ヒヨドリ

増田朋美

ヒヨドリ

その日、杉ちゃんが製鉄所に行くと、製鉄所はなにか変わった雰囲気になっていた。杉ちゃんが、先でこんにちはあとでかい声で言っても何も反応はない。

「おーい、みんなどうしちゃったの?なにか困ったことでもあったのか。水穂さんでも倒れたか。」

と、杉ちゃんが勝手に四畳半に行って、ふすまを開けると、布団の上に座っていた水穂さんが、杉ちゃんと言って指を口に当てた。

「どうしたんだよ。なにか変わったことでもあったか。」

と、杉ちゃんがいうと、水穂さんは、

「静かに杉ちゃん。大事なお客さんが来ているから。ちょっと、黙ってて。」

と言った。

「お客さんってだれだ?どんなやつなんだ。一体どっから来たんだよ。」

と、杉ちゃんは口調を変えないでそういう事を言った。

「今、理事長さんが相手をしているんだけど、なんでも、東京で大企業をやっている森龍彦さんと言う人だそうだよ。」

水穂さんがそう言うと、

「その名前なら、僕も聞いたことが有る。確か、すごい有名な音楽家の一族だったような気がする。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。

「その有名人が、なんでここに来てるわけ?」

杉ちゃんがそういうと、水穂さんは、

「杉ちゃん、もっと声を小さく。聞こえたら、びっくりするだろう?」

と、急いで杉ちゃんを止めた。一方、応接室ではジョチさんが、森龍彦さんという男性の相手をしているのであった。

「つまり、兼子さんを、ここで預かってほしいと言うわけですね。結論を先に言ってしまえば。」

と、ジョチさんは、龍彦さんに言った。

「それで、兼子さんは、息子さんを殺害した事は、認めているんですか?」

「いえ、それもわかりません。」

龍彦さんは、ジョチさんに言った。

「わからない?」

「ええ。弁護士の先生にもお願いしましたが、まるっきり話が通じないんです。だから、もうどうしようもなくなってしまって。なので、お宅で預かって貰えないかと。精神病院に入院させる事も考えましたが、事件を実際に起こした方をここで預かるわけには行かないと断られてしまいました。」

「はあ、そ、そうですか。言葉も何も通じない状態ということですか?すくなくとも、息子の喜一くんを、自らの手で殺めた事は、知っているはずですよね?」

と、ジョチさんが驚いてそう言うと、

「ええ、そうかも知れませんが、とにかく感覚がずれているというか、変な事ばっかり口にして。」

と、龍彦さんは言った。

「はあ、具体的に言うと、どういう事を口にするんですかね。」

「ええ。自分は、ただ、喜一が泣き止まなくてどうしようも無いので、それを止めただけだと言っています。喜一が、もう帰ってこないということは、絶対認めようとしないんです。」

「そうですか、、、。」

と、ジョチさんは、大きなため息を付いた。これまでにも重度の精神障害者を製鉄所で預かったことがあるが、実際に事件を起こしてしまった人を、こうして預かるのは前例がない。

「彼女、森兼子さんは今も拘置所に?」

「いえ、今は、自宅に居るんですが、多分、相手をしている家政婦も手を焼いているのではないかと思います。」

ジョチさんは少し考えて、

「わかりました。じゃあ、ここへ兼子さんを連れてきてください。彼女が僕達の事を認識してくれるようであれば、彼女を受け入れましょう。」

と、言った。

「ありがとうございます。どのくらいになるかわかりませんが、どうぞよろしくおねがいします。これで安心して、出張に行くことができます。」

そういう龍彦さんに、ジョチさんは、相当困っていたんだなということがわかった。確かに、精神がおかしくなった人間は、言葉以上に辛い思いをしていることが多いと思う。

「今すぐにでも兼子を連れてきますので、しばらくお待ち下さい。」

そういって、製鉄所をあとにしていく龍彦さんを、ジョチさんは、困った顔で見送った。ちょうどこの時、杉ちゃんと水穂さんが、心配そうな顔をして、応接室にやってきた。

「預かることにしたんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、どこかで彼女を受け入れないと、彼女は永遠に居場所をなくしますから、どこかで作ってやらないとだめでしょう。」

