[ feel, ] - Keep your chin up,look up to the skies and see. -

ヲトブソラ

[ feel,]- Keep your chin up to the skies and see. -

[ feel,]- Keep your chin up to the skies and see. -


 回り続けていたレコードは、気付かないうちに止まっていた。ただ、溝をなぞっていくだけの、簡単なことだと思い込んでいたから、こうなったのだ。私は分かったふりをして、本当は何も分かろうとしていない。だから、今はもう、そのノイズすら聴けなくなってしまったのだ。


 ────そして、物語は終わった。


八月二十日。

 絶望のような悲しみを知った日から気が付けば、こんな未来にまで来てしまっていた。部屋の照明ですら痛々しく感じた出来事は、私の何を変えたのか。恐らく、一生分は泣いただろう、だから、もう涙は出ない。あの感情が何だったのかも麻痺して、そこに届かないから忘れてしまった。


午前五時四十三分。

 目を開くと、暗い部屋をテレビの明かりだけが照らしていた。昨夜、ようやく空いた時間を使って観ていた映画の結末を知らないまま、眠りについてしまったようだ。映画の序章で繰り返されるメインメニューを見つめながら、時計が秒針を噛む音を聞く。未だに、この針が止まることがないだろうかと願ってしまう。何もかも夢だったんだ、嘘だったんだよと驚かされたいと願い、叶わず、うなだれ、下を向いても、しっかりと地を踏んでいるという現実を知ってしまうだけ。太陽は律儀に毎日昇り、窓にかけられたカーテンの周りを、ぼんやりと明るくしているのが、何かの出口に思えてくるのだ。ここは夢ではない、嘘でもないんだよ、と、きみに言われているような気がした。何も無かったことにすれば、本当に楽なんだよ。戯け、泣いたふりをして、同情され、何もしない。それが、私を上手にやっていく方法だったのだけど、そんなものに何の意味があるのかと、きみに言われて、初めて自分が恥ずかしくなった。


 ソファーに持ち込んでいたシーツを払い、足を降ろすとエアコンに冷やされた床に驚かされる。立ち上がり、その流れで手が弧を描いてカーテンに指をかけると、ゆっくりと光を招き入れた。輝く世界の明るさが目を刺すから、ぎゅっとまぶたを閉じた瞬間、暗闇へと突き落とすくせに………期待してしまうだろう。もし、次にまぶたを開けたら、世界が無くなっているかもしれないと期待してしまうんだよ。


 知りたくもなかった感情や絶望、悲しみを知らずに、世界が無くなっていたらいいのにって。


 ゆっくり、まぶたを開いて世界を確かめた。徐々に明るくなる視界の中に数秒前の現実が現実のまま、そこに存在していているから「まあ、そうか。相変わらず、私は子どもだな」と、今日の自分に納得させる。ベランダから身を乗り出し、空を覗いて、宇宙まで届きそうだなあ、なんて思ってみる。何かの記録を更新したらしい夏空の下、生温い風が頬を撫でて、何かで濡れた肌を乾かしていった。


 風を大きく吸い込み、夏の匂いを身体いっぱいに招き入れられたら、トッ、トッ、トッ、と、心臓が脈を打ち動いているのを感じる。


「きみは空の青さを知っていたから………」


午前五時五十九分。

 洗面台に向かうと、そこに蒼白の顔をした黒髪の女が立っていた。顔立ちはいい方なんだろう。鼻筋も通っているし、眉もきれいに整えられていて垢抜けてはいると思う。しかし、瞳にあるはずの光が弱く、暗く深いから不気味だなと思った。まぶたは腫れ上がり、うっすらとクマもある。いかにも『社会に疲れました』という表情だ。彼女を観察していると鎖骨の辺りまである髪をかきあげて、歯ブラシを手に取り磨き出すのだ。眉をひそめて首を傾げ、彼女を注意深く観察する。ああ、そうか、彼女は鏡に映った私じゃないか。自分でも驚くほど美しく生きようとしていない人間の目だ。


 大丈夫じゃない、大丈夫なもんか。きみがいなくなったんだ、大丈夫なはずじゃないだろう。


 私を生きにくくしたのは、きみのせいなんだよ。きみが私に本当を教えたから、嘘や同情、哀れと思われることで得ていた安心感を両手に持ち生きていた人生に嫌気が差してしまったんだ。


