森の中の部屋

@rabbit090

第1話

 寒すぎたんだ。

 僕にはこの冬は寒すぎてしまった。凍え死んでも構わない。そう思いながら、滑走する。

 思い出せば一年前、雪子と出会ったのはその頃だ。

 雪子は常に一人でいた。大学に入ってまで、なぜ一人を維持しているのか、僕には理解できなかった。

 僕は奨学金で大学へ通う一年生だった。浪人もしなかったし現役で、もう不安もないだろうと胸をなでおろす。

 一年間ストイックに勉学に励み、気付いた。とても楽しいということに。それまで何もせず、麻薬中毒者のように眠りこけていたのに。なぜか、焦燥感に駆られ取った勉学という時間の使い方が、僕を満たす。

 だから大学に受かるというなんとなくの確信はあったし、受かれば世界は明るくなると期待していた。

 だが、現実は違う。それは常としていつも存在することだと分かっていたのに。

 気付けば、全く満たされないということに気付く。本当にとんちのような話だ。

 だからいつも雪子を目で追っていた。雪子はいつも口をへの字に結んでいる。だが、どうやら器量は良いみたいだ。まあ、そういうわけで目で追っているというのもある。

 「ねえ、羽仁村はにむらさん。隣、座っていい?」さりげなく口から出てしまった。羽仁村雪子はどう反応するのだろうか。

 「・・・・・・。」

 無視しやがった。あの女、本当にひねている。だから、一人なんだ。お前はいつも一人なんだ、と頭の中でぼやく。心地悪い感じで雪子から離れた席に座った。

 変な奴。ぼやく。ぼやいてしまったからもう手遅れだった。

 しまった。

 「・・・・・・。」

 雪子が無言で見つめてくる。ぎゃあ、かわいい。ストレートにその器量の良さに驚く。口をへの字に曲げなければ、きっと明るく過ごせるだろうに、とも思う。

 しかし意外だった。彼女は蚊の鳴くような声で呟いた。

 「別に座ってもよかったんだけど。」

 ああ、理解した。このぶっきらぼうなセリフ回し、距離感の詰め方が特徴的な女。こいつ、ただ話が苦手なだけだ。確信する。

 雪子の可愛さも相まって、とたんに愛おしくなる。

 大学生という猶予を与えられて、責任のなさに起因するのか、なんだか守ってやろうと思ってしまった。

 「羽仁村さんって呼ぶよ。」なんだかリラックスしてしまって、ぶっきらぼうに言い放ってしまった。

 雪子は正直、表情が読みにくいのだけれど、おどけた様子で笑っていた。

 ああ、一目惚れ。これに尽きる。本当に愛おしい。

 今までのなんとなく抱いていた嫌悪感も、拒絶感もすべて反転して、好意に転じる。まさにオセロ!と思うのだ。

 僕の名前は宮田栗生くりお。ダサすぎる。現代でこの名前は違うんじゃないかと思いながら、今まで生きてきた。

 熱烈な歓迎とともに生まれたわけだが、どうしたわけか、その後は良い扱いではなかった。一人っ子として、期待を一身に受けながら育つはずが、どうやら彼らのイメージとは異なったらしい。僕は物分かりが良いふりをするのが得意なのだ。

 つまり両親とははっきり言うと、疎遠である。

 まだ大学生という身持ちで、社会の中に放り込まれた。とても不安で、いられない。

 だから何だか常に気が張っていて、落ち着きたいのにかなわない。僕は似たような生き物を知っている。学校で飼っていたウサギ。かわいかった。なでてみたかったけど、係りではなかったから、できなかった。

 苦しすぎて息ができない。そんな夢を見た。

 でも起きてみたら毛布が顔に絡まっていただけで、物理的な理由というだけだった。

 本当は心の中の状況を表しているんじゃないかと思っていたのに。

 羽仁村雪子。

 ふと頭をかすめる。

 狭い部屋の片隅で震えていたはずのウサギを想像する。そうか、ウサギだ。羽仁村雪子は。いつも縮こまっているようで、その様子を隠したがる。虚勢を張った小動物。まあ、顔も小動物のようなのだが。

