　唐（とう）の勅（ちょく）使（し）劉（りゅう）徳（とっ）高（こう）はこの年（とし）の十（じゅう）二（に）月（がつ）に帰（き）国（こく）の途（と）に就（つ）くまでの間（あいだ）、難（なに）波（わ）で随（ずい）員（いん）たちに物（もの）の売（う）り買（か）いを許（ゆる）していたが、これは軍（いくさ）に必（ひつ）要（よう）となる物（ぶっ）資（し）の工（く）面（めん）についての下（した）調（しら）べを兼（か）ねていたらしかった。

　この冬（ふゆ）、高麗（こまノ）国（くに）の大（だい）臣（じん）淵（いり）蓋（か）蘇（す）文（み）が死（し）んだということが、海（うみ）を越（こ）えて聞（き）こえてきた。二（に）十（じゅう）年（ねん）余（あま）りの間（あいだ）、王（こにきし）の許（もと）で辣（らつ）腕（わん）を振（ふ）るい国（こく）政（せい）を専（もっぱ）らにしてきた大（だい）臣（じん）の訃（ふ）報（ほう）は、嵐（あらし）の前（まえ）触（ぶ）れのように内（ない）外（がい）に波（は）紋（もん）を及（およ）ぼす。蓋（か）蘇（す）文（み）には三（さん）人（にん）の子（こ）があり、もし相（そう）続（ぞく）の権（けん）利（り）を争（あらそ）えば、唐（とう）と新羅（しらき）がその隙（すき）に乗（じょう）じて今（いま）までの恨（うら）みを晴（は）らそうとするであろう。

　翌（よく）年（ねん）春（はる）正（しょう）月（がつ）、唐（とう）の皇（こう）帝（てい）は封（ほう）禅（ぜん）の儀（ぎ）を行（おこな）うと、麟（りん）徳（とく）三（さん）年（ねん）を改（あらた）めて乾（けん）封（ぽう）元（がん）年（ねん）と号（ごう）した。

　高（コ）麗（リョ）国（こく）では、淵（イル）蓋（・カ）蘇（ス）文（ム）の長（ちょう）子（し）男（ナム）生（セン）が父（ちち）の位（くらい）を継（つ）ぎ、国（こく）政（せい）を主（つかさど）っていたが、この春（はる）に国（こく）内（ない）を巡（じゅん）察（さつ）しに出（で）て、弟（おとうと）の男（ナム）建（コン）と男（ナム）産（サン）を平（ピョン）壌（ヤン）城（じょう）に留（とど）め、後（あと）のことを委（ゆだ）ねた。男（ナム）生（セン）は弟（おとうと）どもが政（せい）治（じ）を怠（なま）けるのではないかと案（あん）じて、間（かん）者（じゃ）を残（のこ）して二（ふた）人（り）を監（かん）視（し）させた。男（ナム）建（コン）たちは兄（あに）の間（かん）者（じゃ）があることを知（し）ってこれを捕（と）らえ、自（じ）分（ぶん）たちが権（けん）力（りょく）を握（にぎ）ることを兄（あに）が悪（にく）んで殺（ころ）そうとしているのではないかと疑（うたが）った。

　そこで男（ナム）建（コン）は王（コンキシ）の命（めい）であるとして、男（ナム）生（セン）を召（しょう）還（かん）しようとした。男（ナム）生（セン）はその偽（ぎ）計（けい）を知（し）って敢（あ）えて戻（もど）らない。男（ナム）建（コン）はいよいよ疑（うたが）いを深（ふか）くして、男（ナム）生（セン）の子（こ）の一（ひと）人（り）献（ホン）忠（チュン）を殺（ころ）す。

　男（ナム）生（セン）は国（クッ）内（ネエ）城（じょう）に走（はし）り、その衆（しゅう）と契（キ）丹（タン）や靺（マル）鞨（ガル）の兵（へい）を率（ひき）いて守（まも）りを固（かた）めると、子（こ）の献（ホン）誠（ソン）を遣（や）って唐（とう）の皇（こう）帝（てい）の慈（じ）悲（ひ）を乞（こ）うた。皇（こう）帝（てい）は献（ホン）誠（ソン）に右（ゆう）武（ぶ）衛（えい）将（しょう）軍（ぐん）の爵（しゃく）位（い）を授（さず）け、馬（うま）や宝（ほう）刀（とう）を与（あた）えて、国（くに）に還（かえ）らせて男（ナム）生（セン）へ恩（おん）沢（たく）を報（しら）せさせた。