と、ジョチさんは答える。

「はあ。ちょっとまって、詳しく説明してくれ。事件を起こした女って、どういうやつなんだよ。」

と、杉ちゃんが聞くと、

「はい、名前は森兼子。35歳です。昨年、森龍彦と結婚して、玉の輿のような結婚だった事は、盛んに報道されていました。何よりも、ただの幼稚園の教諭が、あの有名な音楽家の森龍彦の妻になったわけですから。それで、今年の春に、息子の喜一くんが生まれたようですが、森兼子は泣き止まない喜一くんを、床に落として殺害したんですね。ところが、龍彦さんの話では、警察にも弁護士にも、話をしなかったそうです。発言しても、辻褄の合わない事を連発したりとか。いきなり怖がって叫びだすこともあったとか。そのあたりは、テレビのワイドショーでも盛んに報じられていましたが、杉ちゃんはご存知なかったんですか?」

と、ジョチさんが答えた。

「はああ、なるほど、いきなり怖がって叫ぶとは、覚醒剤とかそういうものをやってたのかな?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ。それもあったのではないかと警察が調べたそうですが、そのようなものは何もなかったと言うことです。」

とジョチさんは答えた。

「それでは、今まで精神科の先生に見せたりとか、そういう事もなかったんでしょうか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、それをしていたら、今回の事件は起きなかったと思います。きっと、日本人に多い傾向ですが、どうしても、精神がおかしくなってしまうと、自分たちで解決しなければと躍起になるんですが、同居している家族は、解決することはできません。むしろ、早いうちに専門家に引き渡して、なんとかしてもらうことが先決ではなかったかと。」

とジョチさんは答えた。

「いずれにしろ、明日、兼子さんが、こちらへ来ると思います。大変な事もあると思いますけど、杉ちゃんも水穂さんも、覚悟を決めてください。」

「わかりました。森龍彦さんとは、かなり昔ですが、お会いしたことがありました。彼は覚えていないかもしれないですけど、音楽家としてはかなり偉い地位に有る方ですが、こういう家庭的な事は難しいと思います。」

水穂さんが、すぐにそういった。杉ちゃんは、水穂さんは大丈夫かなという顔をしたが、ジョチさんも水穂さんも同意しているようであった。

その翌日。森龍彦さんが、森兼子さんを連れてきた。兼子さんは、音楽家の妻と思えないほど庶民的なジャージのズボンにTシャツという姿である。龍彦さんは、じゃあお願いしますと言って、そそくさと出ていった。まるで、やっと脅迫から解放された、と思っているのかもしれない。

「じゃあこちらにいらしてください。兼子さん。あなたは、森兼子さんですよね。僕達は、決して悪いようにはしませんよ。」

と、ジョチさんがまるで幽霊みたいに力なくぼんやりと立っている、兼子さんにそう言った。すると、どういう精神をしているのか不明だが、ジョチさんに静かについてきた。ジョチさんは、とりあえず、空き部屋であった、居室に兼子さんを案内した。

「ここでしばらく暮らしてください。とりあえず、ご主人が迎えに来るまで。」

と、彼女に部屋に入ってもらうように促した。

「あの、すみません。あの窓は、人が入ってこられる高さの窓でしょうか?」

と、兼子さんがいきなりいうので、ジョチさんはすぐに、

「はい、一階にありますので、人が外から入ることは不可能ではありません。ですが、どうしてそういう事を言うんです?」

と彼女に聞いた。

「ということは、やっぱり、あの人達も襲ってくると言うことですね。」

と、兼子さんはいう。

「あの人達?」

とジョチさんが聞くと、

「ええ。あの人達です。時々、私のところにやってきて、私に、お前なんかいらないんだとか、そういう事を言うんです。」

と、彼女は答える。

「はあ。それは、だれでしょうか。あなたにつきまとって来る人物でもいるんですか?」

ジョチさんはもう一回聞いた。

「はい。私の事を、追いかけてきて、いつも私に付きまとって、お前なんかいらないとか、そういう事をいうんです。それで私、毎日毎日同じことをいわれるんです。」

「つまり、あなたは、幻覚の症状があるということですね。他人に見えていないものが見えてしまうんですから。あなたは、もしかしたら、覚醒剤とか、コカインのようなものを使用していましたか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「違います!そういうことじゃありません!だって私は実際に見えるんです!私には、そういう人が実際に居るんです!だから、この部屋だって、その人達が追いかけて来るかもしれないじゃないですか!それを止めなきゃいけないのに、どうしたらいいんですか!」

