汚い話②

 それから一か月後。


「グォオオオオッ」


 個室に響く唸り声と、


「おいおい、おまえさん。またかよォ……」


 やや呆れた男の声。


 あの日、極限の痛みが見せた幻覚またはトイレの妖精と結論付けた謎の存在は今、山田家のトイレで再び私の戦いを見守ってくれている。


 なお今回で五回目となるが、自宅のトイレに現れるのは今日が初めてである。


「……う、う、う」


 それにしても、今日が祝日で良かった。

 暖房の効いた清潔な個室と、温かい便座――ピーチベースのフルーツの香り。

 会社のトイレよりも幾分心の安らぐ空間で苦しむことができる。

 まあ、地獄には変わりないのだが。


「で、出なァアい……ッ」


 前回よりも時間が掛かっている。


 なぜだ。

 あの寒い空間が良かったのか?

 それとも緊張感が足りないのか?


「ああ、焦るな焦るな。ケツが死ぬ」


 トイレの妖精が私を宥める。


「うあああああ……なんでいつもこんな目にぃい」


 彼の体に真正面からしがみつきながら、私は泣き言をいう。

 がっしりとしたボディにざらりとした衣服をまとった彼は、よしよしと背中を叩いてくれる。


 なんたる安心感。なんたる包容力。


 もはや私が便座の上で下半身を露出した女であり、彼が見知らぬ男であるというイカれた状況はなんの問題にもならなかった。


「おまえさん、過敏性腸症候群か?」


「そうなのおお……そんなつもりないんだけど、緊張してるっぽくて」


「家でもか? 今日は休みなんだろ」


「明日、来客……外国のお客さん……」


「そういうのもダメなのか。客の前で腹痛起こしたら大変だなあ」


 トイレの妖精と話しているうちに、痛みが和らいでくる。


「ちょ……ッ、今なら行けるかもッ」


「よっしゃ。じゃあいつものアレで行くぞ。せーので行くぞ」


「うん……っ」


「せーのっ!!」


 私の代わりに彼が声を出してくれる。


 硬くざらざらした栓が顔を出し、それからほどなくして痛みの原因が便器に放出された。


 強い芳香剤でも誤魔化し切れない腐ったにおいが、トイレに充満する。


「じゃ、俺はこれで」


「あ、待って!」


 颯爽と立ち去ろうとする彼を、私は咄嗟に呼び止めた。


 いや、先に流せって話なんだけど。


 立ち止まる気配がする。


「なんだい」


「あなたって何者。どうして私を助けてくれるの?」


 私の問いに、


「俺か?」


 彼がニヤッと笑うのがわかった。


「俺は、トイレで頑張るおまえさんの味方さ!」


 気配が消え、トイレには悪臭と――一言では言い表せない、淡い感情が残った。


<③に続く>

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