 やるべきことをやっていれば、安心する。そんな心持ちでいいじゃないか。だからそう思いながら、念じながら毎日私はこの門を通過する。

 この門、大学の門は私の背よりずっと高くて、何者も受け付けないような静けさを放つ。怖い。私はきっと受け入れられてはいないだろう。そう思ってしまう。

 世界のすべてに拒絶されている感じ、分かるだろうか。不安で仕方ない。身もふたもないというのだろうか。ただただ苦しく、重い。

 感情の起伏が激しい方なのだ。私は。羽仁村雪子は。

 羽仁村雪子になったのは、幼稚園の頃だった。私の母親はいなくなった。だから、父に育てられることになって、羽仁村雪子。旧姓っていうのかな、元の名前はね。・・・・・・。

 宮田雪子。

 大学に入って、宮田栗生という男に話しかけられた。栗生なんて変な名前。そうは思ったけど、懐かしさを感じる。

 私の中に存在する宮田という姓を感覚とともに思い出す。そんな感じを受けた。

 だから、私は宮田栗生と付き合うことになったのだ。

 大学生によくある、学内恋愛。そんな感じだよね。

 でも、苦しくって息苦しかった心地が少しほぐれるのを感じる。そんな安心感をくれた彼には感謝しよう、と上から呟くのだ。

 オキシトシンという物質が出るらしい。僕には麻薬みたいなものだ。羽仁村雪子といると、安心する。恋って、至福だ。心地よくて、気持ちいい。歩いているだけで、いつもと違う世界が見える。でもそれを失うととてつもない不安に襲われるのだろう。そう予測すると、毎日が荒波のように感じる。

 私は不安でいても立っても居られない。

 うまくできないことはどうにもできない。他人の気持ちなんて、私の頭の中にあるものはすべて想像だ!そう叫ぶ。

 ずっと絶望の中で生きてきたのに、一度希望を見てしまうと、放せない。離せない。死ぬか生きるか、その二択に帰結してしまう毎日を送る羽目になる。

 写真が上手く撮れない。そんなにいけないことなんだろうか。もう傷つく心を持て余す。

 羽仁村雪子はふと、面接の場で思う。

 書類選考で落とされる。力量は申し分ないはずなのに、写真か!と思う。暗くて、粘着質な感じを醸し出す。

 だって、無理なものは無理だ!私には無理だ。こんなこと続けたくない。心の中で静かに叫ぶ。

 器量は良いはずなのに。もどかしい。そして苦しさまで抱えてしまう。

 もう4年がたったのだ。大学に入ってから、宮田栗生と出会ってから。あっという間だった。

 相変わらず居心地が悪かった。

 つらいという感情すらどこか他人事だったのに、今とてつもなく苦しい。

 失うならば、最初からなければよかったと、強く思う。

 今は一人でいつもいる。朝も晩も夜も。すべてをあきらめて生きてきた結末がこれか、と辟易する。

 やっぱりひどすぎるんじゃないかと心の内で思う。私が最善だと思ってとった行動がいけなかったかのような結末に困惑する。でも、それは最善だったと私は思う。

 付き合い始めてから一年後、宮田栗生の母に会う。

 栗生によると、家族とは疎遠ということらしいが、形の上でかすかな交流はあるらしい。

 そして驚く。

 「羽仁村雪子?」

 私が栗生の母親に名前を告げた瞬間だ。彼女は疑問で顔を曇らす。どきりと刺すような心地を感じた。

 羽仁村雪子。何かこの名前にあるのだろうか。

 僕はこの母の言動を見て、ただ驚く。え、母さん、こいつのこと知ってるの?と。

 「ねえ・・・、ひょっとしてあなた旧姓宮田じゃないかしら。」

 え。そうだ。私の旧姓は宮田。宮田雪子。え?

