その愛は狂気にも似ている

(※本レビューはネタバレを含んでいます。本作をご一読して頂いた後にお読みください)





 愛しすぎていないなら、十分に愛していないのだ。
                              ——パスカル



 恋は盲目、とはよく言う。だからこそ、最終兵器な彼女たちは人類を捨てたのだし、シンジ君は「綾波を返せ!」と言ってニアサードインパクトを引き起こしたわけだ。恋は人を暴走させる。価値基準を狂わす。個人が世界よりも価値あるものになってしまうことだってあるのだから、とんでもない危険物だ。
 しかし、まあ残念なことに物事をボクとキミのセカイだけで完結させることは中々難しいもので、『柔らかい肌』や『勝手にしやがれ』といった具体例をわざわざ挙げるまでもなく、相手のセカイ(環境とか、人間関係と言ってもいい)を無視した恋はろくな結末を迎えない。浮気とか不倫の先を思えば誰にでもわかることだ。特に『柔らかい肌』の場合は、妻に猟銃で撃ち殺されて〝デッド・エンド〟と——まあ、まさに「取り返しがつかないものだよ」、だ。まったく、ポカポカしない(よく考えると、シンジ君もQであんな目に遭ってるんだから、こっちのタイプにも含まれるのかな)。

 さて前置きが長くなったが、本作『Preoccupied』もそうした物語の一種だ。乱暴にまとめてしまえば、飯島まゆりというJKが陸上部のセンパイに恋焦がれるんだけど、そのセンパイには実は彼女がいました、という話だ。流石に猟銃でぶっ殺されることはないけれど、空回りする恋心に涙を流す、少女の切ないお話だ。
 単純な恋愛ものと思いきや、切ない失恋もの。恋がもたらす錯覚が上手く描かれている。白状してしまえば、JKの一人称視点で物語が進むものだから、つい彼女の調子に乗せられてしまって、私も飯島まゆりと同じ錯覚をしていた。思い返せば、何だか高瀬に関する記述も絞っているように見えるし、おそらく私はそうした作者の計算にかかってしまったのだろう。別に小説の技巧的な知識を有しているわけでもないけれど、描写する情報量の調節が巧みであるからこそできたことだと思う。
 とはいえ、話自体はいたってシンプルだ。じゃあこの物語の持つ特色って何だろうって考えたとき、私の頭に浮かぶのは「距離」だ。上記のような事実があるからっていうのもあるんだろうけど、高瀬がまゆりとの間に取る距離は一般的な恋愛小説に比べて長いような気がする。なにせ高瀬にいたっては主人公に「お前は苦手だ」と言っちゃうぐらいだ。でもそれは多分、二者間の恋愛観を描くのではなく、個人の恋愛観を描くことを重視したからだろう。「お前の問題は、お前なりのやり方じゃないと解決しないんじゃねえの?」ってセリフなんて、もはやこの小説のタイプを表明しているようなものだ。
 で、まあその通りに飯島まゆりは独りで悩む。自分自身の恋愛問題が、彼女と先輩の二者のセカイに完結しているかのように思い悩む。先輩に彼女がいるんじゃないかとは考えもせず、ただ一人見当違いの苦悩を続ける。そして先輩の彼女の存在の発覚によって苦悩はピークを迎える。でも、最後にはきっちり自分で解決する。お姉ちゃんや前川先輩、そして他ならぬ高瀬の言葉によって。結局自分の恋は叶わぬものだけれど、だからといってセンパイから目を背けてはいけない。センパイが自分を苦手だと言ったけれど、必要なのかもしれないと考えたように、自分もまた彼自身にちゃんと向き合わないといけないと結論付け、部活に出かける。
 そして、彼女は「高瀬先輩」と呼ぶ。もうここに「センパイ」はいない。そんな一般名詞で表現されるような曖昧模糊とした存在はいない。彼女の目に映るのは「高瀬」という固有名詞を有した個人であり、自分とは異なるセカイを持つ、絶対的な他者だ。
 個人的な感想としては、この飯島の高瀬の呼び方が変化した部分が特に印象に残って、気に入ってる点だ。私の勝手な考え——というより思いでは、飯島はここでようやく高瀬と向き合えたように思う。これまでは「センパイ」という無機的な偶像に愛を捧げるだけだったのが、「高瀬」という有機的な人間に愛を捧げるようになれたのだと。果たして、その愛が恋愛なのか、友愛なのか、敬愛なのかを知る術は、読者の私たちは持ち合わせていない。高瀬との関係を象徴する数学の冊子に手をつけていないってことは、多分主人公にもわかっていない(「髪を短く切り揃えた」ってことは、もしかした恋愛の方はきっぱり諦めているかもしれないけど)。
 けれど、どういう〝愛〟の形だろうと、期間限定の〝愛〟だろうと、彼女は一生懸命に愛するだろう。この恋によって不可逆に変容した己で、他者性を獲得した高瀬を。それだけは「確かに言えること」なのだから。こうして、飯島と高瀬は、一方的にではなく、純粋に人間関係的な意味で相互に距離を縮めていくことができるようになったのだと思う。

 このコメントのタイトルで察した人もいるかもしれないけれど、私が『Preoccupied』を読了して抱いた感覚は、今敏監督の『千年女優』を視聴した後に抱いたものに近かった。
 虚構の宇宙船に乗り込んだ千代子の最後の言葉。それは自身の恋慕がエゴイスティックなものであったことを自覚する言葉。そして、千代子が浮かべる最後の表情。それは紛れもなく、そうであったことを何ら後悔していない、これまでの日々を美しく思う表情。恋する人はどうしようもないほど狂気的でエゴイストだけど、誰かを追い求めるその姿は美しいのだと、私はこの映画に教わった。
 私には、そんな千代子の姿と飯島まゆりの姿が重なって見えた。二人とも、最後まで決して追い求める相手と(少なくとも恋愛的な意味では)繋がることはできない。私たちが見るのはその道程、失敗の道筋。でも、恋愛の失敗はイコール人生の失敗じゃない。千代子の最後の表情が何よりそれを雄弁に物語っている。恋愛の成功と失敗は等価であると私は思う。問題はそこで自分がどんな時間を経たかだ。そうした経験を経てぐちゃぐちゃに変容した自分をどう思うかだ。『千年女優』とは違い『Preoccupied』にはそれに対する具体的なアンサーが書かれているわけではないけれど、部活に行けるようになったこと、高瀬に呼び掛けることができたこと、自身の恋が取り返しがつかないと言葉にしているということ、こうした数々の描写でちゃんと形にしているから、読み取ることは容易に可能だ。私が千代子の旅立ちを笑って見送ったように、まゆりもまたそうして見送りたいと思う。

 まゆりの恋もまた狂気に似ていた。
 だけど、そうやって全力で人を好きになれる彼女は「正しく」狂ってたと思う。お姉ちゃんの言う「マトモでいなくなる」状態にちゃんとあったと思う。「エゴイスティック」なほどに高瀬を愛することができたと思う。そしてそれでいいのだ。パスカル先生も言っていたけれど、好きってのは好きすぎるぐらいでちょうどいいんだから。
 自身のエゴを自覚しながら他者を愛するということ。まゆりが描いたこの夏に、私はそのような景色を見た。





空にはぽっかり穴が開いちゃうし
悪魔は解き放たれちゃうし
ヒューズなんてぶっ飛んじゃうわ
ああ、そう!
あなたが恋に落ちるときにはね……
                       ——”It's Oh So Quiet" by björk

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Preoccupied