　夏（なつ）六（ろく）月（がつ）、皇（こう）帝（てい）は詔（みことのり）して左（さ）驍（きょう）衛（えい）大（たい）将（しょう）軍（ぐん）の契（ケイ）苾（ビツ）何（・ハ）力（リク）を遼（レウ）東（トゥン）道（どう）安（あん）撫（ぶ）大（たい）使（し）、左（さ）金（きん）吾（ご）衛（えい）将（しょう）軍（ぐん）の龐（パン・）同（トン）善（シェン）と、営（ユェン）州（チウ）都（と）督（とく）の高（カウ）侃（・カン）を遼（レウ）東（トゥン）道（どう）行（こう）軍（ぐん）摠（そう）管（かん）とし、左（さ）武（ぶ）衛（えい）将（しょう）軍（ぐん）の薛（シェツ）仁（・ジン）貴（クィ）と左（さ）監（かん）門（ぼん）将（しょう）軍（ぐん）の李（リィ・）謹（キン）行（カン）を殿軍（しんがり）として副（そ）え、兵（へい）を率（ひき）いて国（クッ）内（ネエ）城（じょう）へ向（む）かわせた。

　秋（あき）九（く）月（がつ）、何（ハ）力（リク）らは男（ナム）建（コン）の兵（へい）を破（やぶ）り、男（ナム）生（セン）を救（すく）い出（だ）して長（チャン）安（アン）に還（かえ）った。皇（こう）帝（てい）は男（ナム）生（セン）を特（とく）進（しん）遼（レウ）東（トゥン）大（たい）都（と）督（とく）に召（め）して平（ビェン）壌（ジァン）道（どう）安（あん）撫（ぶ）大（たい）使（し）を兼（か）ねさせ、玄（クェン）菟（ト）郡（ぐん）公（こう）に封（ほう）じた。

　冬（ふゆ）十（じゅう）二（に）月（がつ）、皇（こう）帝（てい）は司（し）空（くう）にして英（イェン）国（クォク）公（こう）、建（けん）国（こく）の功（こう）臣（しん）でもある老（ろう）将（しょう）李（リィ・）勣（セク）を、遼（レウ）東（トゥン）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）兼（けん）安（あん）撫（ぶ）大（たい）使（し）とし、契（ケイ）苾（ビツ）何（・ハ）力（リク）と龐（パン・）同（トン）善（シェン）を並（なら）びに行（こう）軍（ぐん）副（ふく）大（たい）摠（そう）管（かん）として、高（コ）麗（リョ）を討（う）つための水（すい）陸（りく）諸（しょ）軍（ぐん）を総（す）べさせることとした。また転（てん）糧（りょう）使（し）の宝（パウ・）義（ギィ）、独（トゥッ）孤（コ・）卿（キェン）雲（ウン）、郭（クァク）待（・タイ）封（ポン）らは勣（セク）の指（し）揮（き）下（か）に入（はい）り、軍（ぐん）用（よう）に給（きゅう）するために河（カー）北（プォク）諸（しょ）州（しゅう）の物（ぶっ）資（し）を遼（レウ）東（トゥン）に運（はこ）ぶこととした。

　さらに蓋（カ）蘇（ス）文（ム）の弟（おとうと）浄（チョン）土（ト）が、十（じゅう）二（に）城（じょう）を以（もっ）て新（シン）羅（ラ）に投（とう）降（こう）し、新（シン）羅（ラ）の王（コンキシ）はこれを保（ほ）護（ご）して、その十（じゅう）二（に）城（じょう）に士（し）卒（そつ）を送（おく）って守（まも）らせた。これによって高（コ）麗（リョ）は男（ナム）建（コン）派（は）と反（はん）対（たい）派（は）に分（わ）かたれ、蓋（カ）蘇（ス）文（ム）が二（に）十（じゅう）年（ねん）余（あま）りに亘（わた）って国（くに）を固（かた）めた努（ど）力（りょく）は、全（まった）く無（む）に帰（き）することとなってしまった。

「天（てん）皇（のう）の勅（みことのり）したまえる所（ところ）を承（うけたまわ）りしより、民（たみ）どもを憂（うれ）え恤（めぐ）むがゆえに、石（いわ）室（き）の役（えだち）を起（お）こさしめざるなり」

　唐（とう）の乾（けん）封（ぽう）二（に）年（ねん）に当（あ）たる歳（とし）の春（はる）二（に）月（がつ）二（に）十（じゅう）七（しち）日（にち）、亡き大（おお）田（たノ）皇（み）女（こ）のこの六（ろく）年（ねん）ほど仮（かり）に安（あん）置（ち）されていた棺（ひつぎ）を、後（のちノ）崗（おか）本（もとノ）天（てん）皇（のう）の陵（みささぎ）の前（まえ）の墓（はか）に埋（う）める際（さい）に、中（なかノ）大（おお）兄（えノ）皇（み）子（こ）はこう述（の）べて、その墓（はか）の造（つく）りを簡（かん）略（りゃく）に済（す）ませた言（い）い訳（わけ）をした。

