Preoccupied

田中政宗

Preocuupied

 うだる暑さのなかで、あの人が鮮明に見える。赤いタータンの上で、汗をぬぐいながら歩いてる。

 今日の残りの練習メニューは、150m×3とダウンだけ。すでに一本は走り終えていて、私は友達と一緒に男子の集団から離れた位置を歩いていた。伸びきった髪が張り付いて煩わしい。そろそろ切ろうかな。私は横髪をかき分けて、ある一点を見据え直した。

 センパイは、練習の時はいつも先頭を走ってる。

 どんなに調子のいい同級生がいても、どんなに才能のある後輩がいても、だれも追い越せない。

 おなじリレーのメンバーと休憩してるときは、子供みたいにかわいく笑うのに、走ってるときのセンパイは、なんだか別人のようだった。

 夏練はきついし、行きたくない。でも、ベッドの上に寝転んだままでいると、きまってセンパイのことを思い出してしまう。そして気づいたら、エナメルを肩にかけているのだった。


 *


「せんぱーい、おつかれーす」

「おう」

 練習を終えて、私が気だるそうに歩くセンパイの情けない背中に声をひっかけてみると、これまた気の抜けた声が返ってきた。私はこの気の抜けた声がお気に入りだった。

「今日はひとりですか?」

「まあ、こっちの方向は俺とお前だけだし」

 センパイはスマートフォンから目を離さずに言った。少しはこちらに気をかけてくれてもいいのに、とも思う。それから少しして、センパイの制汗剤の匂いが少しだけしたから、ああ、二人きりなんだ、と思った。どうでもいいけど。

「そうじゃなくて、先輩は今日直帰なんだなーって」

「ああ、特に予定もないし」

 ぶっきらぼうに答えてくるけど、センパイは歩く速度を下げてくれたのが、わかった。

「あ、そうだ、先輩宿題進んでますか?」

 私がそう聞くと、センパイはスマートフォンをハーフパンツのポケットにしまった。そして、目だけを私の方に向ける。

「先輩に聞くの? そういうこと」

「あっ、ダメでしたか?」

「別に。宿題はフツーだよ。今週中には終わる」

 センパイの目は正面のどこか遠くに向けられ、右手はもう一度画面を求めてポッケのスマートフォンを探り始めていた。

「え?! まだ8月入ったばっかりですよ? なんでそんな進んでるんですか?」

「やってりゃすすむだろ。飯島はどうなんだよ」

 センパイの目がまた私の方を向いた。

「へへへ、英語と国語は終わってます。ホントはこれで確実に先輩より進んでると思ってたんですけどね」

「数学は?」

「ノータッチです」

「……二学期も赤点取るんじゃね?」

 センパイは、今度はちゃんと私の方に顔を向けてくれた。その顔は、子供みたいなあの笑顔で、悪戯っぽくそう言ったのだった。

「そ、そうかもしれないです」

「なんで嬉しそうに言うんだよ」

 私はまだ、数学が苦手なことをセンパイにしか話してない――

「嬉しそうでしたか?」

 ――だから、口元が緩む。今は、センパイも私を見てくれてる。

「変なやつ」

「あの、」

「なんだよ」

「マックで数学手伝ってもらえませんか?」

 すると、センパイの視線は私からすっと逸れた。

「え……それ俺にメリットあるの?」

「お願いしますよー、この前得意だって言ってたじゃないっすかー」

 私は少し甘えた声を出してみる。普段は出そうとすら思わないけど。

「……まあ、うん、そうだな。いいよ」

「やったー!」

 私は歩調を速めた。すると、さっきまで私に合わせて歩いてたセンパイを軽々と追い越すことが出来た。私は、私だけが、センパイを追い越せる人になれるような気がした。


 *


 私はマックシェイクを頼んだのに、センパイが頼んだのは爽健美茶だった。二つの飲み物を二つしかない椅子の間に置いて座った。

「先輩、なんでお茶なんですか?」

「そりゃ、部活に響くから」

 過度な糖分と脂質、特にアイスクリームの類いは体脂肪が付きやすく、千分の一秒を競う短距離種目ではその一グラムの体脂肪が勝敗を決することがある……とかなんとか。

 なんだかんだでセンパイの部活に対して真面目なところが、私は少し気に入らない。けど、そこがほかの男子とは、ほかの先輩とは、違うところ。

「真面目っすねー」

「うっせ」

 人一倍真面目なくせに、真面目って言われるのは気に入らないのが、センパイ。ほんと、子供みたい。なのに、やってることは憧れる。こんな風に頑張れる人は、フツーにかっこいいよ。まあ、付き合おうとかは別としてさ。

「じゃあ、早く宿題見せろよ」

「ちょっと待ってください……あっ」

 私はエナメルの中をのぞく。もちろん、部活の道具しか入っていない。

「どうした?」

「宿題の冊子忘れてました」

「はあ? 馬鹿じゃねぇの?」

「まあ、今日は可愛い後輩とデートってことで……」

「何のために来たんだよ……」

 センパイはそう返しつつも、席に座ったままでいてくれた。それよりも、デートって言っちゃったことが、後から少しだけ恥ずかしくなってきた。いや、自分のことを可愛いって言ったこともそうなんだけど。

「あっ、そうだ。次の記録会、何出るんですか?」

 とりあえず、適当な話題を投げてみる。

「えー、そうだな、まあいつも通り100と200と400じゃないかな」

 予想通りだ。あと、リレーとマイルも出るんですよね。知ってます。

「やっぱいっぱい出るんですね」

「そりゃな、記録会だし。タイム上がってるといいな」

 センパイは爽健美茶を勢いよく啜った。センパイの少年みたいな顔が見れたのはうれしかったけど、そんなに早く飲み干さないでほしいと思った。

「なんか、先輩陸上バカですよね。なんでそんなに熱中できるんですか」

「そりゃあ……走るの気持ちいし、あとー、ほら、タイム上がると嬉しいじゃん」

「まあ、そうですけど、なんていうか、やってるうちに辛くなるときって、あるじゃないですかー」

 この時の私は、どうしてか分からないけれど、この今まで誰にも打ち明けてこなかった、他愛もない悩みを告げてみた。そして同時に、私は喉の奥の奥にしまっておいた、締めつけるようなさみしさがなるべく見えないように、最大限の愛想笑いを被って言った。

