第12話 対話に似た何か

「なあ、聞きたいことがあるんだけど……」

 夕食が終わると橋本は自分から両親にそう切り出した。この三日間でそういったことは無かったので、両親は少し驚いた様子だった。橋本は子供として育ててくれた両親へのせめてもの感謝として誠実に話そうと考えていた。

 両親と……もしかしたら今後誰とも本気で話すことはないのかもしれないと思っていたが、その気持ちも今は違っていた。


「俺、今年で30歳じゃん」

「…………そうだな」

 橋本の続く言葉を待ったのか、少し間をもって父親が慎重に答える。母親は黙って頷きもせずこちらの顔色を窺っている。

「今更だけど……『組織』の2世として育てられたことに今も苦しんでいる」

「え、だって和郎が辞めたのってもう高校生の時じゃない?」

 母親が何気なく笑いながら返す。

「高2だから13、4年前か……。そこからお前は自分の力で大学に行き、就職もした。立派に自分の人生を歩んでいるんじゃないのか?」

「それがこの有様だよ」

 父親の宥めるような物言いに腹が立ち、橋本は聞こえるか聞こえないかの声で吐き捨てた。何だかんだで今では自分の力でそれなりに幸せに生きている……なんて死んでも思われたくなかった。

「『三つ子の魂百までも』とか『鉄は熱いうちに打て』みたいな言葉、聖書にもあっただろ?生後の最初の十年と、大人になってからの十年とが同じ価値だとは思ってないよな?」

 橋本は言葉を続けた。両親もそれを聞きたがっているように思えたからだ。

「俺はずっと自分の人生が自分のものには思えなかった。子供の頃から親の顔色を窺って行動することしかなかった。そこを間違えるとすぐにムチが飛んできたからな」

「いや、あの時は組織の方針がそれを推奨していたのよ。子供を矯正するにはそうするべきだって……。とにかく私たちはあなたの為を思って……」

 母親が若干ヒステリックな声で反論したが、それを聞いても橋本の頭は冷静だった。

「良いんだ。別にそれを今さら体罰だったと非難したい訳じゃない。でも…そんな状況で育った子供が普通の感覚を持てると思うか?自分の中にある欲望……どれがまともなものなのか判断出来やしなかった。……だけど大人の中に混じって育ったから中途半端に世の中が見えて、同世代の子供達と同じ価値観にもなれなかった。馬鹿馬鹿しいと分かってもそこに混じっておくことが必要だった、って分かったのは30歳手前になったこの数年だ」


 沈黙が訪れる。橋本は伝えるべきことは伝えたので二人の顔を見た。母親は今にも泣き出さんばかりにハラハラした顔をしており、父親は目を閉じ上を向き考えを巡らせているようだ。もうすぐ60才近い二人にこんな負担を掛けていることに少し心が痛んだ。

「……じゃあ今、父さんたちに出来ることは何だろう?和郎が幸せになって欲しいと願っているのは子供の時と何ら変わってはいない。それは本当に信じて欲しい」

 何度も聞き飽きた後半部分の台詞は無視して考える。今の両親にして欲しいことなどあるのだろうか?自分から切り出した話ではあったが着地点については一切考えていなかった。

「……別に今さらどうしようもないことは分かってるよ。責任なんて結局は親だって取りようがないことも分かってる。……そうだな、強いて言えば『組織の教えに基づいて育ててきたことは間違いだった』ってはっきり認めてくれれば……そうすればこの30年間を清算して次に進めるような気はするんだ……」

 橋本が咄嗟に絞り出した答えは本音以外の何物でもなかった。

「そんなことに何の意味があるんだ?」と思われても仕方ないことを言っているかもしれない。だけど、それでも橋本は本気で言っていた。

「和郎、それは出来ない。父さんと母さんは正しいことをしたと思っている。それなのに『間違っていた』なんて言ってしまったらそれは嘘だ。神は嘘を忌み嫌われる。……本当は組織から離れている和郎を認めることすら辛いんだ。もうすぐハルマゲドンが来てこの世は滅びるんだぞ……」