と、彼女は金切り声でそういうのだった。その声は中庭にいた杉ちゃんたちにも聞こえるので、かなりの声だったのだろう。

「そうではなくて、耳が遠いわけでも無いんですから、ちゃんとこたえを出してもらえませんかね。」

ジョチさんがそう言うと、水穂さんがその場にやってきた。ジョチさんは、水穂さんまだ寝ていたほうが、といったが水穂さんはそれを受け入れなかった。

「そうなんですね。わかりました。僕達には見えないことがあなたには見えてしまうのですから、仕方ありません。それでは、部屋に雨戸がありますから、閉めましょう。そうすれば、あなたを追いかけてくる人たちは入ってくることはできませんから、安心してください。」

こんないい天気で真っ昼間なのに、雨戸を閉めるというのはおかしなことであるが、水穂さんは、居室に入って、窓の雨戸を閉め、部屋の電気をつけた。電気代ももったいないと思われるが、そうしなければだめなことは、ジョチさんにもわかった。

「さあ、閉めましたからどうぞ。」

と水穂さんは、彼女を部屋に招き入れた。

「ありがとうございます。」

兼子さんは崩れるように居室の床の上に座った。

「もし、からだが大変なのなら、横になりましょうか?」

水穂さんにいわれて、兼子さんはハイと言った。布団を敷くのはジョチさんがした。水穂さんには布団を運ぶことはできなかったからだ。兼子さんは、布団の上に座った。まだ少し怖がっているような様子だった。

「大丈夫です。雨戸閉めてありますから、変な人達は入ってきませんよ。安心して休んでくださいませ。」

「一体だれがあなたのことを、だめな人間だとそそのかすのですか?」

水穂さんがそう言うと、ジョチさんはそう聞いてみた。

「僕達は悪いようにはしませんから、ちょっと話してみてくれませんか?」

「でも、私がこの事を話したら、主人は私を病院につれていくって言って、何も聞いてくれませんでした。そういう事は医療従事者じゃないとだめだからって。私、医療従事者なんて信用しません。だって、喜一が泣き止まないでも、教えてくれなかった。」

ジョチさんがそうきくと、兼子さんはそう答えるのだった。確かに、精神障害者の話は聞かないほうがいいといわれることが有るが、当事者にしては重大な問題で、だれにも信じてもらえないということになるのである。すると、水穂さんが兼子さんの前に座った。

「お話してもらえないでしょうか。兼子さんが悩んでいること。」

それを見て、やっと兼子さんは、話をしようという気になってくれたらしい。小さく頷いて、兼子さんは話しだした。

「女の人と男の人が、窓の外にいて、私の事はいらないとか、喜一くんのことは家政婦さんに任せればいいとか言うんです。」

「はあ、なるほどね。」

とジョチさんは言った。

「つまりあなたは、もう一回言いますが、幻覚に悩まされているんですね。でも、それは、ありふれた病気なので、何も偏見は持たなくて大丈夫ですよ。それは、ちゃんと医者に見せて、治療を受ければ、その男女に会う可能性は少なくてすみます。」

「そんな事ありません!私は確かに見たんです。私のことをいらないと言っている男の人と、女の人に。」

彼女がそう言うと、

「わかりました。それは雨戸を閉めれば、覗かれることはありません。これからは、雨戸を閉めて見てください。そのときに、男女が窓の外であなたを見ているのか、確認してみましょう。多分、雨戸を閉めてしまえば、他人の家を覗くことは物理的にできなくなりますから、それは心配ありません。」

と、水穂さんが兼子さんに言った。

「そうなんですか?」

と兼子さんはそう言うと、

「ええ、そうなんです。雨戸と言うのはそういうものです。」

水穂さんは表面上はにこやかに笑っているが、実際にはひどく疲れているような表情でそういうのであった。

「そうやって、対策を取れるんですね。私、なんで気が付かなかったんだろう。そんなことで、撃退できるのだったら、もっと早く気がつけばよかった。」

「いえ、兼子さん。自分をせめる必要はありません。だってあなたはそれしか思いつかなかったのですから。それは、素直に認めてあげましょう。そうでないとあなたは永遠に苦しむことになるんです。それを解放させてあげるのも、あなたにしかできないことでもあります。」

