第九章 お膳立てからの、振り絞った勇気⑤
最近、枝折の機嫌がいい気がする。
露骨な変化があったわけではない。授業中休憩中問わずに相変わらずのローテンションだし、基本的にはいつも通りの仏頂面。
ただ、雰囲気と言えばいいのだろうか。彼女の周りの空気が、どこか弾んでいるように感じる。
「重音。ペンが止まってる」
「あ、すまん。ちょっとわからないところがあってさ」
「どこ?」
「ここ」
「……公式が間違ってる。よく見てみて」
「え? ……あ。本当だ」
「さっき教えたところなのに」
「ごめんって」
枝折に膨れっ面を浮かべられ、思わず首の後ろを掻いてしまう。
「集中力が切れてきてる。今日はもう終わる?」
「そうだなぁ。二時間ぐらい勉強してるし、そろそろ終わってもいいかもな」
「ん、分かった。……そういえば、キッチンにクッキーが置いてあった」
「何で俺の家のキッチン状況把握してるんだよ」
「美味しそうだった。……食べたいなぁ」
「そして当たり前のように帰らないのかよ」
「……ま、まだ帰るには早い」
わかっちゃいたけど、やはり今日も家には帰りたがらない枝折なのであった。
「あっそ。じゃあ、クッキーだけってのも何だし、紅茶も淹れとくか」
ノートを閉じ、キッチンへと向かう。
紅茶とクッキーの準備を手早く済ませ、トレイを両手に居間へと戻る。
「お待たせ」
「こっちも今ちょうど終わったところ」
テーブルの上が綺麗さっぱり片付けられていた。流石は枝折。細かな気配りが行き届いている。
「ありがとな」
「えへん」
可愛らしく胸を張る枝折に苦笑しつつ、紅茶やクッキーを並べていく。
「ほい、どうぞ」
「ん、ありがとう。いただきます」
枝折が律義に両手を合わせ、クッキーへと手を伸ばした、まさにその瞬間。彼女のスマホから着信音が鳴り響いた。
「……タイミングが悪い」
「誰から?」
「唯奈ちゃん」
すぐに電話に出るのではなく、何故かスマホをまじまじと見つめる枝折。電話に出たくないというより、電話に出るかどうか迷っているように見える。
「どうした? 出ないのか?」
「重音がせっかく淹れてくれた紅茶が冷めてしまう……」
思っていたよりも可愛らしい理由だった。
「冷めちまったらまた新しいの淹れてやるから。友達待たせんなって」
「ん、そうする」
枝折は頬笑みを湛えると、小森との通話を開始した。
「はい、枝折です。こんにちは。今? 重音の部屋にいる。違う、ゲームじゃない。重音に勉強を教えてた。……も、もう。からかわないで」
恥ずかしさを誤魔化すように、枝折は前髪を指で弄り始める。また小森が余計なことを言ったんだろう。あいつもつくづくしつこいやつだ。
「それで、どうしたの? ……え? あ、えと、ごめんなさい。いきなりの話だったから驚いてしまった。嫌じゃない、けど……でも、迷惑になるかも……」
どうやら遊びか何かに誘われているらしい。でも、それにしては枝折の様子がどこかおかしいような気が……。
「迷惑じゃない? うん、うん……そう、なんだ……ち、ちょっと、待ってほしい」
スマホから顔を離し、何故か俺の方を見てくる枝折。その手はスマホの通話口をすっぽり覆っている。
「小森、何て?」
「唯奈ちゃんがお友達に私を紹介したいから、今度一緒に遊びに行かないか、って……」
「よかったじゃん。行ってきたら?」
「……でも、私は人見知り。話すのも上手じゃない。迷惑になるかも……」
不安なのか、彼女の視線は内向きになっていた。
俺も人見知りなので、彼女の気持ちは痛いほどにわかる。
場を盛り上げようと無理をして変な奴だと思われたらどうしよう。
調子に乗っていると勘違いされてしまったらどうしよう。
些細な言動で相手を傷つけてしまったらどうしよう。
何を話したらいいかわからなくなって相手を困らせてしまったらどうしよう。
そんな不安が胸を締め付け、足を踏み出す勇気を奪ってしまう。そのままずるずると何年も過ごし、ついには自分から率先して他人と関わらなくなる。それが俺たちのような人間だ。
「どうしよう……」
縋るような瞳で枝折は俺を見つめてくる。
正直、万年ぼっちな俺がどうこう言える問題ではない。友達に紹介したいから~みたいな話なんて人生でただの一度もなかった。だから枝折にアドバイスできることなんて何もないし、彼女に道を示す資格なんて持ち合わせてすらいない。
そもそも、枝折は俺とは違って、友達に囲まれていてもおかしくない奴なんだ。ちょっと勇気がないだけで、少しのきっかけさえあれば、友達ぐらい簡単にできるはずなんだ。
だから、俺が何かを偉そうに言うなんてお門違いにもほどがある。
……でも、不安がっている幼馴染みの背中を押すぐらいはしても、罰は当たらないはずだ。
「枝折が一人で会うわけじゃないんだろ? 小森もいるなら大丈夫だと思うけど」
「でも……」
「誰に対しても辛辣なお前を秒で気に入った小森の友達なんだろ? 案外すぐに仲良くなれるかもよ」
「それはそうかも、しれないけど……」
「難しいこと考えず、全部小森に任せりゃいいって。お客さんだと思って、気楽に行ってこいよ。もし何かあったら、俺が愚痴ぐらい聞いてやるからさ」
「重音……」
枝折は胸に手を当て、数秒目を閉じると、
「……私、行ってみる」
「決めたんなら、早くそれを小森に伝えてやれ。多分待ちくたびれてると思うぞ?」
「うん。そうする。……ありがとう、重音」
「それっぽい言葉を並べただけだから礼なんていいよ」
「ふふっ。重音は素直じゃない」
枝折は口元に手を当て、クスリと笑うと、小森との通話を再開した。
「もしもし。待たせてしまってごめんなさい。さっきの話、なんだけど……私も、唯奈ちゃんのお友達に会いたい。わっ、よ、喜びすぎ。びっくりした……」
小森がどういう風に喜んでいるのか、少し考えるだけで簡単に目に浮かんだ。
「うん、うん……それで、日程はいつ? 私は、なるべくお休みの日がいいけど、他の人に合わせる。……え? ま、待って。そ、その日、は……そこしかダメ、なの? みんなの予定がその日しか合わない? そ、そう、なんだ……」
突然、枝折の声が震え始めた。顔色も悪くなっている。
……どうも、雲行きが怪しい。
「ち、ちょっと、待ってて」
枝折は再び通話を中断し、こちらを見てくる。露骨なほどに目が泳いでいた。
「今度はどうしたんだよ」
「唯奈ちゃんの友達と遊ぶ日……今度の土曜日、だって」
今度の土曜日。
それは、俺が枝折と映画を見に行く予定の日だった。
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