 何があるのだろう。緊張で体がこわばる。

 「あなた、羽仁村の娘?」

 そうだが。唐突すぎて答えられない。

 「羽仁村、羽仁村孝男。あの人の娘なのね。」

 はっとした。そうなのだ。私の父は羽仁村孝男という。この人は、栗生の母は私の父と知り合いなのだろうか。それはどんなものなのか…。頭の中を思考が渦巻く。

 急に、私をにらみつける。そして、激しい負の感情を彼女は表す。

 「あなた、羽仁村の娘なのね。じゃあ、私の妹の娘ということになるわ。」

 唐突すぎて理解できない。

 それでも彼女はしゃべり進める。

 「私の妹は、羽仁村孝男に殺された。でもその事件はずっと闇のまま。」

 「妹は、宮田春は・・・。ある日自殺してしまった。凍えるような日に、寒い外の中で。」

 そういうのは、宮田秋という栗生の母親。

 私も栗生も動転する。

 そして僕は状況を飲み込めずに立ち尽くす。

 つまり、呆然と立ち尽くす宮田秋の主張をまとめると、私の父。羽仁村孝男は私の母、宮田春を殺したということになる。

 私の知っている限り父は少し常識を逸していると思ったことはあるが、女性から見た男というだけで、その範囲の中で認識の違いがある程度だと思っていた。それは、私が帰ろうが帰るまいが死のうが生きようが一言も言葉を交わさないことなのだけど。

 でも、本当は気づいていた。普通じゃないって。でも相談なんてできないし、どうすればいいのかも分からないから。ただ心を殺していたのだと、今は分かっている。自分が本当は感情が豊かだったと教えてくれたのは、栗生だから。

 あながちあり得ないことではない、と思う。私の父、羽仁村孝男が殺人者だということを。

 どうしよう。この場をどうしよう。急に狼狽する。うろたえたまま、走り去ってしまいたいと思うのが普通だと思うけど、私は矢面に立ち続ける。だって、ずっとそうしてきたから。平静を装って、動揺をひた隠して、揺れない様に、揺らがないように、沈黙を守る。逃げたらすべてが終わりだと、思っているから。