 ぜんぶ、きみのせいだ。


 テーブルに置いていたモバイルフォンを取り、何人かにメールを送る。鏡を見ていて気が付いたんだ。一昨年も、去年も、今日という日に、きみに会いに行っていないじゃないか。権利として与えられた自由な一日を、今日使わずに、いつ使うのだろうと想像してみると、これからも送るであろう日々に、それを必要とする日が今日以外に見当たらないのだ。きみに会いに行きたい、それが今日を生きる理由じゃ駄目な世界なんて、私のような人間はうまく生きられなくて、息が詰まる。


 低いキャビネットの引き出しからキーケースを取り出し、クローゼットに掛けられた女性のために作られた服をかき分け、それらに似つかわないライディングジャケットとライディングパンツを取り出した。今日はスーツの代わりに、これらに身体を覆ってもらう。


『急に休むなんて………』


 細かく震えたモバイルフォンの画面に文字が浮かび、感情の表面だけを伝えて消えた。言いたいことは分かる、大人として、社会人として、どういう事をしているのか問われているということも知っている。だけどね、もうこれは仕方がないことなんだよ。きみの声すら忘れかけているというのに、その他に大切にすることが、あまり無いような気がするんだ。


 私が必要とされていると思い、努力をして、何かを成すときに、私じゃなくても代わりはいるのだと知ったんだ。それでも、綺麗事なんかではなく、誰にでも自分じゃなければいけないものが、必ずある。無力さや桁違いな才能の差を感じ、周りを見渡すと同じ思いをしている人間が絶望的な数で存在していて、その中で自分を数えると下から数えたほうが早かった。それくらいの存在だとしても、自分にしかできないことが必ずあると、きみは教えてくれた。


 そんな、きみの声を忘れかかっている。


 シューズクロークの中でヒールやパンプス、ランニングシューズに混じり、場違いなほどに浮いているゴツゴツとしたライティングブーツを履く。キーケースと財布、モバイルフォン、ヘルメットとグローブを持って、玄関のドアを開けると、再び、生温い空気が頬を撫でまわした。その何もかもを包みこもうとするやさしさが嫌いだ。


「あの映画の監督は誰だったかなー?」


 ドアに差し込んだ鍵を回しながら呟いた言葉は誰に向けたわけでもないけれども、返事が欲しかった独り言。


午前六時十四分。

 駐輪場の奥に置かれた黒にオレンジの細いラインが入ったカバーを外すと、深い緑色のタンクを背負うバイクが姿を現す。ゆっくりとシート後端からタンクまで指を這わせ、ぽんぽん、と、子どもをあやすようにやさしく叩いて声をかけてみる。


「ずいぶんと待たせたね」


 タンクの下を覗き込んでガソリンコックをオンにし、キーを回して電源をオンにするとタコメーターの横にある警告灯がふたつ灯った。バイクに跨がり数回スロットルを煽って、キャブレターの中にあるガソリンの気化を促す。このバイクにはセルモーターが付いていない。エンジン右側にある折り畳んだキックスターターを引き出し、右脚一本でスターターに乗るように体重をかけ、全身のバネを使って蹴り落とす。クランクが回り、キャブレターからガソリンと空気の混ざった混合気が、エンジンシリンダー内に吸い込まれていく。その混合気がシリンダー内でピストンにより圧縮され、スパークプラグで点火されると爆発。気体が膨張してピストンを押し下げ、クランクを回すという一連のサイクルとなるまで、何度も、何度も、何度も、キックスターターを蹴り落とす運動が続く。


 ガッ!ガララララ…ッ、カッ!


 どれくらい相手にしていなかっただろう。冷え切ったエンジンは息をすることも、鼓動していたことも感じ取れなくなった、いつかの私みたいに目を覚ましてくれない。


「もうっ!放ったらかしにして…たっ!わ、たし!がっ!悪かったって!謝るってば……っ!」


 ドッ…!ドタンッ!ドロッロロロロ!