　その一（いっ）方（ぽう）でここ数（すう）年（ねん）、筑（ちく）紫（しノ）国（くに）の水（みず）城（き）をはじめとして、長（なが）門（とノ）国（くに）などの各（かく）地（ち）にも、百済（くだら）式（しき）の技（ぎ）術（じゅつ）を取（と）り入（い）れた城（き）を造（つく）る作（さく）事（じ）が行（おこな）われていたし、この年（とし）にも新（あら）たに、倭（やまと）国（ノくに）の高（たか）安（やすノ）山（やま）、讃（さぬ）吉（きノ）国（くに）の屋（や）嶋（しま）や対（つし）馬（まノ）国（くに）の金（かな）田（た）に、同（どう）様（よう）の城（き）を設（もう）ける計（けい）画（かく）が立（た）てられている。

　河（かわ）辺（ベノ）臣（おみ）百（もも）枝（え）ら、百済（くだら）の戦（せん）役（えき）を見（み）て還（かえ）った者（もの）たちによる、新羅（しらきノ）国（くに）を警（けい）戒（かい）すべきだという主（しゅ）張（ちょう）は、蓋（か）蘇（す）文（み）の訃（ふ）報（ほう）が伝（つた）えられてから、より多（おお）くの人（ひと）々（びと）を納（なっ）得（とく）させるようになった。高麗（こま）が滅（ほろ）べば新羅（しらき）は一（いっ）層（そう）と増（ぞう）長（ちょう）するであろう。次（つぎ）には筑（ちく）紫（しノ）国（くに）や出（いず）雲（もノ）国（くに）、越（こしノ）国（くに）など、倭（やまと）国（ノくに）の附（ふ）庸（よう）を奪（うば）おうとするかもしれない。

　こうして亡（ぼう）命（めい）者（しゃ）たちを働（はたら）かせるための事（じ）業（ぎょう）に弾（はず）みが付（つ）く中（なか）で、鎌（かま）足（たり）と中（なかノ）大（おお）兄（え）は淡（おう）海（みノ）国（くに）の大（おお）津（つ）に都（みやこ）を遷（うつ）すことを、防（ぼう）備（び）を整（ととの）えることの一（いっ）環（かん）であるかのようにして進（すす）め、その建（けん）設（せつ）もほぼ完（かん）成（せい）しつつある。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）も鎌（かま）足（たり）も、政（せい）治（じ）の場（ば）としての倭（やまと）国（ノくに）を嫌（きら）っている。

　確（たし）かに倭（やまと）国（ノくに）はこの数（すう）百（ひゃく）年（ねん）の間（あいだ）、王（おう）権（けん）を営（いとな）む力（ちから）の基（もとづ）く所（ところ）として続（つづ）いた、耀（かがや）くような伝（でん）統（とう）を持（も）っている。しかしそれだけに旧（きゅう）弊（へい）も大（おお）いに積（つ）もっている。

　昔（むかし）から倭（やまと）国（ノくに）の地（じ）面（めん）は、物（ものノ）部（ベノ）連（むらじ）、大（おお）伴（ともノ）連（むらじ）、阿（あ）倍（へノ）臣（おみ）といった貴（き）族（ぞく）たちの率（ひき）いる氏（うじ）によって分（わ）かたれていた。氏（うじ）の領（りょう）民（みん）にとって、君（くん）主（しゅ）とはその氏（うじ）の氏（こノ）上（かみ）であり、倭（やまと）王（ノきみ）とは間（かん）接（せつ）的（てき）な主（しゅ）従（じゅう）関（かん）係（けい）を持（も）つに過（す）ぎなかった。倭（やまと）国（ノくに）の中（なか）で倭（やまと）王（ノきみ）の自（じ）由（ゆう）になるものは案（あん）外（がい）少（すく）ないのであった。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）の物（もの）心（ごころ）が付（つ）いた頃（ころ）には、貴（き）族（ぞく）たちが競（きょう）争（そう）を重（かさ）ねた末（すえ）に、蘇（そ）我（がノ）臣（おみ）だけが勝（か）ち抜（ぬ）け、王（おう）室（しつ）に次（つ）ぐ地（ち）位（い）を得（え）ていた。だから蘇（そ）我（がノ）蝦（えみ）夷（しノ）大（おお）臣（おみ）と入（いる）鹿（かノ）臣（おみ）だけを叩（たた）けば、貴（き）族（ぞく）連（れん）中（ちゅう）全（ぜん）体（たい）の頭（あたま）を押（お）さえ、王（おう）権（けん）を拡（かく）張（ちょう）することは出（で）来（き）たのであった。

