第9話 丸田京子

 帰宅すると両親ともまだ起きていた。

「遅かったわね、もう帰ってこないかと思ったわよ」

 母親が心底心配した顔で声を掛けてきたが、酔っていたせいか橋本はそれほど不快に感じなかった。

「ショッピングモールに行ったら高瀬君と会ってそのまま飲んでた」

「おう、弘毅君もこっち帰ってきてるのか!元気だったか?」

 父親が久しぶりに高瀬の名前を聞いて嬉しそうな声をあげた。

「うん、元気そうだったよ」

 その後も両親から色々としつこく高瀬のことを聞かれたが、面倒だったし高瀬本人にも悪いだろうと思い、必要以上の情報は伝えなかった。親同士は『組織』で毎日のように顔を合わせているのだから、どうしても必要なら情報は回るだろう。

 ようやく両親からの攻勢が収まったところで高瀬の方から唯一訊きたかったことを尋ねた。

「そういえば丸田さんって……」

「あら、聞いた?そうなのよ!京子ちゃん婚約したのよ!名古屋の会衆の兄弟でね、一度こちらの会衆にも来られたんだけどそれは素敵な方だったわよ!」

 まだ橋本が尋ね切る前に母親がベラベラと話し出した。『会衆』というのは地域で区切られた組織の集まりの単位のことであり、一つの会衆に大体100人前後が在籍している。変化の乏しい組織の中で一人の女性が婚約したという幸せなニュースを話したくて仕方なかったのだろう。母親の口ぶりからはそれが伝わってきた。

「何だ?京子ちゃんのことが気になるのか?」

 なおも続けようとする母親を遮って、父親が訊いてきた。

「いや、弘毅君がそういう話をしてきたから、ちょっと訊いてみただけだよ」

 橋本はぶっきらぼうに答えたが、何を勘違いしたのか父親はニヤニヤしている。「明日集会に来れば会えるんだけどなぁ」

 言い出したことのあまりの下らなさに黙殺した。あの空間に戻るなど想像しただけで反吐が出る。



 その翌日12月29日、橋本が11時頃起きると両親とも居なかった。昨日集会だと言っていたからそうなのだろう。台所に行くと律儀にも朝飯が用意してあったので食べた。特に何てことないメニューだったけれど懐かしい味で落ち着いた。

(……さて、どうするかな?)

 もちろんすぐ東京の自分の部屋に戻ろうかとも思ったが、戻っても特にやることを思い付かなかったし、一晩寝ると長年暮らした実家の部屋に落ち着きも感じ始めていた。それに貧乏人にとってタダで飯が食えるというのは本当に有り難い。

(……まあ今日はこっちで過ごすか)

 何の予定も無く共に過ごす相手も居なかったが、流石にこのまま部屋でダラダラ過ごす気にはならなかった。

 着替えて家を出ると名古屋市街に向かった。バス・電車を乗り継ぎ一時間弱で名古屋の繁華街に着くと、特に当てもなく一人ぶらぶらと歩き出す。

(いや、名古屋も大都会だな!)

 東京が日本で一番の都市であるのは間違いないが、東京は新宿・渋谷・池袋……と街が散らばっている。名古屋駅周辺の発展ぶりと人の多さは東京のどの街と比べても遜色ないように思えた。いや自動車の多さに関しては東京をも上回っているのではないか?とすら感じた。

 そう言えば街を歩く人間の顔も東京の人間のそれとは少し違っているように思える。今まで意識したことなど無かったが、名古屋の人々の言葉も耳に付いた。街を歩く人々は若者が多く、生粋の名古屋弁を耳にすることは流石に無かったがそれでも気になった。名古屋の言葉は結構キツい物言いに聞こえることが多い。多分子供の頃はそれが方言だと思いもしなかった、東京という外部を経験しなければ見えてこない一面なのだろう。

 橋本はどこかの店や施設に入るでもなくひたすらに名古屋の街を歩いた。流石に三時間も歩くと疲れてきたので休憩がてらラーメン屋でラーメンを食べ、実家に戻ることにした。何となく名古屋の街はもうマスターしたような気持ちだった。


 名古屋から実家に戻る電車内で橋本に一通のメールが届いた。メールが届くことなど滅多にないので即座に開くと件名に「丸田京子です」と書かれていた。橋本は一旦読むのを躊躇したが結局読み出した。

「こんにちは、久しぶりです。元気ですか?東京での暮らしはどうですか?ご両親からこっちに帰って来ていることを聞きました。和郎君が久しぶりに帰って来てお二人ともとても嬉しそうでしたよ。体に気を付けて頑張って下さい」

 橋本は驚き、何と返すべきかずっと考えているうちに帰宅してしまった。そもそも何故自分のもとに京子からメールが届いたのか疑問だったが、恐らく母親がはしゃいで彼女に昨日のことと共に自分のメールアドレス伝えたのだろう。まったく余計なことをしやがる。

 結局さんざん迷って送った返信は

「元気です。結婚おめでとう」

 という一行だけだった。欺瞞に満ちた宗教組織の人間と結婚するというのが正しい行動とは自分には思えないが、それでも幸せになって欲しいという気持ちに嘘はなかった。

 だがすぐにまた京子からの返信が届いた。1時間返信に悩んだ橋本に対し、2分で彼女はメールを送ってきたのだった。

「わあ、返信ありがとう。そうなんです、今度結婚することになりました。きっかけは…………」

 最初のどちらかと言うと事務的なメールとは一変し、感情の乗っかったメールだった。結婚を目前に彼女も浮かれているのだろうか?同じ組織の人間でも自分の両親とは違い、普通の女子みたいな気がした。

 その後しばらくメールのやりとりが続いた。京子がいつまでも細かいことを尋ねてくる為に仕方なく続けている、と橋本は思っていたが本当は自身も楽しんでいたのだろう。何度もやりとりを繰り返す内に現在の彼女の顔を見て声を聞きたくなってきたし、彼女も自分に会いたがっているんじゃないか?という気になり、気付いたら「良かったら会わない?」とメールを送っていた。

 送った瞬間に「しまった」と橋本は思った。結婚直前の幼馴染み(と言って差し支えなかろう)と会う、しかも彼女は厳格に宗教を実践している人間なのだ。当然断ってくるだろう。でも、それならそれで東京に戻るきっかけになりそうな気もした。 

 だが予想に反して京子からの返信は

「明日の午後なら大丈夫だよ」

 というものだった。(……おいおい大丈夫かよ、新妻さんよ。もうちょい『蛇のように用心深く』あるべきなんじゃないのか?)

 橋本の鼓動は急に速くなりだした。



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