 混合気が圧縮され、爆発膨張した気体をピストンが受け止め、コンロッドを介してクランクを回し続けるアイドリング。タコメーターの針がゆらゆらと3,800rpmあたりを指し、油温計の針がじわりじわりと動き始める。DOHCシングル、排気量672.9ccのビッグボア、ロングコンロッドからなるショートストロークエンジンは独特な低音で空気を弾き、それはライブハウスでお腹に響くバスドラムのようだから気に入っている。


 レコードプレーヤーの針が鳴らし続けたノイズは、痛みだと感じていたことを思い出した。そんな思春期の感性で感じ取っていたことを、未だに感じるなんて、本当にいつまでも、私は子どもだ。


 目を閉じ、エキゾーストノートが空気を叩く音で鼓膜を震わす快感に集中する。額に薄く浮かんだ汗を拭ってシートに腰を下ろした。しばらく眠りに落ちる前のような呼吸を続け、意識が穏やかになったところでヘルメットを被り、顎紐を締めあげた。次にしっかりとグローブの先まで指を通し、手とグローブの感覚を馴染ませ近付ける為に、握ったり開いたりしたあとハンドルを強く握る。こうしないと、なんだか気持ちが悪い。私がクセでやってしまう一種のおまじないのような行為だ。ゆっくりと息をしながら、前後左右に首のストレッチをしていると、タコメーター横のランプのひとつ、油温の低温警告灯が消えたのを確認した。ハンドルを強く握り、サイドスタンドで支えられ左側に傾いているバイクを逆方向に勢いをつけて起こす。サイドスタンドをはね、改めてシートに体重をかけるとリアサスペンションのバネが少し、ギッ、と鳴った。左手でレバーを握り切るクラッチ。左脚のつま先でかき上げる逆シフトパターンのペダルは、一速。ゴトン!と鈍い音とともに、最後のひとつであるニュートラルランプが消えた。


「ありがとう、機嫌をなおしてくれて。それと、ごめんね。なんだか、最近忙しくてさ」


 深緑のタンクを右手で撫でる。


「すこし私の散歩に付き合って?」


 カンッと小さく、金属パーツで構成されたエンジンのどこかが、鳴る。


「ありがと。さあ行こう」


 クラッチをリリースするとクラッチプレートが噛み合って、動力がトランスミッションに伝わる。一速のギア比はドライブスプロケットをチェーンで引っ張って動力をリアタイヤに紹介した。タイヤは名刺一枚分の面積で接しているアスファルトをしっかりと掴み、蹴り続け、バイクを前へ前へと進めていくのだ。


午前六時二十九分。

 速度を上げていくにつれて日常と呼ばれる景色をかき分け、風と一緒に後方へ流れ、風景となり溶けて過去になっていく。未来は常に進行方向にあり、街路灯が3秒後の未来を教えるから、そこで待っている何かを想像して鼓動が高鳴る。


 すでに幹線道路は通勤ラッシュで混雑していた。いつもなら、あと一時間すれば、私も揺れるバスの中で、よろける為の僅かな場所すら与えられずにスーツで武装して、何から逃げる訳でもないのに見つからないよう息を殺している。片側二車線の左側、第一車線という名前の上をゆっくり流れる車の川。その流れに乗っているのだが、少しでも発進が遅れるとクラクションがしつこく鳴らされる。今、私は大勢のドライバーに煙たがれる存在だ。とても不思議な事なのだが、バイクというだけで何もかもが小さく扱わられるから息苦しくなる。移動する時まで箱に守られた、あなた達と背負っているものも、夢や希望、愛だって変わらないはずなのに価値が無いように扱わられる。これでは社会の中で、何かを理由に排除されていく疎外感や生活の中で感じる閉塞感と何も変わらない。まだ短い時間しか人生を送ってはいないが、これまでに感じた、どうしようもない何か、何かが違うのに、それを違うと言えない感覚に似ているのだ。正義は大多数の中に存在するから、常に少数は鼻摘み者だという不条理の象徴みたいに思えてくる。たまにバイクというモーターサイクルが、そんなことを感じるためだけに生まれた道具に思えてしまう時があって、この乗り物が『何か』の断面ギリギリに立つための、手っ取り早い乗り物だと思えてきて笑ってしまう時がある。


