよ。だから、それに必要な重荷なら喜んで背負うわ。でも、だから――こうやって、たまに、怖いってお母様に言うことだけは、許してくれる?」


 結局最後まで格好は付けられなくて、母に甘えてしまったけれど。


「勿論よ、わたくしの大切な、愛しいラヴィリエ」


 母はいつも通り、お休みの挨拶代わりに優しく微笑んで、額にキスをしてくれたので、安心して瞼を閉じた。


 夢の中で眠るなんて変ね、とこっそり思いながら。








 ×××








 完成した焼き菓子を冷ましつつ、夕食用にスープを仕立てながら、手持ちの薬草を磨り潰していたヤズローは、ふと気配を感じて立ち上がる。


「――! 奥方様。ご無礼、お許し下さい」


 いつの間にか、狭い厨房の中に、白いドレスを着た美しい婦人が現れていた。最敬礼を取るヤズローに対し、彼女は困った顔をして首を振る。


「ええ、いいえ、ヤズロー。仕事の邪魔をしてごめんなさい。最近寒い日が続いたから、どうしてもラヴィが心配で、来てしまったの」


 その場に立つ美しい銀髪の女――ラヴィリエの母であるリュクレール・シアン・ドゥ・シャッスの姿は、ほんの僅か透けて見える。悪霊の父と人間の母の間に生まれた彼女にとって、肉体という物質を酷く曖昧にすることが出来る。こうやって己の霊体と魂のみを、娘の元に向かわせるぐらいは容易いことだ。


「ご慧眼にございます。私がついていながらこの有様、重ねて申し訳ございません」


「病を退けるのはとても難しいことだわ、貴方が気に病む必要はありません。あの子も寂しがっているようだから、話し相手になってあげて」


「仰せの通りに」


「それと、薬の後味に何か甘いものをあげて欲しいの。貴方がいつも食べている、蜂蜜飴で良いからね」


「……、仰せの通りに」


 自分が普段こっそり持ち歩いている甘味のことがばれてしまっていた気まずさから、不覚にも返事が遅れてしまった。くすりと笑うひそやかな声と共に、頭を上げた時には、白い影は既に消えている。不可思議なる光景に全く疑間を差し挟むことはなく、ただ主の娘が、母親の見舞いを喜んでいただろうことだけ理解して安堵の溜息を吐いた。








 ×××








「――様。お嬢様」


「ん……?」


 従者の低い声が自分を呼んでいることに気づき、ラヴィリエは目を覚ました。朝よりも随分とすっきりした目覚めだ。体の怠さも、かなり減っている。部屋の中は薄暗く、ヤズローが点してくれたのだろうランプが輝いていた。


「ヤズロー、私どれぐらい眠っていたのかしら?」


「朝食を召し上がられてから、今に至るまでかと」


「あらまぁ、道理で! 大変よ、凄くお腹が空いているわヤズロー! 今なら乳粥ぐらい軽くお代わりできてしまうわ!」


 先刻まで眠っていたのが嘘のように声を張り上げるラヴィリエに応えるように、布団の下から腹の虫が鳴く音がした。カーテンを閉めていたヤズローはやれやれと言いたげに溜息を吐き、軽く礼をして答える。


「夕食をすぐにご用意致します。それと、ご学友様方が見舞いをしたいと仰られておりますが、如何致しますか?」


「そうね、うつしたら申し訳ないけれど、私も二人に会いたいわ。少しだけなら良いかしら?」


「では、夕食前にお呼び致しましょう。少々お待ちください」


 そう言ってヤズローは部屋を出ていき、僅かな間の後、こつこつばたばたと複数の足音が聞こえてきた。高いヒールで規則正しく床を鳴らすのはグラナートで、底の薄い南方製の靴で跳ねるように歩くのは紫花だ。この寮で暮らす内に、覚えてしまった。


「……ラヴィリエ? 起きていますの?」


「ええ、勿論! 早く入って、ああでもあまり近づいては駄目よ!」


 扉の隙間からグラナートが覗き込んでくるのが嬉しくて声を張り上げてしまうと、面食らったようだったが、続けて後ろから顔を出した紫花がいつもの特徴的な声で笑った。


「ケッケッケ、元気じゃあない力、ラビー。熱の障りも無さそうダ、一緒の部屋に居たってうつりゃあしないサ」


 竜の息吹を目で捉える紫花には、ラヴィリエの回復が目に見えてわかったのだろうか。グラナートも安堵の溜息を扇で隠しながら、あくまで静かにベッドヘと近づく。


「貴女がかかる程度の病に負ける程、わたくしの守護霊は甘くなくてよ。……他に辛い所は無くて?」


「ええ、体の怠さもすっかり消えたわ。明日は二人と一緒に授業に出られるわね!」


「それは嬉――ん、んんっ。ならば、今日の分はきちんと修めておきなさいな。わたくしと紫花で、本日分の貴女の板書を全て写してきたのですから」


「あら困ったわ、急に頭が痛くなってきたの」


「えっ、やはりまだ本調子では――」


「ラビーが勉強して頭痛くなるのはいつものことだロ、ガニーも乗るんじゃないヨ」


 ついつい棘のある言葉をかける割に、わざとらしくラヴィリエが額を抑えるとすぐにおろおろするグラナートに、笑いを堪えつつ紫花が混ぜ返した。もう! と声を荒げてから、もう一度咳払いして余裕を取り戻す。