 すると、センパイは私の顔を試すような、それでいて鷹のような、鋭い目で私を刺した。先ほど被った仮面にヒビが入る。そしたら、センパイは目を閉じて、それからフーと息を吹いて、深く腰掛けた。

「まあ、そうかもしれないけど、ほら、それよりも速く走れた喜びの方が勝つっていうかさ」

 返ってきた言葉は、あまりにもありふれていた。

 センパイの言葉は、まあその通りなんだと思う。実際、噓ではない。でも、センパイの思考がこんなにありふれている訳がないんだ。ホントは分かってるんだろう。こんな言葉が全てではなくて、それでいてこんな言葉で私が変わるわけないってことまでも。だけどそれでいて、だからこそ、嘘くさいことも言うんだ。これを言うことで、きっと自分じゃあ答えきれないってことを伝えてるんだ。

「でもそれが言えるのって、先輩だけなんじゃないですか? 先輩速いし」

 でも、こんな簡単な言葉で食い下がられたら、私が先輩をここに呼んだ意味がなくなってしまうのも、事実だった。

「それは……そうかも、しれねえよ。だってその問題は俺にも、お前にとっても同じようで、同じじゃないんだから。お前の問題は、お前なりのやり方じゃないと解決しないんじゃねえの?」

 同じ問題でも、持つ人が違えば、解決方法はまるで違ってくる。

 たぶん、そういう事が言いたいんだろう。

 確かに、そうだ。間違ってない。でも、私は間違ってない理屈を聞きたい訳じゃなかった。

「そんなー、まあ、そりゃあ、そうですよねえ」

 センパイは困ったように、眉間にしわをよせた。すると、センパイはため息をついて、こう言い放った。

「俺、お前とこういう話するの苦手だわ」

 マクドナルドの冷房はあまりに効きすぎていた。周りにいる他校の女子高生の会話がやかましく感じる。

 センパイは、私から目を離して、コップに滴る水滴を眺めていた。私の視界では、ただそれだけが妙にハッキリと見えていた。

「……すいません」

「なんで謝んだよ」

「いや、変な話振っちゃったなあと……」

「別に、嫌いだとは言ってないだろ。ただ……なんか、苦手なんだよ。なんだか、お前とこんな風に話してると、俺がこのまま過ごしてていいのかわからなくなってくる」

「どういうことですか?」

「知らねえよ。でも、色々考えて、色々感じてるお前を見ると、俺がこのまま、したい事をしたいだけ突き抜けていいのか分からなくなるんだ。俺が叶えたいことだけ考えてる間に、何か大事なことを見失うんじゃないかって」

 センパイの、コップを掴む手が強張る。

「……そんなこと、ないですよ」

「でも、」

「そんなことないですよ」

 私は語気を強めた。無意識だった。

「……」

 センパイは、うろたえているのか、それとも失望してるのか、分からない。でも確かに、俯いていた。私はその年上の青年の俯いた頬に、手を差し伸べるような声で続けた。

「進みたいことを進んで、見失うものは、もしかしたら、あるのかもしれません。でも、その代わり、私は悩み続けて……悩み過ぎて、それでその場にとどまり続けて、それ以上に見送ってきたんです。大事なものを」

 気付けば、センパイは顔を上げて私の話を聞いていた。けれど、全て聞き終わっても、伏し目がちなままだった。そして、しばらく私のことを睨んでいた。

「そっか……」

 センパイはそう言って、私と目を合わせずに残り半分の爽健美茶を一気に飲み干した。そして、糸を切ったように表情を緩めたと思うと、すぐに立ち上がった。

「えっ、ちょっと待って! ……下さい……!」

 センパイは立ち上がると、私を見下すように、こう呟いた。

「……俺、やっぱ苦手だよ。お前」

 なんか、やだ。

 嫌だ。心臓から濁流のように血液が流れた。ほんの一瞬だけど、身体の自由が効かなくなった。別に、ただのセンパイなのに、どうして、こんな一言で、って、自分でも信じられなかった。

 まるで胸の内側へ体中の皺が寄せられていくように、身体が縮こまっていく。猫背になって、上を、向けない。だけど、センパイの声はまだ繋がっていた。

「だけど、必要なのかもな。そういう奴が。お前みたいなやつが。」

「えっ……」

 センパイの声がまだ遠くに行ってないことに驚いて、私は案外簡単に顔をあげることが出来た。下から見るセンパイの目は、なんだか暖かくて、優しかった。

「苦手ってのはさ、向き合わないといけない、ってことなんだよ」

 そしてその言葉は、私に向けられたもののようではなかった。センパイはマクドナルドの店内の、どこも見てなかった。ただずっと、遠くの、その先を見ているようだった。

「じゃあ、またな」

 そう言って、センパイはまた子供みたいな顔でそう言った。一日中遊んだ友達と別れる時の少年のように、元気に、それでいて、切なげに。

 こんな顔を見せられたらたぶん、私じゃなかったら、センパイが自分に気があると考えてしまうだろう。

「……はい!」

 私がそう言った頃には、センパイは歩き出していたけど、それでも曖昧に振り返って手を振ってくれた。

 テーブルには、マックシェイクが一つだけ乗っかっている。他にあるのはセンパイの飲んでた爽健美茶から垂れて残った水滴だけだった。

 私はそのテーブルの上の小さな水たまりに、縮んだストローの包みを投げ込んだ。包みはイモムシみたいにウネウネと足掻いていた。今日の私は、そんなことでもなぜかたまらなく面白くて、しばらくそれを眺めていた。私が店内の喧騒に引き戻されたのは、マックシェイクを半分くらい飲み干した後だった。