 宮田秋は栗生の手を引っ張り、そそくさと帰っていった。

 「気味の悪い子。」という一言を残して。

 孤独に耐えられない。今日は一段と一人ではいられない。まだ、大学二年生だというのに、もう人生は終わりかけているようだった。

 苦しいんだから、もう死のうとたくさんの根拠とともに結論付けるが、肝心の手段がない。

 痛くて怖くてつらい、それは全部避けたいことだった。

 希望なんて見なければよかったと強く思う。私は希望を抱えきれない。耐えられない。独りぼっちだから。

 誰かに助けを求めようと、今思った。

 いつもなら死ぬことしか考えていないのに。栗生と出会ってから、考え方が少し外交的になった気がする。

 それから二年がたって僕は就職した。正直、話が重すぎて彼女の顔は見られなかったし、何もできなかった。母親はそっけない態度で絶対に雪子とは接触するな、とくぎを刺す。

 ドラマみたいな深い因縁がこの現実にも存在するのかと、ただ思う。ただ、漠然と。

 だから、僕は雪子に話しかけようと思ったが、彼女が避けるのだ。ふい、と話もせず目も合わせず、僕は深く傷ついた。

 だが、彼女はそれ以上に傷ついているんだろうと察して、僕もそれに合わせる。

 「パッパー。」

 大学二年の冬。バイクの免許を取得した。

 濁る心を冷ますために滑走しよう。このままじゃ、いられないし、耐えられない。

 …本当は、死んでもいいという願いを僕は抱く。

 だからバイクの免許を取得して、駆けずり回る。最高に苦しい。このまま死のうという思いを溢れさせる。

 「・・・・・・・・・。」

 アクセルを踏んだ瞬間だった。何が起こったのか分からなかった。

 ただ、とても変な心地を味わっている。味わわされている。

 「・・・・・・・・・。」

 気が付くと天井が見えて、自分が横たわっていることに気付く。

 ああ、全身が痛い。死んでしまいたいほど。でも、死ねなかったのだ。

 だから雪子にはしばらく会わなかった。会えなかった。彼女は多分、僕に避けられていると思っているのかもしれない。心情を想像すると、胸が痛くなる。

 ただ、冷静になると今の状況が複雑すぎて、すべて忘れてしまいたくなる。

 そうしてこうして、ただ時がたっていった。

 僕はもう歩けるようになっていたし、大学では雪子の姿も目にする。彼女の視線が少し僕の方をちらつくのをたまに感じるのだ。

 正直今はもう冷静だから、すべてを捨ててしまいたいなんて思わない。

 自分を助けられるのは、自分だけだから。

 私は唐突に、めまいに襲われる。前が見えない。ブラックアウトしたまま、そのまま歩き続ける。はあ。はあ。はあ。

 心の中でだけ叫ぶ。

 あれから、あの日からずっと調子が悪い。女々しくて燃え上がっていた自分を恥じる。人間って、なんとも不快な生き物だって。今はそんな風に思っている。

 冷静になるまでに幾度もの不調を経験した。あの日、宮田秋に出会ってから。

 だから私は、麻薬中毒になった。薬物中毒は怖ろしくて、やめられない。

 怖がりな私が何でそんなものに手を出したかって。耐えられなかったのだ。空腹感に似た、焦燥感に。

 今になって思うと、最初から知らなければよかった。知らなければ、壊れなかった。執着を恥だと思う自分を呪いたかった。満たされない欲求が、この強い欲求が世界には実在するということを思い知らされる。

 それを解消する術を、見つけないといけなくて、選択肢のない私は麻薬にすべてを託す。

 ある日、とんでもなく苦しかった。

 ああ、これはもう死ぬに近い状態なのだろうとうっすら悟る。

 宮田春は凍える路上でそう思う。

 夫は羽仁村孝男というけど、とんでもない男だった。私が彼を支えてあげられればという自己陶酔に陥って、彼は私を好いてはいなかったらしい。だからひたすら矛盾していく。大好きだと妄信する私と、好きという気持ちを抱いていない不安定な男。

 頼られたかった。ただ、偶然知り合って支えてやりたくなったのだ。多分私の一方的な片思い。そして両想いにはなれなかったから、確実に満たされない関係なのである。

 毎日が不安定なまま続く。

 だが彼はそれを苦痛と感じていたみたいだけど、私の意地が彼を離さなかった。

 それはとても歪で、破壊的によくないことだと分かっているのに。

 宮田春。羽仁村春。私は羽仁村春になった。正直、結婚という実感は薄かったけど、肩書が増えたようで心持ちが安定する気がする。

 「はあ。はあ。はあ。」

 冷たい路上に打ち付けられる。

 彼に捨てられた。羽仁村孝男に。きっとこのまま死んだら私は自殺と片づけられるだろう。だって、部屋に遺書を残してしまったから。

 本当は死ぬつもりだった。この寒い冬に路上に寝っ転がって、死んでやろうと意気込んでいた。だけど。

 だけど、羽仁村孝男に。あの男に殺されるのは違う。この冷たい場所に睡眠薬を飲まされてほうっぽられたらしい。

 孝男の入れたお茶を飲んで眠くなって、気付くと動けないままこの路上にいる。

 もう降参だ。こんなひどい人生。そしてひどいあいつとなんか、縁を切ってやる。一人で苦しめと、毒づきもする。

 でも、でも。私の娘は?

 私の娘、雪子はどうしよう。

 今あの子はどうしてるだろう。私はもう死ぬから、じゃあ孝男が育てるの?あの人に、あの男になんか任せられない。そう、気持ちが焦るから、何だか死が遠のいていくようだ。

 でも、そうだな。ああ。う・・ん。

 「バタ。」

 彼女は死んでしまった。薄暗い闇の中で。無念とともに。

 現実はとてつもなく残酷で、きっとゲリラ豪雨みたいに、誰かにだけ降り注ぐ。それをどうしようかと、いつも悩み続ける。

 人々は、人々は。ああ、虚しいし、悲しいし、絶望から逃れようと、ふと思い立つ。

 「え・・・・・・。」

 母はどうやらそのような死に方をしてしまったらしい。

 私はその事実を宮田秋の手紙を読み知った。

 警察に自殺ではないと掛け合っても消されたこと、細かい死因は分からないが、きっと羽仁村孝男に殺されたということ。

 どうしてそう確信したのか。あいつの目を見た、と言っていた。

 羽仁村孝男の動転している目を。

 妹だったら、春だったらもっとひっそりと静かに道端の真ん中で寝そべって死んだりしないと、長年の付き合いで思っていた。という。

 だが幼い私は知らなかった。

 母が殺されたという事実を。母は病気かなんかで死んで、離婚していた父に引き取られたのだと思い込んでいた。

 だが、それでも父はやさしかった。小動物をめでるようにかわいがってくれた。今思うと、母を本当は好きだったのかもしれない。じゃなかったらこんなに優しくしないだろう。できないだろう。