「全く、そんなに元気なのならば、わたくしのお見舞いなど無用の長物ですわね。このまま持って帰ってもよろしいんですのよ」


「あらまあ!」


 つんけんとした声音と裏腹にラヴィリエに差し出されたのは、ふわふわとした毛足のショールだった。恐らく本物の兎の毛皮だ、雪の如き白さと柔らかさを備えた極上品。貧乏男爵家のラヴィリエではとても手に入らない代物だが、隣国で一、二を争う伯爵家であるグラナートの実家ではごく普通の防寒具だろう。


「なんて素敵なのかしら! 手触りもいいしとても暖かいわ。これならもっと寒くなってもへっちゃらね!」


「えぇ、えぇ、そうでしょう。去年の冬前に兄上から贈られたものですが、デザインが子供向け過ぎて仕舞い込んでいた物ですの。貴女には大変お似合いですわよ」


 偉そうな言い方だが事実、真っ白い毛色にリボンがあしらわれた短めのショールは、長身でミステリアスな容姿のグラナートよりも、未だ幼さの残るラヴィリエに良く似合っていた。ご機嫌な友人の肩に甲斐甲斐しくグラナートが巻いている内、紫花も荷物から瓶を取り出す。


「なんだイ、ガニーもお見舞いを準備してたの力。被らなくて良かったヨ」


「あら、紫花、それは?」


「何の瓶詰ですの? 随分と色が、その、赤いですけれど」


 明かりに翳される瓶の中には、随分と皺になった果実のようなものが沢山、赤い液体に漬けられている。正体が分からず覗き込んでくる友人二人に、にやにやと狐のように笑って紫花は告げた。


リィズっていう木の実ヲ、蜂蜜と紫蘇ハーブで漬けた保存食サ。味は独特だけど、暑気当りや、熱の病の気配を祓う力があるんだヨ。涼しい場所に置いとけば何年も保つ上、身を食べても良し、この汁を他の飲み物で割って飲んでも良しサ」


「まあ、凄いわ! そんな妙薬を分けてくれるの?」


「荷下ろしされたばっかノ、ブリュームで買ったから割と安かったヨ。勿論国じゃあもっと安いけどネ。本当は塩漬けの方が良く効くんだけド、あんまりこっちの国の人の口に合わないらしいからサ。まァそっちは自分用に買ってきたかラ、今度分けてあげるヨ」


「だ、大丈夫ですの? 前にも貴女が買ってきた、塩漬けの黄色い根菜を食べて酷い目にあったのですけど?」


「あれは確かに独特なお味だったわね、でも慣れれば美味しかったわ! 是非食べてみたいわ、本当にありがとう紫花!」


「ケッケッケ、どういたしましテ」


 軽い笑いは友人をからかっているようにも見えるが、これも含めて彼女なりの見舞いなのだろう。友人達の優しさが身と心に染みて、ラヴィリエの胸はほんのり温かくなる。丁度其処へ、食事の盆を抱えたヤズローが入ってきた。


「食事をお持ちしました、お嬢様。――よろしければ、お二方にもご用意致しますが」


「ヤズロー! とても良い提案よ、いっばい誉めてあげるわ! 献立は乳粥だけではないのでしょう?」


「はい、お嬢様を満足させるには足りないと愚考した為、スープと普通の黒パンもご用意致しました。お二方のお口に合うかは解りませんが」


「アンタの料理の腕前は、この前の夏休暇で良く知ってるヨ、否は無いサ。ガニーもそうだロ?」


「本当に宜しいんですの? 邪魔になりませんこと?」


 従者の勧めにさらりと頷く紫花に対し、グラナートは遠慮をしているようだったが、ラヴィリエが期待を込めた瞳でじっと見つめていることに気づき、仕方がなさそうにふうと溜息を吐いた。


「夕飯はあまり頂きませんの、わたくしは少量で充分ですわ。……その分貴女がお食べなさいな」


「ふふふ、勿論遠慮はしないわ! 本当にお腹がぺこぺこなのよ! お腹いっばい頂くわ!」


 我慢することなく、満面の笑みで宣言するその姿を見て、その部屋にいる全員が自然と安堵を得たことに気づくことなく。


 ラヴィリエは差し出された膳におまけのように置かれた薬の隣の、焼き菓子と蜂蜜飴を真っ先に口に入れようとして、ヤズローにぴしゃりと叱られるのだった。

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