 *


 それから数日後、部活もお盆休みに入って、センパイと喋る機会はなくなった。


 一日に何度もLINEでセンパイのトーク画面を開いたけど、四月ごろにした自己紹介の下に連ねる言葉は打ち出せなかった。

 そんなことをしているうちに、クラス友達とのカラオケと、箱根へ家族旅行に行ったけど、センパイと、部活の記録会と、宿題のことが頭にこびりついてるままだった。数学の宿題には、まだ手をつけていないでいる。部活の日々よりは遊んでるはずなのに、まだ開いてない机の上の冊子と同じように、私の夏はこれっぽっちも進んでいないような気がした。

 別に、部活も、勉強も、センパイも、本気で向き合っているわけではないはずなのに、どうして頭の中を占めるんだろう。


『苦手ってのは、向き合わないといけない、ってことなんだよ』


「うるせー、」

 居間のテレビがあまりにも退屈だから逃げ込んだ部屋のベッドの上で、私は一人呟いた。妙に恥ずかしくなって、そのまま手グセでスマホのロックを解除する。そしてまたこれも半自動的に、LINEを開く。最新の検索には、センパイの名前が載っている。別に男友達はセンパイだけじゃないんだけどなあ。というか、この前LINE来てたっけ。でもどうせ、彼女が欲しいとか、そんな感じの雰囲気だった。別に、自分の女としての価値を買いかぶっているつもりはない。ただ、分かる。なんとなくだけど。そういう男子は妙によそよそしいくせに、粘着質なのを――いつの間にか、気づいた時にはもうすでにどこかで――知っていたから。

 それだったら、センパイの方が。

 私と一緒にいても、私のことなんて少ししか見てくれないで、その代わり自分に向き合い続けてる、センパイの方が。

 LINEを閉じた。ホーム画面に戻った弾みでインスタを見て、次にツイッターを開く。友達が投稿した“夏休みの思い出”を人差し指で吹き飛ばしていると、ある文字が目に留まった。

『東京花火大祭』

 そっか、こんな時期か。

 花火大会、確かに今年は行ってないな。というか、夏祭りに行ってない。存在ごと忘れてた。

 そうだ。と、私はベッドから起き上がる。慣れた手つきでセンパイとのトーク画面を開く。

『そういえば、センパイは提灯祭り行くんですか?』

 と、打ちかけて、止まる。自己紹介のトークの後に、いきなり馴れ馴れしい気がした。でも、普段喋るときはこんな感じだし、どうだろう。

 提灯祭りというのは、センパイと私が住んでる地域の祭りで、地域の大きさの割には規模が大きい。中学の時には、毎年行ってた。

『お久しぶりですセンパイ、唐突ですけど、提灯祭りの日空いてます?』

 お久しぶりですってなんだろ、これじゃあ普段会うのが当たり前な体になってるから変な気がする。しかも、誘い方が露骨で、これじゃあ私にLINEしてきた同学年の男子と大して変わらないじゃん。

『センパイ暇ですか?』

 ……これじゃあ怒るかなあ。LINEだとカドが立つ可能性もあるし、何がしたいのか分からない。どうしよう。

 私は、部屋の中をぐるりと見渡してみる。

「あっ」

 一度思いついてくれれば、指は素早く動いてくれた。

『センパイ、8/21の練習の日、空いてますか? 数学終わらなくてピンチなんです』


 *


「いやあ、助かります。早く終わったら夏祭り行きましょうよ」

「いや、これだけの量なら無理だろ」

 場所はこの前と同じマクドナルドだった。センパイからの返信はLINEを送った翌日の夕方だった。

「センパイに断られたら成績諦めるところでしたよ……」

「今回だけだからな。二学期からはちゃんとやれよ」

「あざーす」

 私は、今日のこの日に、ようやくこの冊子に手をつけることが出来た。

 一ページ目。センパイは表題を見る。

「まあ、因数分解はいけるだろ。くくり出しとか置き換えしても見えにくい三項の因数分解は覚えゲーだから教科書の演習題見ろ。いける?」

 くくり出しと置き換え、聞いたことはある、三項の因数分解って何だっけ、でも教科書に載ってるんだよね。なら出来るかも。

「あ、はい。まあいけます」

「よし次、」

 センパイは冊子を冷たく睨みながらめくる。勉強するときはいつもこんな感じなのかな。

「多項式の計算は作業だから説明はパス、手が止まったら因数分解が使えるか試せ。次。」

「あ、はい」

 うそ、四問目どうすればいいのか分からないんだけど、まあ、因数分解とかすれば解けるってことだよね。

「二次関数は……まあ、ちょいちょいムズイのあるかな」

 センパイはペラペラと冊子をめくる。ちなみに私はここら辺から目を通してない。最初の章の最初の問題が、何を聞いているか分からなかったからだ。『x∈[ -1,1]において、f(x)=x2–2axの最小値、最大値を求めよ』が、日本語だとは思いたくない。

「あーでもこれも教科書に例題あった気がする。まあ結局基礎の復習ってところか」

「そうっすねー」

 流石に出来なさすぎると見限られるような気がして、あたかも少し分かるようにテキトーに返していると、センパイはこちらをじっと見つめた。

「そうっすねー、じゃねえよ。本当に手付かずじゃねえか。言っとくけどこれ、全部自力で解けよ」

「なんでですか?」

 すると、センパイは目逸らさずに続けた。

「この冊子、お前みたいな生徒のために作ってある気がする。これを教科書見ながらちゃんと解いて行けば、一学期の分取り返せるぞ。頑張れ」

「……はい」

 センパイは、私の宿題を手伝うって言ったくせに、説教をするだけだった。宿題を肩代わりしたり、何時間もかけて解法を教えてくれたりするなんてことは全くしようとしなかった。私のご機嫌を取ろうとする気配は、全くなかった。ただ単純に、私が数学から逃げようとしているのを止めようとしているだけだった。別に、私がそれで傷つこうとも、嫌な気持ちになろうとも御構い無しだ。やらなきゃいけないことは、やれ。そう言われたようだった。厳しいことだけど、非の打ち所がない。

