第4話 対面
「……和郎?」
団地特有のよく響く金属製の扉がガチャリと開き、母親と十年振りの対面を果たした。
「おう、ただいま」
最初の一声が割りとフラットな音色で出せたことに橋本は安心した。あくまで自分は興味本位から両親の様子を確認し、明日以降の宿を無料で得るためにこの家を利用するだけであって、必要以上に感情的にぶつかることはお互いにとって必要でないし、得策ではことだからだ。
「ただいま……ってあなた!……今まで全然連絡も返さないで。でも元気そうで良かったわ……」
だが橋本の意志は伝わらなかったのか、母親は今にも泣き出しそうな声で橋本の顔を見つめた。……いや、母親は母親なりに感情を必死で抑えているのだろう。
「ほら、何ボーッとしてるのよ。早く上がりなさいよ!」
ムリヤリに微笑んだ笑顔を母親が見せてきた時、橋本は帰って来るべきではなかったと心底思った。
「すぐお茶入れるから。……そうだ、お父さんにも連絡しなくちゃ!」
玄関を上がるとすぐに懐かしい記憶が蘇ってきた。この家特有の匂い、産まれた時からあった家具……そんなものを一つ一つ感じる度に多数の記憶がフラッシュバックしてきた。産まれてから二十年近くをこの部屋で過ごしてきたのだ。それも当然だろう。
「どう?ちゃんと食べてる?」
お茶を淹れ一息吐くと母親がそう言ってきた。尋ねたいことは沢山あるだろうに、そんな回りくどい言い方をするのがこの人らしいと思うし、それだけ今は心理的な距離が開いていることの表れなのだろう。
「まあなんとか」
こういう時になんと答えるのが正解なのだろうか?ここ最近の一週間の食事を答えるべきなのだろうか?もちろん牛丼とスーパーの値引き弁当しか食っていないが。
しばらく母親からの不自然なほど当たり障りのない質問は続き、橋本は聞かれたことにだけ答えた。
(……にしても老けたな。)
最初声を聞いた時にはほとんど十年前と変わらないように思えたが、こうして対面してみると肌の劣化は明らかだし、体も少し痩せたように見える。何より表情に明らかに弱さが見える。
やがて一時間ほど経ち父親が帰ってきて、やや早い夕食の食卓を三人で囲んだ。
母親同様、老けたという印象が強い。腹は出て頭髪はだいぶ薄くなっているし、背中も少し小さくなったような気がする。昔は厳しくしかめっ面の印象が強かったが、今は鷹揚な笑顔をこちらに向けている。
十年前家族三人で暮らしている時の両親が今のような両親だったら、家を出て行くことに強く執着はしなかっただろう。
二人の老け込み具合は単に加齢によるものというよりは心労から来るものも大きいのだろう。つまり自分が原因なのだと思い、橋本は少し胸が痛んだ。だがそれはあくまで少しだ。
やがて少し話が弾んだ頃を見計らって、母親が一冊の小冊子を取り出してきた。「あなた『目覚めよ!』を読むのも久しぶりでしょ?協会の意向もだいぶ変わって、とても読みやすくなったから一度読んでちょうだい。」
「そうなんだ、和郎。今月の号では、聖書の教えが正しかったことが科学的にも証明されてきているという記事なんだけど……」
(……ついに来たな!クソが!)
そう、全ての原因は両親のやっている宗教なのだった。これに橋本は産まれた時からどっぷりと浸けられていた。
十年経ち、両親の熱が少しは冷めているのではないか……という希望的観測を抱いていたのだが、それは甘い見通しという他なかったようだ。
恐らくは我が息子がこのタイミングで実家に帰って来たことすら「神の導き」と思っているのだろう。
「うるせえな、いい加減にしろ!」と怒鳴り付けてしまいたいのはやまやまだったが、両親にそんな態度を取るタイミングを既に橋本は逸していた。
両親が善意ゆえに熱心に勧誘してくるのは橋本にも伝わる。哀れな一人息子を間もなく来るハルマゲドンから救うにはこの道しかない!と本気で思っているのがその表情・口調から伝わる。
だからこそとんでもなく厄介なのだ。暴力だとかもっと分かりやすい虐待をするような親だったらどれだけマシだっただろう、と橋本は何度も思った。
そうであればこうして二度と相見えることはなかったし、連絡をとることも一切なかっただろう。どんな親でも自分にとっては唯一の親だ。時間を経てなんとか関係を修復したい……という願いが自分の中にあったことを橋本はこの時初めて認めた。そしてそれが自分の甘さによるもので、抱くべき願いではなかったことも同時に知った。結局のところ人は変わらないのだ。
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