午前七時〇四分。

 信号機は赤を示していた。停止線の手前で止まりヘルメットのシールドを開けて、蝉の鳴き声で満たされた空気を吸い込んでいた。ぼうっと横断歩道の白のしましまを眺める。


 まだレコードプレーヤーが少し波打った板の上を、ぷつぷつ、と鳴らしていたあの日、まだ信号機が青だったから、先は見えなかったけれど渡りきれると思い踏み出した。けれども、私が思っていたよりも長い横断歩道の途中で気付いたのは、渡る覚悟をしたのは私の覚悟ではなく、ただ周りに流されて渡っていただけということ。そんな、私なんかですら手を引いてくれたきみがいたのに、信号が点滅し始め、私のペースでは渡り切ることが出来ないと引き返そうとした。ほつれた手と手、きみが驚く。渡ってきた反対側に振り返っても、そこは真っ白で何も無かったのだ。慌てて、何かに轢かれまいと中央分離帯に逃げ込んだまま、ずっと、私はそこにいる。目の前をごうごうと通り過ぎる何かに怯え、足がすくむ。何度も、何度も青と赤が繰り返されたけれど、きみが私を迎えに戻ってきてくれることはなかった。繰り返される信号の青と赤は、私のペースなど知りやしない。誰かが決めた時間を基準に繰り返して、みんな等しく与えられたそれに合わせて横断歩道を渡って行っている。基準を決めた誰かを恨んだことも、迎えに戻ってきてくれないきみに拗ねたこともあったが、これは私の時間で渡るものだと気付いた時には大人になっていた。


 きみとの手がほどかれただけで、取り残されたなんて思い込んで諦めたのだ。大人になり考えれば、無理に一緒に渡る必要なんてなかったんだと思う。自分のことばかり考えずに、きみの事を信じるということもしていれば、きみの歩幅に合わすことだけが『愛』だとか『想い』ではないと分かっていたはずだ。きっと、あのふわふわの笑顔は横断歩道の向こう側で、手を振り待っていてくれただろう。きみを信じて、私のストライドで渡り、きみの空を少し見上げて歩く背中に追いつけばよかっただけだった。白いしましまの上をごうごうと暴力的に通り過ぎる何かが怖くて、その恐怖から逃げ出すことばかりを考えて、立ち尽くすフリをしていたんだ。一歩踏み出せば、何かが変わっていたのかもしれない。いつも私は試されているのだと知った時には、きみはいなかった。


 結局、今も横断歩道の真ん中で、何度も変わる信号に試されている。一歩を踏み出す勇気よりも、必死に何かに押しつぶされないように『こころ』を隠しながら、一日分の精一杯をするだけで今日が暮れていく。


プンッ!


 後ろにいた車のクラクションで信号が青になったことを知り、慌ててシールドを叩き下ろして、シフトペダルをかきあげてクラッチをリリースした。


午前七時四十六分。

 幹線道路から県境に向かう道に折れると、空を縁取る高い建物が低い建物に変わっていく。そのうち連続していた低い建物も少なくなっていき、視界の両側に緑色と空色が映える時間が長くなっていく。片側一車線の細くうねる道路は舗装が痛み、つぎはぎだらけのデコボコした道は県境を越えて、向こう側の幹線道路に出るまで続く。この道とも、もうずいぶん長い付き合いのはずなのに「確か………110号だっけな?」と名前すらあやふやなんて、私は本当に都合がいい。針が50km/hを指していて、ゆっくりバイクを左に旋回させた時、メーターに写り込んだ太陽が跳ねた。陽が高くなり、昼には太陽系の中心から招いた光線が地球の23.4度傾いた地軸で、夏季になっている北半球で何かの記録を更新する予定だ。気温が低い朝早くに家を出てよかった。空冷エンジンを抱えるこのバイクは、酷暑の中で渋滞に捉まるということが大の苦手だ。理由は走っていないと自発している大きな熱を自走風で冷すことが出来ない。加えて、その大きな発熱量は私の体力をも奪うから身体にも厳しいのだ。バイクという乗り物は、夏は暑く、冬は寒い。車には必要以上に煙たがれ、駐輪場も驚くほどに少ないから気を使う。さらに荷物も全くというほど積めない。常にケガや命の危険を心配し備えなければならず、乗っている時は誰も守ってくれやしない。いいことと言えば、子どもには人気。そんな乗っている時間の大半が面倒な乗り物に、何故乗っているんだ?と聞かれるのが、常。