 でも、ようやく気づいた。

 そういうのが、本当に優しいって、ことなんだろうな。

 この人は、自分のことだけをよく見てるんじゃない。人を、よく見てる。

 そっか、同級生の男子と違うのは、そういうことだったんだ。

「そっかあー、センパイの言う通りだあー」

 私は伸びをして心の内側に溜まり込んだガスを抜いた。

「……今日は素直だな」

 センパイは少しだけ緩んだ表情を見せた。部活や学校じゃ、見られない顔だ。

「まあ、その通りだなって」

「話せば分かるやつで助かった」

 センパイはからかいを込めた嫌味をこぼした。

「あの、」

「ん?」

「この宿題、ちゃんとやれば、センパイになれますか?」

「俺に? ……ああ、この時期ならまだ余裕だ。それに、別に俺に頼る必要もなくなるぞ」

「……そうですか」

 私にも来るのかな。この冊子を解いて、センパイと同じところに立って、

 それで、センパイが必要なくなる日が。


 *


 この街の、商店街から少し外れたところが、一部だけやけに賑わっている。一体どこに隠れていたんだと言わんばかりに、小さな街の小さなスペースに、人が詰め込まれている。この街ってこんなにうるさたかったっけ?

 私は、自分と同じ学校名の刻まれたTシャツを着ている、少し背の高い男子高校生と鳥居をくぐった。参道は、奥へ向かうほど人の濃度が高かった。ソースと、油と、作り物のような甘さの混ざった匂いが夏を思い出させてくれる。人のざわめきも、熱気も、今は身体のどこかに溶け込んで、忘れられる。そうだった、これが、お祭りだったね。

 提灯祭りは盛況だ。縁日の多い参道は、特に。おもちゃ箱を覗くようにはしゃぐ小学生達や、部活仲間で騒ぐ中学生達でいっぱいだった。そして、身を寄せ合うカップル達。

「もういいんじゃないか? 特に何も買わないだろ?」

「えー、せっかくだしもうちょっとだけ雰囲気楽しみましょうよ」

 センパイは、ついてきてくれた。私が宿題を終わらすと約束する代わりに、お祭りを一緒に回ってくれるとのことだ。

「でも、フツーに地元のやついるし、お前も顔見知りに会うかもしれないじゃん」

「ダメなんですか?」

「いや、ダメだろ」

「だって、部活帰りにちょっと寄ってみた、ってだけじゃないですか」

「そういうもんかな……」

 センパイは、表情を曇らせた。しかも、このときは、下を向いていた。センパイは、自分がどう判断するか迷うとき、いつも目を逸らす。

 でも、下を向いたのはこれが初めてだった。

「そーいうもんですって!」

 私は、明るい声で気を逸しつつ、その分センパイにほんの少しだけ、身を寄せた。たぶん、これは、祭りの熱と、通りかかるカップルに煽られたから……かもしれない。でも、こうやって雰囲気に飲まれそうになるのも、そして、雰囲気に飲まれきらないでいられるのも、たぶん、相手がセンパイだからだ。

「……ちょっと近くね?」

 センパイは伏し目がちに言った。本当にちょっとしか近づかなかったはずなのにバレちゃったから、少しびっくりしたけれど、困ってるセンパイがなんだかちょっぴり可愛く思えて、ニヤケそうになってしまう。今は少し、ほんの少しだけ、いつもよりも、センパイが近い。

「だって、混んでるから仕方ないじゃないですか」

「そうか……?」

「はい、ていうか、やだなー。そんな意識しないでくださいよー」

 そんな言葉とは裏腹に、私の鼓動は何もしなくても分かるくらいにドクドクと響いていた。自分の心臓の居場所がはっきり分かった。当の私が意識してどうするんだ。でも、もうちょっと、このまま。

「……うるせえな」

 センパイは、下を向いたままだった。


 ……もしかして、照れてると、下向くのかな。


 そう思うと、余計にドキドキした。やっぱ今日、ちょっとおかしい。

「あっ、ほら、歩かないと人に当たるんで、あ、歩きません?」

 ダメだ、テンパってる。しかも、人混みのせいで、わざとじゃないのに腕が当たる。まあその、普通にいつも通りすればいいんだけど。

 祭りの喧騒が遠く彼方へ消え、左肩から感じる僅かな熱を感じて、それで、あとは、なんだっけ。こんな夏祭りは、私は知らない。


 この日は、それ以上会話らしい会話はできなくて、歩いてたらそのまま帰路についてしまった。だけど、それでよかった。たぶん、センパイも、私も、マトモに話せなかったのは、きっと、同じだから。


 *


「やっちゃった……」

 あの祭りの日のことが、頭から離れなかった。事あるごとに思い出して、ニヤけるのを必死に抑えてた。一日中、家の中にいても、買い物に行っても、何をしても祭りの夜を思い出して、それで、何も出来なかった。そんな日が三日続いた日の、夕方のことだった。


「ただいまー」


 聞き慣れた、それでいて普段は聞き慣れていない声がリビングの外側から聞こえた。

「おかえり。お姉ちゃん、久しぶり」

 玄関に行くと、姉が帰ってきていた。小ぶりなリュックサックを背負った、白いシャツと紺色のデニム姿がさまになっている。長髪が汗でまとまっていて、外の暑さを持ち帰ってきたみたいだった。

「ああ、まゆり。ただいま、お母さんは?」

「晩ごはんの材料買いに行ってる」

「そっか、シャワー浴びていい?」

 お姉ちゃんは、靴箱のとなりにリュックを無造作に置いた。それやるとお父さんに怒られるのに。

「うん、あ、あと帰ってきて悪いけど、ついでにお風呂洗ってよ」

 そう言うと、お姉ちゃんは顔をしかめた。

「……なんか、あんたもだんだんお母さんに似てきたね」

「ええーー」

「まあ、わかったよ、あとで学校のこと教えてね」

 お姉ちゃんの足音は、トクトクトクと家の奥の洗面所まで伸びていった。リビングからの光と外からわずかに漏れる斜陽が、ほの暗い廊下に吸い込まれていた。

 私は、少しだけ今の気持ちを誰かに伝えてみようかなと思えた。


 *


「最近どう?」

 お姉ちゃんは、ピノの箱をバリバリと剥がしながらリビングのソファの、私の隣にボスリと座った。

「どうって言われてもなあ、特に。部活と……あと友達と遊んだくらい?」

 あと、センパイとお祭りに行った。

「へえ、そっか。あ、一個食べる?」

「うん。てか、お姉ちゃんは?」

「えー、私かあ……」

 お姉ちゃんは五つのピノを全部私に預けて、ソファにまだ温かいままの身体を、ズブズブとさらに沈めていく。乾かしたばかりの髪の毛からはいい匂いがした。ていうかそれ、私のトリートメント。