兼子さんがそう言うと、水穂さんはそういう事を言った。それと同時に杉ちゃんがやってきて、

「水穂さん、あんまり人のことばっかりかまって居ると、お前さんがつかれちまうよ。早く戻ってきてくれ。」

と、心配そうに言った。

「いえ、大丈夫です。それよリ、襲ってくる男女を撃退することはできるんですから、それを覚えておいてください。」

水穂さんはそう言って、二度三度咳き込んでしまった。ジョチさんが、水穂さん、もう行きましょうという。すると、兼子さんが、

「あなたも、恵まれていなかったんですね。」

と、小さい声で言った。

「はあ、それはどういうことだ?なんで水穂さんが、不運なやつだって、お前さんはわかるんだよ。」

と杉ちゃんがいうと、

「だって、私は、寂しかったんです。確かに、あの家ではみんな優しくしてくれました。でも、みんな仲は良かったんですけど、私は、一人ぼっちでした。せめて私がやれることがあればよかったんですけど、家のことは家政婦さんがやって、私は早く子供を作ることばかり急かされて。」

と、兼子さんは言った。

「寂しかったんですか?」

とジョチさんが聞くと、兼子さんははいと小さな声で頷いた。

「そんならなにか習い事するとか、そういう事やって、逃げればよかったじゃないか。それかどっかのサークルに加盟させてもらうとか。楽器を習ってアマチュアのオーケストラに入れてもらうとか、やり方は色々有るぜ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「杉ちゃん、そんな事言ってはだめですよ、兼子さんは、逃げる場所がきっとなかったんだと思うから。きっと、ヒヨドリみたいに、鳴くことだけを強いられたんでしょう。」

と、ジョチさんが急いで訂正した。

「でもさ、そういう寂しいということは、自分で隠しちゃ行けないと思うんだがな。それは、ちゃんとこうだっていうべきだったんじゃないの?だって、事実はそのためにあるんじゃないのかな。もし、兼子さんが寂しいということを感じたなら、それを、ちゃんと口に出して言って、じゃあ、どうするかを考えるべきだぜ。」

「でも、できないことだってありますよ。人間、完全無欠というわけではありません。ときにはどうしようもない事実に、動けなくなることだってあります。誰かにてを引いてもらわなければ動けないことだって有るんじゃないかと思うんです。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんがすぐに反論した。でも、もう疲れてしまっているのか、また咳き込んでしまった。

「水穂さんはすぐに休んでください。そうしなければあなたも共倒れになる可能性があります。そして、兼子さん、あなたは、長年、あの家で暮らしてきたことで、精神状態がおかしな方へ向かってしまっている。それは、治療を受けることが必要なんです。医者に見てもらいましょう。」

ジョチさんは、兼子さんにいったが、兼子さんは、まだ信じられない感じの顔をしていた。

「そうでしょうか。医者なんて、大したこと無いというか、肝心なところを見てくれないで、見かけばかり気にしていると思うんですが?」

「いや、大丈夫だ。世の中にはちゃんと、患者を見てくれる医者もいる。それは商売のためじゃなくて、ちゃんと、患者さんを治そうとしてくれる医者もいるよ。僕達は、そういう医者を知っているんだ。だから、一緒に治療を受けてくれないかな?」

兼子さんが疑い深い目でそう言ったが、杉ちゃんはすぐにそれを否定した。でも杉ちゃんの言い方は乱暴なので、ちょっと怖い印象を与えてしまわないか、心配だった。できれば、自分の罪というか、しでかしてしまった事も話してもらいたかったが、それを言うのはまだ早すぎたようだ。もしかしたら、兼子さんは幻覚の症状があって、それに命令されて、この犯罪を犯したのかもしれないし。それでもしたことはしたことだから、ちゃんと向き合ってもらわなければ行けないのだけれど。

「大丈夫だよ。何も怖いことはない。ちゃんとお前さんの事を見てくれる、医者も居るよ。」

「兼子さん、一度だけでいいですから、僕達の事を信じてもらえないでしょうか。僕達は、ただ兼子さんが、ひどく苦しんでいるのを知っているだけで、それ以外のものではありません。ただ、それだけなんです。」

水穂さんが弱々しくそういう事を言った。ジョチさんは、杉ちゃんに、水穂さんを部屋へ戻すようにといった。もう、水穂さんの口元に赤い液体が漏れていた。兼子さんは、それを眺めて、

「大丈夫ですか、、、?」

と、思わず言った。

「ああ良かった。お前さんも人間らしいところがあったようだな。」

と、杉ちゃんは兼子さんを見てはあとため息を付いた。

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ヒヨドリ 増田朋美 @masubuchi4996

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