 父親の振り絞るような声に連られて母親も涙ぐんでいる。……橋本は一気に興冷めした。

「なあ、組織の教えって未だに本気で信じているのか?……ただただ組織の中の人々との馴れ合いが居心地良い、他に居場所なんか無いから続けているだけなんじゃないのか?」

「そんなことは断じてない。父さんと母さんは本気で神の教えを信じているし、そしてこの教えは真実だ」

 父親が目を見てゆっくりとそう告げた。だが橋本には父親の言うことが本気かどうか判断出来なかった。本心なんてのは本人でも良く分からないものだ。

「……なあ、じゃあ質問を変えるわ。子供を自由にさせないんだったら、何で子供を作ったんだ?」

 本当に辛かった思春期、橋本が何度も考えたことだった。

『まだ精子だった頃の俺は生まれてきたいと願ったのだろうか?ほぼ苦しみしかないこの世界に……。俺を苦しめているのは何だ?……そうか神だ。じゃあ神が全ての苦しみの原因じゃないか?……生まれてこなければ良かったってことは……じゃあ死ぬか?いや死ぬのは怖い。死という概念を知ってしまっている以上死ぬのはたまらなく怖い。死ぬのと生まれてこないことは全然違う。生まれてこなければ苦しみはなかった』

 そんなことばかりを考えていた。そんな気持ちは組織から離れる時も両親に伝えたことはなかった。

 「……だって…あなたが生まれた時わたしたちは幸せだったわ!あなたが生まれた時以上に幸せだった時はないわ。……あなたが初めて立った時、声を出した時、初めてパパ、ママって呼んでくれた時…そのどれもが幸せだったわ。……だからあなたにも幸せになって欲しかった!」

 母親は必要以上に大きな涙を流していた。

「それと宗教をやらせることがどう繋がるんだよ?」

「……私たちも元々は神の教えを知らない人間だった。だから世の中の汚さ・冷たさは幾らでも知っているわ。……でも幸運にも神の教えとその組織の素晴らしさを知った、自分の子供にはなるべく汚い世界をしることなく幸せになって欲しい、そう願うのは親として当然のことよ」

 感情的になった母親がそれでも誇らしげな表情をしていたので、橋本も舌鋒を緩めることは出来なかった。

「いや、単に子育ての方針を考えるのが面倒だったんだろ?自分達で毎回基準を定め判断してゆくよりも、組織の教えに照らして判断する方が楽だっただけだろ?……接してみた組織の子供たちが行儀良くお利口に見えたから『自分の子供もこんな風に育てば良いわ』って思っただけだろ。子供自身の気持ちなんかどうでも良くて、子供を使って見栄を張りたかっただけだろ?」

 橋本が最後にフンっと鼻を鳴らすと、母親は泣き出した。

「和郎!何てひどいことを言うんだ!母さんに謝れ!」


 橋本は父親の怒鳴り声を聞いて、こうも面倒臭いことになるか、と少し後悔した。 

 なぜ両親に対して現在の気持ちをなるべく正確に伝えるべく努力する、などという馬鹿なことをしたのだろうか?ちゃんと話せば分かってくれるとでも思ったのだろうか?十年以上離れて暮らしているとそうした幻想を抱いてしまうものなのかもしれない。家族だから理解される・理解できるなんてことは決して無いし、近過ぎるがゆえに見えないものもあるしフラットに話せないものだ。

 でも心晴れやかな部分もあった。一応子供として言うべきことは全て言った気がする。これから本当に自分の人生を自分のものにするためにどうするかは、ゆっくり探していけば良い。結局は俺が少しでも幸せになること……不幸だと思うことを少しでも減らすこと、楽しいとか気持ちいいと思うことを少しでも増やしてゆくことが親孝行なんだと思う。

 だから家族とは離れよう。そう橋本は誓った。



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