「そうだな、新しい恋人が出来たよ。お姉ちゃんは」

 お姉ちゃんはそう言って、私から箱を取り返した。

「またぁ……?」

 私は口の中で冷たい甘みを転がしながら返した。

「まあね」

「まあねって……そんな、去年の夏も同じこと言ってたじゃん。なんでそう、彼氏をホイホイ作れるわけ?」

 まあ、同時にどうしてそう毎年サクサク別れられるのかも気になるけど。

「別に? 女だったら、少しバカになればできるよ。そんなの。というか逆に、マトモな考えをしてるうちは、出来ないよ」

 お姉ちゃんは、もう一つ目のピノを口の中に放り投げた。

「マトモなうちは、って、それ自虐?」

 姉は、恋人は毎年一人と決めているらしい。梅雨時期に別れて、夏の終わりに出会うのだという。別に一年間、男で遊んでいるというわけでもなさそうだけれど。まあどちらにせよ、確かにマトモな女じゃない。

「そーかもね」

 お姉ちゃんはピノの箱をもう一度こちらに差し出してきた。

「でも、本当はそれだけじゃないんでしょ? 話し方とか、距離の詰め方とか、あと……着る服とか」

 あと、顔とかスタイルとか。たぶんお姉ちゃんが彼氏に困らない原因はそこなんだろうと、私は踏んでいる。

 そういえば、お姉ちゃんは、彼氏のこと、彼氏って言ったことないかも。男の人ではあるみたいだけど、いつも、恋人、って……

「まあ、小手先はそうだよ。だけどねまゆり、恋をするってことはね、マトモでいなくなることが一番重要なんだよ。まゆりは、気になる人とか居ないの?」

 私はもう一つ目のピノを口に運ぶ。二回目の甘味は、舌にチョコがまとわりついてるせいで一口目より鈍くなってしまった。

「まあ……居ないわけではないけどさ、でもまだそんなんじゃないっていうか、決定打に欠けるというかさ」

 そう言い切ったと同時に、お姉ちゃんは私の手のひらから箱を引き抜き、そしてすぐさま一粒頬張ると、その右手に残されたピックを使って私の眉間を指した。

「それ、それだよまゆり」

「え? 何が?」

「その決定打がないってのは、あんたがまだマトモな女でいる証拠だよ」

 お姉ちゃんの口角がクイっと上がる。

「いや、違うって、そんな、」

 自分がマトモかどうかなんて、分からない。だって恋らしい恋なんて、まだしたことないんだから。でも、もし今の私から変われたら、その人と、そういうこともあり得るって、ことだよね。そう考えると、少し恥ずかしいような気持ちがして、また同時に少しだけ、怖かった。

「今まで、その人といて、自分が自分じゃなくなるような気持ちになったことはない?」

 お姉ちゃんは、最後の一粒となったピノを私に差し出した。そして、私の目をじっと見つめた。私は昔から、この顔を前にするとたじろいでしまう。

「……いや」

 気付けば私は、目線をリビングに揺れるカーテンに向けていた。

「やっぱあるじゃん」

 お姉ちゃんは私のことを舐め回すようにして笑う。マトモじゃない女が、そうやって笑う。

「は!? そんなことないって言ったじゃん!」

 私はまだ、お姉ちゃんに勝てないようだった。

「妹の嘘くらい、分かるよ。

 それに、あのね。それは単にあんたは自分が自分じゃなくなる、そうやってマトモじゃない女になりきる腹づもりがまだ備わってないってことだけだよ」

「何を偉そうに……」

 私は最後の一粒を口に運んだ。バニラの外を包むチョコレートは、もうふにゃふにゃだった。甘さはすでにその輪郭を失って、甘い汁だけが喉に流れる。アイスとしては、もうマトモなものではなくて、ただなりゆきに身を任せ、とろけているだけだった。

「いいんだよ、それで。騙し騙し、ゆっくりマトモじゃなくなっていけばいい。というか、男の子と出会って、ゆっくりおかしくなっていくことを覚えていくのが、JKってヤツなの。逆に、いきなり恋に落ちてしまう方が、まずいね。そうなると、マトモじゃなくなる以前に、なんていうんだっけ、そう、歪むのよ」

 気付けばお姉ちゃんは、遠くを見つめていた。センパイの面影が、少しだけした。

「歪む……?」

 遠くを捉えていたその瞳は、いつの間にか閉ざされていて、代わりにまぶたの裏をなぞっているようだった。そして、お姉ちゃんはそのままゆっくりと呟きはじめた。

「まゆり。恋は、取り返しのつかないものだよ。きっと、救いようがないくらいにね」


 *


 夏休みは明けた。結局終わらなかった数学の宿題と共に。

 ただ、やけに肩に力が入っている自分がいた。これから始まる新学期は一体どんなものになるのだろうか。部活のこと、ちょっとだけ勉強のこと、そしてとびきり頭の中を満たすのは、センパイのこと。私のお腹の奥で、マトモじゃない何かがうごめいている。

