第一話

 学校から帰ると庭におばあちゃんがいた。玄関のすぐ横にある犬小屋の前でしゃがんでいた。

 おばあちゃんがケンタにご飯をあげているのだと思った。

「ただいま」とぼくは声をかけた。おばあちゃんとケンタに聞こえるように。ケンタはぼくが帰ってくるといつも元気にすり寄ってきた。大きいくせに甘えん坊で、かまってあげると飽きることなく喜んだ。この頃は夏の暑さでバテたのか、春ごろと比べると元気が減っていたが、ぼくが帰ってきたときは変わらず熱烈な歓迎をしてくれていた。

 おばあちゃんはぼくに気付くと振り返った。おばあちゃん越しに犬小屋のなかが見えた。でも、そこにケンタはいなかった。

 おばあちゃんは手に点火棒を持っていた。犬小屋の前に庭の土で盛られた小さな山があり、そこに火のついた線香が刺さっていた。おじいちゃんの仏壇に供えてある線香と同じものだった。

「ミナトも手あわせえ」おばあちゃんが言った。

 おばあちゃんが放った言葉の意味が分からなかった。返事をする代わりに、「荷物たくさんだから先に置いてくるね」と言い玄関から家の中に入った。今日は終業式でいつもの倍は荷物が多かった。持って帰ってきた上履きを玄関に放り投げ、教科書と宿題が詰まったランドセルを自室の床に下ろし、工作で作った立体迷路を学習机の上に置いた。自室までの道のりでぼくはおばあちゃんの言ったことの意味を考えた。ほんとうは考えるまでもなかった。でも、ぼくは考えた。


 犬小屋につないであった紐が千切れていた。自然に切れたものではない。強い力で噛み千切られた痕が残っていた。

 動物は、死ぬ直前に人の前から姿を消すことがある。おばあちゃんはぼくに教えてくれた。ケンタはもうすぐ死ぬことがわかってぼくの前から去ったのだという。

 おばあちゃんは昼ごはんに素麺を茹でてくれた。いつもは学校で給食を食べている時間だった。これから夏休みのあいだ、毎日おばあちゃんと昼ごはんを食べるのだと実感がわいてきた。素麺を啜りながら、ケンタがいなくなった話をきいた。

「ケンタはどこにいったの?」ぼくは訊いた。

「わからん。人に見えないとこにいったんや。もう戻ってこおへん」おばあちゃんは言った。

 テーブルの上には素麺の入った桶と数種類の薬味の載った小皿が置かれていた。おばあちゃんは紫蘇と素麺を交互に汁の容器にいれて食べた。ぼくは薬味なしで麺を啜った。薬味の青臭さが苦手だった。

 昼ご飯を食べ終わると自分の部屋に引き上げて、布団に横になった。布団から机に置いた立体迷路を眺めた。タワー型の迷路で、頂点の入り口からビーダマを転がしてゴールを目指すものだった。途中に分かれ道があって、正解だと思う方に迷路を傾けてビーダマを進ませる。ボール紙で作った歪な迷路だが、アイデアがよかったと誉められ賞をもらった。一学期のあいだ工作室の前の廊下に展示されたが、だれかが遊んだときに壊したのか途中のしかけが外れてしまっていた。だから今遊んでみても、その迷路はゴールにたどり着けなくなっている。ビーダマを上から下まで転がす途中で道が途切れて、迷路の外に飛んで行ってしまうのだ。

 それは不完全なもので、もはや大きなゴミとなっていた。終業式の日に返却された立体迷路をそのまま捨ててもよかったのだ。でも、ぼくは持って帰ってきた。それで遊ぶこともないとわかっているのに。

 ケンタのことを考える。今朝、学校に行く前にケンタと会ったはずだった。ぼくは今朝のケンタの姿を思い出そうとした。でも、頭に浮かんでくるのは昔のケンタのことばかりだった。ケンタは今日、どんな顔をしていたっけ? 思い出せない。そもそもぼくはケンタの顔を見ただろうか。玄関から出て、ケンタの横を通り過ぎる。そのとき、ぼくは振り向いただろうか。なにも思い出せない。

 現在のケンタを想う。赤い首輪をつけたケンタ。噛み千切った残りの紐は、まだケンタの首輪についたままだ。短いヒモをぶらさげていつもの散歩道を一人で歩くケンタを想像する。散歩の途中でケンタは思いっきり走ろうと紐を強く引っ張ることがある。そのたびにぼくはケンタを止めた。そんなとき、どうして? と言いたげな顔でケンタはぼくの顔を見る。その顔がおかしくて好きだった。