 本当に、なんでだろうね。


 両脚で挟んだタンクの下からキャブレターが空気を吸う音が聞こえる。少しでも多くの空気をエンジンが吸うために工夫されたタンク左側から前方に投げ出されたダクトは、前方からの風圧で圧縮した空気を取り入れためにある。ラムエアシステムと呼ばれる走行風まで利用した、少しでも前に進むために考えられた工夫。1gの燃料を燃焼させるのに14.7gの空気が必要で、それをもっと、もっと、と効率的にしたいが為だけに、こんな大掛かりな仕組みまで考え出して、絞り出した小さな力に喜ぶ。


 本当に面倒だ。そもそも効率の悪い乗り物なんかに、より効率のいいことを求める。だけど、それを突き詰めていくと自然界の鳥や木の枝、形、構造になっていくから面白い。どんなに奇抜な事をしても、元の形に戻っていくことが多いのも面白いと感じる。荒削りの石が川の流れに長年さらされると、そうなるように。


 こんなにも面倒な乗り物を何故、みんな愛するんだろうね。

 私も、よく考えるよ。

 何故、バイクなんだろうね。


 不器用なくせして、遠回りを愚直にしか求められない。

 非効率なまでに求める効率は不器用になって現れる。

 車が買えるくらいのお金を払い不便を嬉々として手に入れるんだ。


 笑われて当然だと思うし、自覚もあるよ。


 そうだな、うん。

 そうだ。


不便を楽しむ豊かさくらい、持ち合わせていてもいいんじゃないのかな。


 きっと、一般的には『馬鹿』と言われるそれなのかもね。馬鹿だから高額で売り出された不便を買ってまで使いこなす方法を探し出すのを楽しみ、試行錯誤して、笑っている。自分で必要としたくせに、不便さと上手く付き合うことを必要とされているんだと勘違いして、のめりこんでいく。余裕を持っていなければ、豊かな幸せを手に入れられないくらい単純で、馬鹿と言われる種類の人間だ。そこには、よく語られる哲学的な意味だとか、生きている事を感じるためだとか大層なことや深い意味は、きっと少ない。


 私の『単純な幸せ』が満たされるのは、きみが愛したであろう世界を、切り取られた小さな断片であったとしても感じられるから、好きなんだ。


 きみが見ていた景色を見てみたい、それだけの理由なんだよ。


 終わったはずのレコードの上を不器用にも長く、少しでも長く、同じ世界を見ていたいからという、そんな単純な理由でバイクに乗り続けている。


 青空から注ぐ光に濃い緑色のトンネル。葉の間から空が輝き、昔の映画みたくカタカタと不器用にリール回して映している。初めて、きみを見た時の後ろ姿が、何故、空を少し見上げながら遊歩道を歩いていたのか、いまは分かる気がする。道路に沿い空に張られた電線が、波打ち、分かれ、合流し、また別れる。それを見ていると、きみが分かる気がするよ。


 くぐる、点滅信号。


 本格的に山間部に道が入ると、勾配の緩急、右に左に道が蛇行するからリズムを取らなければ、ギクシャクして破綻してしまいそうになる。巡航していたバイクのスロットルを捻り、バタタッ!と短く加速した。お尻の曲線をシートに沿わせるように少し腰を引いて、左手でクラッチレバーを軽く引き、左脚で二回シフトペダルを素早く蹴り上げて、バンッ!バンッ!とブリッピング。タコメーターの針が跳ね上がり、抱え込んだエンジンの振動が細かくなって喜び、リアタイヤとスイングアームがはしゃごうとする。


「いい子、いい子」


 二速ホールドのまま、ギュッ、と、右手でフロントブレーキを握ると、荷重がフロントに移りフロントフォークが沈む。


ブゥアアアアアン…!!…パッ!パパッ!