 新学期の部活は、競技場練ではなく学校練だった。

「センパイ、おつかれさまです」

 私は部活終わりの気だるそうに歩くセンパイの情けない背中に、少しだけ震えた声をひっかけてしまう。

「おう」

 センパイは少し振り返って、私を見た。だけどそれだけで、私のお気に入りの声は無くて、センパイはどこか急いでいるように男子部室へ帰った。

 それが、その姿が、どこか胸の奥を締め付ける。話したいことなんて分からないし、伝えたいことは掴めない。だけど、センパイが視界の中から消えていこうとすると、切ない。

 よし、早く私も部室へ戻ろう。男子って着替えるのが早いから。


 *


「ねえ、飯島さん」

「はい?」

 少し遅れて部室に入ると、何人かの先輩はもう着替え始めていた。その中に混ざって私もティーシャツを脱ぎ始めたところで、前川英美先輩――センパイと同級生の先輩のうちのひとり――が声をかけてきた。私は着替えの手を止めないまま応答した。

「飯島さんってさ、高瀬とよくしゃべってるよねー」

 高瀬、っていうのはセンパイの苗字。高瀬智弘。これがセンパイの名前。

 まだ、センパイのことは、先輩としか呼べてない。

 そんなことより、どうして先輩は、センパイのことを……?

「えっ?! そうですか?」

「うんうん、一緒にいるとこよく見るよ」

「まあ、私の家の方面は私とセンパイだけなんで……それだけです。たぶん」

 とっさに出た言い訳だった。

 あれ?

 でも、実際考えてみれば、私とセンパイとの間にある事実はそんなもので、取るに足りないものなのかもしれない。そう思うと、切ない。

 まただ、またこの感じだ。心臓にピアノ線を巻きつけたような、痛みだ。

 行きたい。取るに足りないものを越えて、その、向こう側に。

「そっか、ならいいんだけど……あっ、私これで上がるね」

「え、あっはいお疲れ様です」

「お疲れー」

 前川先輩はそそくさと部室を抜ける。私もゆっくりしてはいられない。早くしないとセンパイは一人で帰ってしまう。ちょっとくらいいいやと、ボディシートで身体をひと通り拭くだけにして、制服に着替えて、私は前川先輩の後を追うように部屋を後にした。どうしてか、今日は胸がざわつく。考えてるのは、センパイのこと。だけど、こんなにも心が落ち着かない理由は、まだ、分からない。

 でも、とにかく今は、早くセンパイに会いたい。夏の続きがしたい。それでいっぱいだった。


 *


「え、」

 正門に、センパイが、いた。いや、それは良くて、となりにいるのは、見たことない、髪の短い、誰か。

 スカートを、履いてる。


 センパイが、同じ部活じゃない女子と一緒にいるの、初めて見た。


「あっ、えっと……智弘くん、待った?」

「いや、そんな待ってない。いくか」

「でも……ほら、夏休みと違ってさ、駅違うよね? いいの?」

「別に。千佳のところよりそんな離れてないし」

「……ありがと」


 初めて見た。センパイのあんな顔。

 一緒に帰ったことはあるけど、私一度も待ってもらったことはない。

 それに「いくか」なんて、言われたことない。

 下の名前で呼んだことも、呼ばれたことも。

 センパイが用意した、女の子のための優しさも、知らない。

 センパイは照れても下は向かなくて、鼻を触るみたい。勘違いしてた。

 それに、夏休みに会ってたんだ……

 視界の奥の方へ、センパイと私じゃないもう一人が、身を寄せ合って吸い込まれていく。

 地面がぐらりと揺れて、

 目頭に熱が走って、

 喉奥から何かがとめどなく突き上げてきて、

 手足がしびれて、

 自分の身体が操れなくて、

 こういうの、なんて言うんだっけ。

 そうだ、今の私、マトモじゃないんだ。

 そっか、私、

 センパイのこと、好きだったんだ。


 *


 私は、貧血と嘘をついて、部活を休むようになった。記録会も新人大会も出ないことにした。辞めるかはどうかはまだ……分からない。

 別にセンパイに会うことが気まずいと言うわけではない。そうじゃなくて、またセンパイと、あの女子が一緒にいる姿を見たら、耐えられない。

 私は、本当は休日練習をしているはずの時間に、自宅のベッドに横たわっていた。もう、誰かさんを思い出して部活に行こうなどとは、思わない。

 あの夏を思い出すたびに、喉に腕を突っ込まれたような痛みと不快感が走った。

 部活終わりのあの日々は、私とセンパイだけのものだと思ってた。でも、それは私だけだった。私と一緒にいるとき、センパイが眺めてる遠い先には、あの髪の短い女の子がいたんだ。今年の夏休みは、私にとってはセンパイとふたりで作ったモノだけど、センパイにとっては、私より“かわいく”振る舞えるあの子と一緒に作ったモノで、多分それは恋人と過ごした一生の内で一番輝いてる高校二年の夏休みだったんだ。私は、おまけ。いや、むしろ私は厄介者。提灯祭りの日、センパイが下を向いていた本当の理由は、簡単だ。カノジョがいるのに、後輩の女の子とお祭りなんて、行けるわけがない。それなのに、私はゴネて、それで、わざと距離をつめたりなんかして……

 ただ困ってるセンパイを、自分の都合のいいように解釈して、それで、くっつこうとするなんて、××だ。

 私は、汚い。

 不意に湧いた、センパイと密着したくなったあの衝動は、恋とか愛とか綺麗でキラキラしたものなんかじゃなくって、紛れもなく××だ。あの輝いてた恋かもしれない衝動は、たぶん、私の、××の欲望だったんだって分かる。こんな気持ち、持っちゃいけないに決まってる。でも、切ない。

 私は、センパイのことが好きだから。

 私のセンパイの興味とか一緒に居たいと思う気持ちは、確実に××とひも付けされていて、たぶん、あの女の子みたいに、“キレイにかわいく”接することなんて、出来ない。それに、センパイはあの女の子のものだろうし、それに、センパイはあの女の子を選んだんだ。だから、好き、だなんて思っちゃいけない。思いついちゃいけない。

 だけど、だから、堰を切ったように、好きで好きでたまらない。私は、アレを見た日から、恋が止まらない。


 こんなの、マトモじゃない。


 *


 それからまた数日経った。貧血の嘘が、そろそろ通じなくなってくる頃だった。その日、HRが終わって、当番だった教室掃除を終えたくらいにジャージ姿の前川先輩がフラッとやって来た。