 ぼくは起き上がり、帽子を被った。いつも通学で使う黄色の学生帽ではなく、白と黒のスポーツブランドのロゴがはいった帽子だ。玄関を出て、犬小屋を見た。相変わらず家主が不在の犬小屋は、残ったエサと水が所在なさげにたたずんでいた。線香は短くなり、燃え尽きようとしていた。線香を足で横に倒し、周りの土をかけて火を消した。

 家を出て、いつもの散歩道を走った。まだ高い太陽がぼくの背中を容赦なく焼いた。河原の道には遮るものがなく、強い日差しを直接背中に受けた。二十分ほどで回れる散歩道を走り終え、家の前まで戻ってきた。ケンタがこの散歩道で物足りないと訴えるときは(ぼくが散歩をするときはほとんど物足りないと言ってきた。おばあちゃんとの散歩では素直に一周で終わらせた)公園の道まで散歩を延長していた。ぼくは公園まで走った。公園には低学年の子が何人か遊具で遊んでいた。公園の隅ではなんとなく顔を知っている四年生たちが携帯ゲーム機を持ち寄って遊んでいる。でも、そこにケンタはいなかった。公園に入らず引き返そうとしたとき、良樹が家から出てくるのが見えた。


 良樹の家は公園の近くで、他の友達と公園で遊ぶとき、自然と良樹も誘うことになった。六年生になってからは公園で遊ぶことは少なくなり、良樹ともクラス替えで違うクラスになって、遊ぶ機会はがくっと減った。会わなくなると、なんだかよそよそしくなってしまった。

 最後に良樹と遊んだのは五月のゴールデンウィークだった。まだ新しいクラスになじめずにいて、五年生の延長の気持ちで良樹と会えた。その後で六年生のクラスで友達ができてその子とばかり遊ぶようになって、五年生のクラスの友達と少し距離ができていった。

 声をかけようか迷ったが、ぼくは良樹に声をかけることにした。

 家の前の道路で良樹に近づくと、向こうから気付いてくれた。第一声になにを言うか迷ったが、息が上がってなにも言葉が出てこなかった。

「どうしたん?」良樹はぼくの汗だくの姿を見て、驚いて言った。

 ぼくは息を整え、事情を説明した。ケンタがいなくなって探しているのだと。良樹はぼくの家に遊びに来たこともあるのでケンタのことは知っていた。良樹は犬が苦手でケンタには触れなかったが、いつも犬小屋の前で嬉しそうにしているケンタを見て朗らかな顔をしていた。

「見かけたら教えてね」とぼくは言った。

「おれも探すよ」良樹が言った。

「いいの? どっかいくんじゃないの?」良樹は通学用のカバンではないナップサックを背負っていた。

「プールに行こうと思ってたけど、ケンタのほうが大事だからいいよ」

「ありがとう」とぼくは言った。

 良樹と二手に分かれてケンタの捜索を再開した。良樹は公園から学校の方角へ、ぼくはその反対へ、それぞれ分かれて探し始めた。

 もうケンタの行きそうな場所は思いつかなかった。ぼくらはがむしゃらに、町中の道を走った。疲れたら休憩し、公園や学校の水道で水を飲んだ。夕方になって公園に戻り良樹と再び会った。お互いに見つけられなかったと報告しあい、その日は別れた。良樹は明日も探してあげると言ってくれたが、ぼくはそれを断った。このままなんの成果もあげられなかったら、いたずらに良樹の夏休みを浪費させてしまうことになる。それはぼくにとっても心苦しかった。


 家に帰ると空っぽの犬小屋が寂しくぼくを出迎えた。中にはいるとお母さんが帰ってきていて、しばらく後にはお父さんも帰ってきた。家族そろって晩御飯を食べた。ケンタのことが話題に出るたびに、ぼくは無関心を装った。ほんとうはご飯だって食べたくない気持ちだった。

 お風呂のなかで今日の一日を振り返った。終業式があったのが遠い昔のことのようだった。

 担任の先生が伝えた夏休みの注意のなかでプールの開放日についても話があった。夏休み中の数日、生徒に学校のプールを開放するそうだ。泳げる子は夏休みのあいだ、学校のプールで泳ぐんだろうな。最後の水泳の授業で浩太に言われた言葉を思い出す。

 六年の最後まで、二十五メートル泳げなかったな。

 ぼくは湯船のなかで手だけでクロールの動きをした。腕を伸ばすとすぐに風呂場の壁に手がついてしまう。大きく息を吸って、湯船に顔を沈めた。何秒かすると息が苦しくなり、顔を上げた。息が苦しくなると、心臓がいつもより大きく動いた。どくん、どくん、と心臓が動くのをからだ中で感じていた。

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