 タガが外れたモンスターは、平気で動き回るのだ。

 羽仁村孝男は思う。

 俺は妻を殺してしまった。それははっきりと覚えている。その時から俺の思考はめちゃくちゃだ。何とか平然を装おうとしてもばれる。変な奴だ、と。

 だが娘は俺を疑っていない。俺を不器用だけど優しい父親だと思っているみたいだ。あいつは春に似て利口なのに、どうしてそう信じるのか、ただ不思議に思う。でもいいかえると、春みたいに妄信的なのかもしれない。俺に執着したあいつみたいに。

 ひどく冷静な気分で自分を恥じる。上気したり沈着したり激しい感情の波に疲れた。ただ疲れてしまったようだ。

 そう心の中で思うのは、40代になった羽仁村雪子だ。

 今まで結局、苦しかった。状況に応じて思考がめぐらされる。感情が張り巡らされる。その連続につい思ってしまった。疲れた、と。

 だって傍から見れば私は殺人者の娘なのだ。

 私の父羽仁村孝男は、結局死んでしまった。自殺だった。死ぬ前に父は憔悴していて、顔色が悪い。ああ、この人は近いうちに死ぬんだろうな、という不気味さを感じていた。

 そして、遺書に私の母、宮田春を殺したことを記述したのだ。私は当然殺人者の娘になり、それで20代、30代を費やした。

 自暴自棄のような投げやりな生活の中で、今までを生きてきた。だから、もう人をだますのも一時の感情に流されるのもすべてが恥ずかしく感じてしまう。

 冷静に認識しよう。私は殺人者の娘で、一人で生計を立てていかなくてはいけない。私に課された業で、生きるためには必須なのだ。だから周りの人のように幸せにはなれない。それは、人をだますことと同義だから。

 思いつく限り一巡して、終わりを迎えることにする。どこかに違う選択肢がないだろうかと頭の中をぐるぐるしてみても何も思いつかない。見当がつかない。

 だからもう寒い冬山で、母のように死のうか、とも思う。

 鏡を見るたびに傷つき、あの人を、栗生を思い出すたびに消えたくなるのだ。

 もう現実を生きている気がしない。何のつながりもないし、何のとっかかりもなく、手で、なにもつかめない。

 助けてほしいという欲求などいくら声にしたところでかき消されてしまう絶望に、深くはまってしまった。この世には本当に身近に抜け出せない沼というのがあるのだと思う。私は何がいけなかったのかそこにはまってしまった。

 ずっと知らないふりをしてきたけれど、それは間違いない事実らしい。そして今その感情に襲われている。孤独だと知覚しないように平静を装ってきたけれど、痛感してしまった。分かったからってどうなるものでもない。といことにも気づいてしまった。ただ、ただ。

 逃げよう。

 どこかへ。

 この物語は私、宮田雪子の物語だったらしい。

 私はどうなるんだろうか。

 中途半端なまま生きてきたのだ。

 しばらくそのままでいて、ただ寝転んでいる。でも私は死ねないらしい。死ぬほど苦しくはないらしい。ただ繰り返される感情の動きに辟易としてしまった。それだけ。その苦しみからは逃れられない。

 だからこの世界で受けたもやもやをなかったことにして無視してもう寝ようなんてしてはいけないということに気付く。

 ちゃんとそれを認識して、そのために向き合って、私は人間になる。

 私は人間になる。

 どんなに苦しくても、自分の感情を認識しようと努力する。時間を設ける。

 「今まで、ごめんね。」ずっと無視してきたもやもや、私の心、私の正体に向かって謝る。私は謝罪する。

 

 どうやら、もやもやを認識して初めて私は完成するらしい。今は人づきあいも難なくまあできる。私は人間としてちゃんと一人になれたらしい。


 九十九里浜の真ん中で、手を繫ぐ。

 ずっと望んでいた生活にたどり着くまでこんなに年数を費やしてしまった。

 だからもうやり直せはしないから、ただ突き進むだけ。

 

 私を傷つけたあの男の顔が浮かぶ。

 栗生。

 彼が私を避けたという認識から、憎しみを抱いてしまった。

 でも、優しい人を傷つけてしまったと今は認識している。耐えきれない重みを与えてごめんなさい。それでもそれまで誠実に接してくださってありがとうございます。

 ただ、呟くのだ。

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