鮒鮨の腹の内

 おうみノみかどはそのそくだいねんなつがついつに、いちねんぶりとなるくすりがりを、こんやましろノくにやましなもよおした。やましなというのは、おおからはすぐ西にしの、おうさかノやまはさむとはいえ、ごくちかいきで、このなかすえはらというところに、かまたりいえっている。

 したがってこのぎょうは、やまとノくにぞくたちにたいしては、かまたりへのいっそうはんかんうのにじゅうぶんであり、ならばおおみやさだめたことも、かまたりひいするためであったといううたがいをつのらせもする。それでもなおおみむらじどもは、そうしたまんおくびにもさず、こっあんたいたたえてみせ、そのなかにはおおしまノくわわっている。

 みかどは、このくすりがりのためにあつまったひとびとようて、おうたいせいおもったとおりにうごいているとしんじた。ことにおおしがこのはんとしほどのあいだぜんのようにかまたりはくがんせず、いまれいもっせっしていることにあんした。おとうとかまたりしんようしてくれるなら、おおともこうたいめいすることにもはんたいはすまい。もしぶんはやくにぬようなことがあっても、あとしんぱいいわけだ。

 かまたりも、おおしまノたいに、あのときとっにしたたいおうが、ずばりたったのだとおもった。いままではなんゆうく、このかまたりこうぐうされることに、しっしていたにすぎないのだ。それがけんきょしゃざいをする姿すがたて、のうしんであるとなおしたのにちがいない。これでもしぶんみかどよりながきするようなことになっても、あとのことはあんしんというわけだ。

 おおしは、さくねんはまノうてなでのいっけんらいかまたりたいしてしんちょうになっている。ああもへいしんていとうしてなんけるとは、かんじゃにしてもなかなかのものではないか。もしあれをとうとすれば、こちらにもそれなりのかくろう。

 そのいっぽうで、かいがいからのじょうほうにも、いままでじょうみみませている。百済くだら高麗こまとうによってほろぼされ、これまでのきんちょうくなったとはいえ、そののこともだんゆるされない。新羅しらきではとうたいするこうけんひょうされず、かえってさくせんにわずかにおくれたことなどで、つみわれることにまんがある。とうにはしらきノくにをもしゅうぐんせいによるちょくせつとうもうとするうごきもあり、しらきノこにきしせんって百済くだら高麗こまうばおうとしているらしい。

かまたりのぞかねばならじ)

 とおおしけつしている。うみえてんでないとはかぎらないのだ。まんいちのことがあるときくにれているようではたいしょができない。こくろんとういつするには、かまたりひとすのがもっとはやいであろう。もしそのことであにがこのおとうとそこなおうとするなら、おとうととしてあにそむこころいとはいえ、それはそれでかんがえもある。

 かまたりを、のぞかねばならない。だがそれはまだいまではない。


 なつぎ、あきになると、かまたりすえはらいえに、かみなりちることがあって、おくいちそこなった。それはいまふうとなったかまたりには、さしてにすることでもなく、しゅうをするついでに、こんどうそうしょくくわえたほどであった。

 このかざけのしなは、いまこのやましなてようとしているてら使つかうための、せいひんでもあった。このてらはいずれみかどほうぎょしたあとで、そのだいとむらうためのけいかくなのである。

 みかどはあのがついつくすりがりで、かまたりいて、りょうつくるようにみことのりした。ていおうあらかじおのれがためにいとなはか寿じゅりょうといい、もそのれいりょくくにおよぶことをたしかにし、いまけんたかめるものであって、むかしかられいのあることなのである。

 しかししちはちじゅうねんむかしなら、きょだいふんきずいたものであったが、そんなものはあまりにもおおつくられたために、いまではちんになりきってしまった。こんけいかくでは、むしろりょうぞくするてらほうじゅうようで、いたずらにおおきさをほこるのではなく、そのしつちかられるつもりにしてある。あのふるくさだいから、おうたいせいがいかにすすんだかを、ひとびとしめすものでもあるのだ。

「かほどによろこぶべきこともにあるまじ」

 とかまたりひとごとにもいくたびくちにする。このかまたりもいずれすえはらねむるであろうが、そのとなりにはみかどぎょくたいよこたえるのだ。してのちにもふたかんけいわらないのだ。ぶんしょうされるのだから、ましてきているあいだしんぱいすこしもいのである。

 かまたりは、このやましなでらせっけいひゃくぶんいちほどにちぢめたひながたつくるよう、しょくにんけ、がりをあいだに、

とおちノみこともちおおつノみやこよりくだまいる」

 としょうする、ふうさいがらないいやしそうなかおをしたおとこほうもんけた。そのおとこは、

かきノもとノひとまおす」

 とのった。ひとといえば、このごろほうぼうひとびとうたうためてあつめている、すこぶるへんなやつだといううわさいている。それはともかく、ひときぬつつんだちいさいはこうやうやしくささげ、とおちノおぼしにてなかとみノうちツおみたまわるものなり、とった。いちおう皇女みこ使つかいであるので、かまたりひとかみしょうれねばならなかったが、ひといそぐのでとってすぐにかえった。

 かまたりつつみをいてみると、なかめでつけもののようなにおいがし、けるとそれはふなずしであった。

 ふなずしは、おうであることをかまたりいている。これにははるれるちのふな使つかうことがおおく、まずしおけにしてげつほどのちしおってし、つぎにはめしけにして、しばらくはっこうさせ、よくねんはるいわいなどにきょうする。ときのかかるめいぶつである。

 はこには便びんせんえてあり、はしりのものがはいったのでけてらせる、まれものなり、とのむねいてある。

よろこばしきこともかさなるものなるかも」

 とかまたりはなおくする。おうぞくからものたまわあいりょうおおければまたひとびとあたえて、それによっておうしつけんせんせよということなのだ。それがいまこのふなずしはわずかいちぎない。すくないのはとくにこのかまたりにのみこうしめされたということにちがいない。あるいはおおしまノ皇女みことおして、このかまたりいちねんしのびのつもりでおくってきたのかもしれない。

 おなに、やましなでらひながたとどけられた。かまたりはこれをすっかりくらくなってから、ともらしてたかった。そのほうあかるいひるるより、じっさいらくせいしたふうけいを、ありありとそうぞうできるようながする。

 いつものようにゆうませて、ちてしまったあとで、かまたりしょさいちいさいやましなでらえて、さけふなずしっててと、ひとはしためめいじた。婢は、

「このごろおさけること、いたくはやくなりくるとゆ」

 とう。かまたりさけぎるというのだ。そんなはずはない、それほどんではいまい。おそらくやツこでもぬすんでいるのであろう、とかまたりおもう。

さけなどしむがごとおきなにはあらざるぞ」

 とっていてさけたせる。はしためは少しいやがおをしたようだが、ったとおりにさけふなずしいてがった。

 ふなずしはこつつんでいたきぬをふとってみると、たんざくはさまれていたことにいた。


あきかぜに やまぶきのの るなえに あまくもける かりにあえるかも


 そううたしるされている。かまたりうたがんなどふかかんがえもしない。ただぶんで、よいやみあかかぶやましなでらながめて、さけとともにふなずしくちふくむ。ふなずしはそのよるからすうじつすこしずつべてはこからにした。

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