 エンジンブレーキでリアタイヤをアスファルトにしがみつかせたまま、大きく息を吸い込んだら、フロントブレーキレバーをリリース。フロントタイヤが、すっ、と、バイクが向かいたい方向に切れていくから、その動きを邪魔しないように、ハンドルに伸ばした両腕の間には空気で出来た、やわらかい卵を抱えるようなゆとりを作っておくといい。カーブの中心に吸い込まれるように旋回をし始め、頭はカーブの中心を見るように向け、注意すべき前方は目線だけを向けて備えておき、遠心力が円の外に投げだそうとする理にフロントフォークとリアサスペンションを沈め、タイヤのたわみまで使って、向こう側に落ちないようにアスファルトに必死にしがみつかせてやるのだ。


「そう、そう。いい子、いい子」


 右脚でステップをしっかりと感じ、左脚は映画のヒロインが素敵なひとをダンスに誘い、腰に絡める太ももや膝のようにタンクを内側へと誘う。閉じていたスロットルを、じわり、と開けて、スイングアームが少し沈んだら「まだだよ」と言い聞かせて、カーブの真ん中より少し手前でスロットルを大きく捻りあげていった。リアタイヤが加速度に潰れ、アスファルトの上を、ほんの少し外へ滑りながら前へ蹴り進め、フロントタイヤが円の中心に向かい始めるから「そっちじゃない」と、さらにスロットルを大きく開けてカーブの出口へ導いてやる。


バタラララッ!!


 エンジンが心地よい振動と空気を叩くエキゾーストノートを奏で、駆動力をアスファルトに伝えたらブーメランのように弧を描いてバイクはカーブを曲がるのだ。


バタンッ!バンッ!ブゥウウウウウ!


 100メートルの直線を短く加速してスロットルを一気に閉じた。燃焼し切れなかった混合気が高温のエキゾーストパイプに流れ込んで酸素に触れ、着火する。


パッ!パッ!バンッ!


 鼓膜を叩く音、次の左カーブに「すぅー」と息を吸って肺を充分に膨らませたら、心身に余裕を持たせた。バイクは一度、タイヤを転がした時から様々な操作が必要とされる。スロットル、ブレーキ、クラッチ、シフトチェンジ………。自転車のようなハンドルに直接入力するような操作は、ほとんどしない。むしろバイクにとっては、腕による操作の介入は邪魔だ。体重や荷重移動が敏感なまでに影響し、同じ車種であっても体格や体重で乗り方が変わる。さらに、人によって骨格や四肢の長さが違うからライディングに『絶対に正しい形』は存在しない。真っ直ぐに走る時でも無意識に身体や頭を動かして、荷重を細かく変えバランスを取っているし、クネクネと曲がり、登り下りがある道となると運動量と操作量は何倍にもなる。操作は音楽を奏でるように、ダンスを踊るように、前に後ろに、右に左に、減速し、加速して、道の上でリズムを刻む、バイクに乗る事はオーケストラだ。


 風が、空気が、街の中にない新鮮なものに変わって、肺の中に入り、体の中が濾過され澄んでいく。道路に刻んでいく軌跡は、調子を外さぬよう気を付けて奏でていく。


「ダンスはいかが?」




 ────────喜んで。


午前九時〇九分。

 冷たい缶コーヒーを口にした。ほろ苦い香りが熱くなった舌の上をコロコロと転がる。バス停の横にあるこの自動販売機が、あの頃よく過ごしたカフェだった。甲高い音を立ててやってきた三台のバイクが、私のバイクに気がついたらしく手を振ってくれた。別に仲間だとか友達、知り合いってわけじゃない。バイク乗り特有の、一種の馴れ合い、か。三台のバイクは、これからどこまでツーリングに行くのだろうか?


「安全に」


 呟いて、手を振り返す。


「さて………」


 伸びをして、青く宇宙まで届きそうな空を突き抜けるように凝視した。


「まだ……、まだ遠いなあ」


 今日も暑くなるだろう、夕立もあるかもしれない。ゴミ箱に缶を捨て、ヘルメットを被り、深緑のタンクに手を置く。




 ねえ?


 ねえ、連れてってよ、




 きみのいる空に、近い、

 あの山の上まで。


 そして、物語は始まった。



おわり。

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