淡海遷都(下)

 けんぽうがんねんはるしょうがつ一日ついたちからたいさんおこなわれたほうぜんは、またとなくおごそかでせいだいなものであった。

 もりノきみおおいわさかベノむらじいわつみらはこのぜんねんあきに、なかノおおえノめいけて、おう使しゃというかくほうぜんばいせきするために、まず百済くだらかった。百済くだらからはりゅうじんひきいられて、新羅しらきたむくに使つかいらとともに、唐土もろこしたいざんした。

 たいざんにはこうていじきさんたるかくとく、それにこうしつしょおうほか突厥トゥルク于闐ホータン波斯ペルシャ天竺インド崑崙クンルンなどのしょぞく使しゃあつめられていた。まノこにきし使つかいとして王子せしむふくなんらもていた。高麗こまひとたちはかくべつていちょうたいぐうされているようであった。

 おおいわいわつみなかノおおえノこうもあって、こうていしょうをよくたかったが、ほうぜんではかすかにうかがうことしかなかった。

 ほうぜんんだあとおおいわらはすぐにこくさせられず、らくようまねかれ、せきもうけてかんたいされた。いでちょうあんにもまねかれ、こうていおこなせつごとのれいてんなどにさんもさせられた。そうしたせきされるさけはどれもうまく、りょうやまとノくにってはそうぞうかないようなものばかりで、かたるにもことりないほどであった。こうてい姿すがたもいくらかかんさつすることがた。

 またこうていつかえるおびただしいかずかんたちの、ほうてんていしたがってきちりきちりとはたらようも、おおいわらにはいずれごとになるかもしれぬこととして、そのきょうぶかうつった。まノくにちにくというぐんだんの、とうかかげたこうしんようも、なんせられたことであった。

 たいざいちゅうしょく宿しゅくはくひつようになるしなものようは、すべこうしつさんからきゅうされて、なにひとゆうすることはかった。おおいわらはすっかり、てんにしてこうていといわれるそんざいおおきさにかんって、なるほどなんびゃくねんまえからやまとノきみというひとが、はるばるうみえて使つかいをつかわし、ちょうこうかえしたということも、それだけののあることであったのだとはだった。


うまざけ やま あおし やまの やまに イかくるまで みちくま イもるまでに つばらにも つつかむを しばしばも さけむやまを こころなく くもの かくさうべしや


 おおいわらが百済くだらて、けんぽうねんふゆじゅういちがつここのちくしノくにまでもどると、こんなうたっていて、なかノおおえノみやこおうみノくにおおうつし、らいねんしょうがつして、

こうてい

 のくらいくのだということがかれた。おおいわらはみみうたがった。なんということであろうか。このうたは、しょおうなかノおおえノしたがってやまとみやこはなれるに、ぬかたノきみというひとつくったことになっていて、どノきみというひとがこれにこたえて、


やまを しかもかくすか くもだにも こころらなも かくさうべしや


 といううたかえしたということにもなっていた。それがほんとうかどうかはわからないにしても、こんなうたちくまでつたわっているところれば、おうせんひょうばんわるさがれる。みわやまえなくてしいということによって、せんをそれとなくふうしているのである。それはそうであろう。やまとノくにかられば、なにならまだしも、おうといったらがいこくである。くんしゅがいこくするということがあろうか。

 ともかくもおおいわらは、いくらおそくともじゅうがつすえまでには、おうみノおおつノみやさんじなくてはならない。さいわいこのとしじゅういちがつつぎに、うるうじゅういちがつはいり、ねんまつまでにまださんげつじゃくはある。だからかんじゅうぶんであるとはいえ、おおいわらはぜわしくひがしかう。やまとやまみにかこまれた国内くぬちかえるつもりでたのに、なにからはこまノやまえずに、やましろノくにとおって、おうみノくにけるのである。


 おうみノおおつノみやは、そのしゅうにいくらかまちらしいものをそなえて、これをおおつノみやこばせている。おおつノみやこたしかにいままでにいほどのものであるとはいえ、それはやまとノくにおうみノくになど、このひがしうみなかかぶおおしましょこくかぎったはなしで、いまさっきちょうあんれば、こうていみやことしてはあまりにもちいさく、唐土もろこしならへんきょうけんじょうにさえおよばないていぎない。

 もっともなかノおおえノにあっては、ここをあしかりとして、なんとうがもというところに、ちょうあんじょうけんするような、もっとほんかくてきじょうつくるつもりであるらしい。しかしもしそれがったにしても、そのまちたすにるものが、たしてこのくににあろうか。こうていみやこおおくのかんりょうみ、しゅうちゅうてきはたらくためのものなのである。そしてちょうあんれたような、ゆうしゅうかんじんそろえるには、しきてききょういくひつようなのであろうが、そのせいはまだまったかくりつされていない。


 よくねんはるしょうがつみっなかノおおえノだんのぼり、みずかって、

てんにしてこうてい

 としょうして、さらにりょうほうてんじゅういっかんこうするとせんした。

 おおいわはこのそくしきったことはさいわいだとはおもったが、しかしこのおうみノみかどしょうわったものにえる。そのしょうみかどのぞどおり、とうこうていはんとしててられたこんべんというものになっている。ふくこんというもので、あかいろつきりゅうなどじゅうしゅ吉祥めでたいものをいたようは、たしかにちょうあんかいたものにている。

 しかしべんかんはどうであろう。とうこうていせいそうけるべんかんというものには、ほうぎょくんだすだれのようなりゅうというものがいている。おおいわはこのりゅうべんかんまえうしろにだけれているのをたしかめてきた。それがどうしたわけか、みかどべんかんにはりゅうほうつるされている。

 おそらくこれはぜんとうつかわされたものらのしょうげんによってつくられたのであろう。こうていえっけんゆるされるといっても、あまりまじまじとてはれいとしてばっせられる。もしなんいんけんされるかいがあっても、ふくそうをよくろうとさえおもっていなければ、かたちあやまっておぼえてもい。おおいわかえるのがおそかったのだ。

チー

 とおおいわかげで、ちょうあんおぼえた唐土もろこしりゅうなげきのこえいてみる。こうからまなぶべきことはおおいにるにもせよ、こんなふうにうわつらをすることはむなしい。かつてさいのうまれたことをかんじて、ありまノぼうさつきょうりょくし、百済くだらいくさにもしょうぐんとしてえんせいしたことが、いまとしてはうらみにおもわれる。やまとにはやまとさわしいくんしゅよそおいというものがあろうではないか。

 ひそかにおおしまノこころせるものおおいらしいのも、むべなるかなというおもいがするのであった。

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