　それにしても貴（き）族（ぞく）たちの実（じつ）力（りょく）は衰（おとろ）えたりとはいえ、土（と）地（ち）と民（みん）衆（しゅう）に対（たい）する影（えい）響（きょう）力（りょく）はまだ無（む）視（し）しえないものを持（も）っている。中（なかノ）大（おお）兄（え）ら今（いま）の王（おう）室（しつ）の祖（そ）である彦（ひこ）太（ふとノ）尊（みこと）は、百（ひゃく）五（ご）十（じゅう）年（ねん）ほど前（まえ）に倭（やまと）王（ノきみ）になったに過（す）ぎず、これより前（まえ）から倭（やまと）国（ノくに）にあった貴（き）族（ぞく）らは、より古（ふる）い由（ゆい）緒（しょ）を誇（ほこ）って、実（じつ）力（りょく）とは関（かん）係（けい）なしに高（たか）い権（けん）威（い）を保（たも）ってもいる。

　倭（やまと）国（ノくに）の統（とう）治（ち）は、こうした貴（き）族（ぞく）たちの名（めい）望（ぼう）に頼（たよ）らざるを得（え）ず、貴（き）族（ぞく）たちは表（おもて）では中（なかノ）大（おお）兄（え）に従（したが）うようなふりをしながら、裏（うら）では旧（きゅう）態（たい）依（い）然（ぜん）とした慣（かん）習（しゅう）法（ほう）を操（あやつ）って、明（めい）文（ぶん）法（ほう）による改（かい）革（かく）を妨（さまた）げているのだ。むしろ筑（ちく）紫（しノ）国（くに）や東（あづま）国（ノくに）のような附（ふ）庸（よう）の方（ほう）が、素（す）直（なお）に法（ほう）令（れい）を実（じっ）施（し）しているようなのである。

　ここを離（はな）れなければ、思（おも）うままに帝（てい）国（こく）を築（きず）くことはならない。

「もとより淡（おう）海（み）こそは大（おお）八（や）洲（しま）の中心地（なかツくに）なるべし」

　そう中（なかノ）大（おお）兄（え）は鎌（かま）足（たり）に言（い）った。

　淡（おう）海（みノ）国（くに）は、もともと彦（ひこ）太（ふとノ）尊（みこと）の膝（ひざ）元（もと）であり、今（いま）もその縁（えん）を誇（ほこ）りとして、王（おう）室（しつ）に忠（ちゅう）実（じつ）な者（もの）が多（おお）い。

「淡（おう）海（み）」

　と呼（よ）ばれる南（なん）北（ぼく）に長（なが）い湖（みずうみ）をその名（な）とする国（くに）であり、その湖（みずうみ）の南（なん）西（せい）岸（がん）に大（おお）津（つ）という土（と）地（ち）がある。湖（みずうみ）を渡（わた）れば越（こしノ）国（くに）へ出（で）て角（つぬ）賀（が）の港（みなと）から北（きた）の海（うみ）の路（みち）へ、東（ひがし）はすぐ美（み）濃（の）、科（しな）野（の）の山（やま）の道（みち）へ、南（みなみ）は伊（い）勢（せノ）国（くに）から東（ひがし）の海（うみ）の路（みち）へ、西（にし）は山（やま）背（しろノ）国（くに）を経（へ）て難（なに）波（わ）の港（みなと）へ通（つう）じている。

　この美（うつく）しい湖（みずうみ）には幼（おさな）い頃（ころ）、まだ父（ちち）が母（はは）に厭（いと）われるようになる前（まえ）に、兄（きょう）弟（だい）そろって連（つ）れられて遊（あそ）んだ、懐（なつ）かしい想（おも）い出（で）もあった。

　大（おお）田（たノ）皇（み）女（こ）の棺（ひつぎ）を埋（まい）葬（そう）した日（ひ）から一（ひと）月（つき）も経（た）たない三（さん）月（がつ）十（じゅう）七（しち）日（にち）、中（なかノ）大（おお）兄（え）は倭（やまと）国（ノくに）を見（み）捨（す）てて、落（らく）成（せい）した淡（おう）海（みノ）大（おお）津（つノ）宮（みや）に遷（うつ）って行（い）った。