この夏が終わらなければ

瀧田通史

オープニング

 飛び込み台の上に立ち、大きく息を吸いこんだ。裸のぼくの体を太陽がじりじりと焦がしていく。あんなにうるさかった蝉の声も、後ろに控えるみんなの声も、すべてが遠くになった気がした。

 時間と時間を切り裂くように鋭くホイッスルが鳴った。横にいた浩太が飛び込み、ぼくも一瞬遅れて水面に入る。プールの水は日差しと体温のせいで温くなっていた。浩太が泳ぎだしたワンテンポ後で、ぼくはプールの壁を蹴った。

 何度も練習したフォームを水中で再現する。右手をまっすぐに伸ばしたら、素早く右手をもどし交代に左手を前に伸ばす。なにかを掴もうともがくような手の動きになるのがクロールだ。ぼくは必死につかみどころのない水をかき集めていた。

 そんな動きを何度も繰り返した。永遠に続いた気がするが、実際の時間ではほんの数秒のことだろう。やがて、息苦しさがやってきた。体が新鮮な空気をほしがっている。自分のことなのになぜか他人事のようにそう感じる。手を交互に伸ばす合間に、顔をあげて水面に顔を出し、一瞬で息を吸う。それが息継ぎだ。やり方はわかっていた。でも、ぼくにはそれがたまらなく怖かった。

 機を見計らい、ここだというタイミングで水面に顔を出した。太陽の熱をすぐに感じた。息を吸うために、それまで固く結んでいた口を開く。だが、開いた口に入ってくるのは空気ではなくプールの水だった。ぼくの顔は既に水面に沈んでいた。

 水を飲んでしまい、驚いて足の動きをとめる。体勢を整えてプールの底に足をつけた。モルタルの硬い地面だ。げほげほ、と水を吐くために咳をする。でもそんなことをしても一度飲んだ水は出ていかない。

「おい、岡部! 途中で立ち止まる!」プールサイドで先生がメガホンを通して叫ぶ。待機列のみんなが笑う声が聞こえる。もう一度泳ぐために水のなかに戻ろうとするが、体が動かない。また水を飲むのが怖い。飛び込み台の上で集めた勇気はもうプールのなかに溶けてしまった。

 ぼくは残りの十メートルを歩いて端壁にタッチした。先に泳ぎ終わった浩太がプールサイドにあがったぼくを待っていた。

「六年の最後まで、二十五メートル泳げなかったな」浩太はぼくにそういった。

 そうだ。最後のプールで、ぼくは泳げないまま終わったのだ。地上は太陽の光で溢れていた。蝉の声も戻ってきていた。プールサイドにあがっても、ぼくの体はまだ震えていた。

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