「おっ、よかった居た」

 先輩は今まで通り、気さくに声をかけてくれた。というか、私の都合なんて、知るわけないもんね。

「あっ、先輩。久しぶりです」

 私は、とうとう来たか、と思った。そろそろ部活に復帰してもいいだろうという、先生からの催促が。私は、後ろめたさと言うよりは、どちらかと言うと、これからどうやって部活をやっていこうという気持ちで、動揺していた。

「どう? 元気になった?」

 前川先輩は、歩み寄ってくる。先輩たちの中で、特に私に優しくしてくれる人のはずなんだけど、今はその歩み寄りに緊張している自分がいた。

「えっと……まあ、はい」

「そっか」

 前川先輩は、可愛い。少なくとも、私の憧れだった。ハーフのような顔立ちと、コテで用意したみたいな、良い具合に癖のある焦げ茶の長髪。大きな目と、長い睫毛。それに、白い肌と、チークを伸ばしたような薄桃色の頬。

 だから、そんなにキレイな先輩がこんな私を気にいる理由が分からない。並べば明らかにミスマッチなのに。

 すると、教室の真ん中くらいまで近づいたあたりで先輩は急にとんでもないことを呟いた。


「高瀬、彼女作ったってね」


「えっ?!」

 え?

 私は、思わず声を上げた。教室の隅まで声が届く。それは、先輩に私の心を読まれてしまったと思ったからだ。

「やっぱり、そうだよね。飯島さん、わかりやすいもん」

 前川先輩は、くすくすと優しく笑った。

「なっ、何がですか?」

「飯島さん、好きだったんでしょ。高瀬のこと」

 図星を射抜かれる。でも、どうして? いつから? お姉ちゃんに嘘を見破られた時みたいだった。頬がカーッと熱くなる。止まれ、止まれ……そう念じても、その焦りがさらに紅潮を加速させた。

「……いや、そんな」

「もう白状しちゃいなよ。まあ、もう私にはバレてるようなもんだし」

 前川先輩って、こんなにイジワルだっけ、と思う。いつもは私のことをよく見て、困ってるのに気づいて助けてくれるのに。するとまた、前川先輩は突拍子のないことを重ねる。

「うん、まあカッコいいよね、高瀬って」

「え?」

 唐突に投げかけられたその言葉に目を丸くして先輩を見ると、ただ遠くを眺めていた。センパイと同じように、前川先輩は、どこか遠くを。そして気付けばもう、教室には誰もいなくなっていた。

「そりゃ作ろうと思えば作れるって、アイツなら」

 そう言って小さく笑う今日の先輩は、少し違って見えた。いつもの憧れの先輩ってよりかは、友達みたいな感じ……?

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「ん?」

「私が休んでる原因が、先輩のせいだって、どこまで知られてるんですか?」

 すると、先輩は、あははは、と吹き出した。私はその笑いの真意が分からず、少しだけ、先輩に不信感を抱きかけた。

「大丈夫。 みんな貧血だって信じてるよ。だって飯島さん、体育までちゃんと休んでるもん。多分気づいてるのは、私と、あと高瀬くらいじゃないかな。まあでも、高瀬の方は原因が自分だって気付いてなくて、せいぜい貧血は嘘ってコトくらいなんじゃないかな」

「じゃあ、今日来たのは……?」

「それは、先生に様子見てこいって言われたのもそうだけど、それなら同学年の子の方が適任でしょ? 私は単に、飯島さんの心のケアが大事かなって。それで、ここに来たの」

 つまり、部活に引き戻すことよりも、恋に気づいた時には失恋していた、センパイに振られる前に振られていた私を助けるために、ここへ? でも……

「でも、どうして先輩は私のコト、気づいたんですか?」

 すると、前川先輩は、この時だけ私の目を怖がるように避けて、伏し目がちに答えた。

「私もね、一年のとき、高瀬のこと好きだったんだ」

「えっ……?」

 私は、驚いた。もちろん、先輩のその事実に驚いたんだけど、誰かのことを“好きだった”ということを躊躇なく言えることに、なぜか一番驚いていた。

「あはは、突然何言い出すんだって話だよね」

 先輩は笑う。空っぽの瓶に棒を突っ込んで、かき鳴らすように。

「……それでっ、どうなったんですか?!」

 私は勢いに任せて聞く。すると、先輩は声をいやに明るくして語り始めた。

「んー? そりゃあ、振られたよ。夏休み前最後の部活の終わりに告白したんだけどね。そしたら、『今は部活とか勉強に専念したい』ってさ。普通なら、男子高校生がそう言って振るってのは、暗に好みじゃないっていうことじゃん? 自分で言うのもアレだけど、ちょっと自信あったし……だからあの時は、すごく落ち込んでさ」

 心なしか、先輩の声が潤んでいるようだった。一度こぼして、水蒸気になったはずの涙が教室中を満たしている。

「それで、どうしたんですか?」

「それが別に、どうしたもなくて。ただ、後になってアイツが、高瀬が、本当に、文字通りの意味で『部活とか勉強に専念したい』って言うような真面目な人だってわかっただけ。なんか、それがわかったら気持ちがスッとしちゃってさ、しばらくしたら高瀬のこと諦めてた。というか、好きな気持ちが消えちゃったの」

