花開く歌の春

 かまたりなかノおおえノこうていしょうするくらいくと、これをおうみノみかどばせた。

 おうみノみかどはかつてみずかほんうたがいをけてころさせたふるひとノおおむすめやまとひめノみここうごうとしたが、もとよりかざりとするためのけっこんで、ねやにもかよわず、ひととてしていない。

 ほかきさきは、んだちノいらつめと、そのいもうとめいノいらつめちちがノくらノやまだノいしかわのまろノおおおみたちばなノいらつめへノうちむすめひたちノいらつめがノあかえノおみむすめと、いずれもせいりゃくのためのこんいんである。そのあいだまれたは、おさなくしてんだたけるノみのぞいて、すべじょであった。

 みかどせいちょうしただんは、かわしまノみノみ、そしておおともノみさんにんあり、いずれもははおやうねであって、きさきとしてのせいしきあたえられていない。

 ――にはちちめぐみのみあればるべし。

 そうみかどおもっているらしくえ、それがひとびとにはなおみょううつっている。


きみつと れば 宿やどの すだれうごかし あきかぜ


 めいせいつというのはおかしなもので、もともとそのひとのものではないことが、そのひとのものであるようにかたられることがある。このうたはこのごろぬかたノきみさくとしてひとくちつたえられているものであるが、おおしまノはどうもそうらしくもないとおもった。それでももしこれがほんとうにあのひとくちうたわれたならば、それはかわいたおもをいきいきとうるおかんのようにかんじられる。

 ぬかたノきみにはもうじゅうねんちかくもまえに、そのねやいくたびおとずれて、とおちノというませたことがあった。ふたかんけいはそれきりで、おおしからはせいしききさきともせず、ぬかがそうもとめることもなく、とくのノささらノちかいてからは、なかとおくなっていた。

 ぬかうたさくしゃとしてげたのは、それからあとのことであった。むかしぞくなものであったうたというものを、ふうなものにげて、きゅうていきょうきょうするというながれのちゅうしんにそのひとはあった。

 ほうで、ここすうねん唐土もろこしりゅうかんというものをつくることが、きゅうていすいしょうされてもいた。それは百済くだらからぼうめいしてきたぞくたちのえいきょうであった。唐土もろこしではきょうようあるひとかならさくをするというほどで、くだらノくにではこうさいじょうひつようから、そのぞくたちはかんつくのうりょくけていた。こうした百済くだらじんするべしと、みかどぞくたちにもさくもとめている。


こうめいこうじつげつ ていとくさいてん さんさいへいたいしょう ばんこくひょうしん


 これはおおともノみみかどもとめにおうじていたというもので、おおしノみはこれをると、いかにもおそわったままにつくったらしいなまがたさがあるとおもった。このようにくにかんにはるべきものがまだすくない。みかどはもっとたくみなかんつくれよ、としょうれいするのである。

 こうしたふうちょうは、百済くだらぞくにはゆうで、がくもんせいせきによっててられたしんだいかんじんらにはまだくても、でんとうゆいしょによってきるぞくちょうろうなどには、はなはだめいわくなのである。

 みかどそくすると、このよろこびをあたえるといって、しばしばうたげひらくようになった。めいわくといえば、こんなことでおうくんだりまでかよわねばならないことも、やまとぞくたちにはめいわくなのであった。みかどからはおおつノみやこおもだったぞくのためのしききゅうされることになっているとはいえ、ぞくたちにしてみれば、せいかつばんがあるやまとノくにをそうそうはなれられず、またせんれい宿やどてるなどかんがえられもせぬことなのである。

 あるときにこうしたうたげせきで、みかどは、

はるやまよろずはなつやと、あきやまいろどりと、いずれがあわれなるかべてきそうべし」

 とみことのりし、かまたりがこれをれっせきしたひとびとつたえた。みかどたいとうぜんかんによるこたえにあることをひとびとかんじた。しかしそのでは、やはりとくすぐれたとおもわれるかんなかった。そこでぬかたノきみえてこうんだ。


ふゆこもり はるさりれば かざりし とりきぬ かざりし はなもさけれど やましげみ りてもらず くさふかみ りてもみず あきやまの ては 黄葉もみじをば りてぞしのぶ あおきをば きてぞなげく そこしうらめし あきやまれは


 こうしたうたやまとうたばれるようになった。

 おうみノみかどは、そのそくがんねんなつがついつかもくすりがりもよおすこととし、こうしんしょおうおみむらじどもにさんしゅうするようめいじた。

 くすりがりとは、このわる鹿しかわかづのるためのりである。鹿しかわかづのくすりたねとしては鹿ろくじょうばれてちんちょうされる。むろん鹿ろくじょうるためだけならかりうどにやらせればく、ちょうていそのものがるようなおおきいぎょうひらひつようい。そのもくてきせいてきとうそつたしかめることにある。

 ぜんに、くすりがりおこなうためのはんめられ、それをしめひょうしきてられて、もりというやくにんはいされ、たみどもをすのである。こうしてかこわれたいきは、

しめ

 とばれる。

 やまとノくにぞくたちにとっては、こんなことのためにされるのは、やはりめいわくなのである。こうしたくすりがりむかしからやまとですることとまっている。でんとうてきぎょうは、おなことおなときに、おなじようにかえしてこそ、せんよろこびをわし、そのれいりょくさいせいさせることともなるものを、おうのようながいこくでしてはをなさない。

 ぞくたちはこんなまんかくして、みかどたいしてはみをつくろい、

みかど恩沢おかげをばたまわりて、べてことく、たみどもにえのいろく、いえにはたくわえるものあり」

 とそのとくたたえる。そしておおしノみかっては、それがつくわらいであることがつたわるように、かすかにかおくずしてせる。めいぞくちょうろうほどこんなことがうまいものである。

 おおしはそんなこととはべつに、ぬかたノきみひさしぶりにかけたことに、られていた。あのひととおちノがどうしたものか、おおともノみおもいをけられ、ついにきさきとなったえんで、いまおおつノみやこしきって、ぎょくにもちかきうるる。それでみかどとのなかうわさするようなくちなかにはあった。

 おおしみずかうまって、鹿しかかりうどはげましにそうとしたときに、とおくにぬかたノきみある姿すがたけて、すこしくそでってみた。しかしあいはそのままってしまったので、こちらをていなかったものとおもった。ところあとやすんでいると、ひとぬかたノおおきみ使つかいだとい、いちまいたんざくした。そこには、


茜草あかねさす むらさきき しめき もりずや きみそでふる


 とみじかうたが、たしかにあのひとのものとえるで、したためられている。

 使つかいのおとこは、ふうさいがらないいやしそうなかおえたが、

かきノもとノひとまおす」

 とのったので、おおしにもははあとおもたることがあった。それはそれとして、じょせいたいして悪戯いたずらなことをいたいような、わかころのようなぶんいてこぬでもない。ものいかとうと、ひとはいつでもものるように、たけづつふですみれてあるいているという。おおしひとどうりて、たんざくへんしるす。


紫草むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに いめやも


 いまさらねやかよおうでもないが、あいかしこひとだけに、それとなくかよわせることがよう。

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