「そうですか……」

「でも、新学期始まったら、飯島さんが来て、それから少しして、すぐに飯島さんが高瀬のこと好きなんだって気付いてさ」

 私は、ついこの前自分がセンパイのことを好きだって知ったのに、前川先輩は、そんなに早く気づいてたんだ。私の気持ち。

 やっぱり先輩も、マトモじゃない人なのかな。

「そしたらなんか色々思い出しちゃってさ。ちょっとお節介になっちゃった」

 先輩は小さく笑った。贖罪をするようにも、見えた。今の私なら、その世話焼きが、純粋な色や形をしてないことは、それとなく分かった。

「そうなんですか」

「そしたら、アレだよ」

「アレって?」

「決まってるじゃん。高瀬が作った彼女のこと。あの子、高瀬の方からアタックされたらしい。しかも、夏前に! そっから東京の花火大会行ったりしてさ!」

 センパイに寄り添う、あの短髪の女のことを思い出した。それはここ数日、思い出したくもないのに、何度も思い出した存在だった。

「やっぱり……夏前から……」

 私の中で、言葉が、繋がる。提灯祭りに誘った日にやっていた花火大会と、その日まるごとセンパイからの返信がなかったこと。ああ、わたし、なにしてるんだろ。

「だから私も二回振られた気分になって……って、ちょっ、大丈夫?」

「へ……?」

 熱い汁が、目元から湧き出て止まらなくて、呼吸が出来なくて、小さい子供が泣くみたいにえずいて仕方なくて、自分の状況は、冷静に理解できるのに、身体と心はバカみたいに制御不能だった。

「あれ……すいませっ……その……!」

 先輩は何か言っているみたいだった。だけど、よく分からなかった。それよりも私は、この今の自分についての釈明をしようとするので精一杯だった。

「わたしその……色々っ……思い出してっ……その……!」

 とにかく、頭がとてつもないスピードで働いた。私がセンパイにかけたであろう迷惑と、センパイのカノジョがセンパイと過ごした楽しそうな日々を妄想するとなると、私の脳の回転は尋常じゃなく速い。

 私が原因の、センパイのイラついたような冷たい顔と、私にはこれから向けられるはずのない別の誰かに向けられたセンパイの笑顔が、代わる代わる頭の中を駆け巡った。

 そうやってぐるぐるアタマの中の言葉と映像が繰り返せば繰り返すほど、喉の一番奥深くがギュウギュウと締め付けられて、その分呼吸が浅く苦しくなって、搾りかすみたいな涙が溢れてきた。

 そうして、私の心のマトモがゆっくりと、とろけていった。


 *


「もう、落ち着いた……?」

 教室の蛍光灯がやけに眩しいのと、机に突っ伏して泣いていたせいで、視界が定まらない。

 立ちながら泣いて、そのうち、先輩が席に座らせてくれたのだけは覚えている。でも、窓の外が真っ暗になるまでにどのくらい時間が経ったかどうかは分からなかった。

「すいません……付き合ってもらって……」

「いいんだよ? というか、こっちこそ。なんか、ごめんね。今はまだ考えたくないよね、高瀬のこと。ホント、ごめん」

 確かに、思い出したくはないことだった。けど、こうして記憶を焼き直した代わりに、吐きそうなくらいの嫌悪感はどこかへ消えていた。というより、心の苦しくなるエネルギーすら、残っていないような感じだ。

『最終下校まで、あと十分です。教室内にいる生徒は、直ちに下校してください』

 録音された誰かの音声が聞こえる。先輩をしっかりと見てみると、どうやらいつのまにか制服に着替えていたようだった。

「とりあえず、まだ話し足りないこととか、泣きそうになったらいつでも相談のるから、今日はもう帰ろっか。ごめんね、ほんと。本当は、もっと元気付けるつもりだったんだけど……」

「いえ、大丈夫です」

 私は、やけに落ち着いていた。なんだか、身体の中の毒が、引きずり出されたみたいな、そんな、空っぽな気持ちだ。

「あっ、そうだ」

 先輩は、教室の電気を消そうとしつつ、私の方を見た。

「何ですか?」

 ちょうど私が荷物を背負ったときのことだった。

「高瀬は多分、まあ、カノジョはいるけどさ、飯島さんのこと、嫌に思ってるとか、そんなことは絶対ないよ。それだけは、確かだと思うよ。いや、私はあいつの彼女でもなんでもないんだけど」

 さっきまであった友達のような雰囲気はもう無くなっていて、前川先輩は、先輩の言葉でそう言った。

「どうしてですか……」

 すると、先輩はこう返した。

「だって、私にとっても高瀬にとっても……まあ、私も高瀬も飯島さんに対して複雑な気持ちはあるけど、そんなことよりもまず、私たちにとって、飯島さんがかわいい後輩なのは、変わらないもん」

 ……かわいい、後輩。かあ。

『俺、お前とこういう話するの苦手だわ』

 センパイもまた、私との距離を、

『別に、嫌いだとは言ってないだろ。ただ……なんか、苦手なんだよ。なんだか、お前とこんな風に話してると、俺がこのまま過ごしてていいのかわからなくなってくる』

 掴めていないとしたら……?

『でも、色々考えて、色々感じてるお前を見ると、俺がこのまま、したい事をしたいだけ突き抜けていいのか分からなくなるんだ。俺が叶えたいことだけ考えてる間に、何か大事なことを見失うんじゃないかって』

 恋人が出来たとしても、私がかわいい後輩であることは、変わらないとしたら――

『苦手ってのは、向き合わないといけない、ってことなんだよ』

 ――センパイは、残酷なほど、優しすぎる。

「あの、前川先輩」

「ん?」

「私、元気になりました。部活行けそうです」


 *


 うだる暑さなんて忘れ去られた秋の終わりに、あの人の姿が見える。練習を終えて、部室へと伸びる道を気だるそうに歩いてる。髪を短く切り揃えたせいで、いつもより首元が少し寒い。

『お前の問題は、お前なりのやり方じゃないと解決しないんじゃねえの?』

 私はその先頭を走る背中が遠くへ消えても届くくらいに、なるべく透き通って伸びる声を精一杯にひっかけてみる。

「“高瀬”せんぱーい、おつかれーっす」

 実はまだ、数学の冊子は終わってなくて、ずっと提出をはぐらかしたままでいる。

 高校一年生の夏休みが、この先に続くマトモでいられなくなった私の人生でいつ終わりを迎えるかどうかは分からない。

 でも、いつか閉じっぱなしの冊子に手をつけることがあろうと、なかろうと、確かに言えることがひとつある。


 それは、私の恋はもう、取り返しがつかないってこと。



 とてもじゃないけど、救いようがないくらいに。



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