定恵の帰還

 かくそうは、なんげつたされたすえとしれにつしまノくにはなれ、きたかえってった。

 なかノおおえノかまたりは、そうへのたいおうめあぐねたあげく、やっとあきがつになって、もりノむらじらをつしまノくにつかわした。りゅうじんげんからおくられてきたはこけもせず、またてもいないことにした。

 らはなかノおおめいれいしたがって、ちくしノくに使しゃであるとしょうした。そうちくしノくにやまとノくにようであり、使せつおうらいやくわりになっているとはかいしていた。らはそうかって、ちくしノくに大帥おおみこともちことばであるとして、

まろうとらのきたさまるに、これてん使つかいにあらず。りゅうしょうぐんわたくし使つかいなりめり」

 とい、

ちょく使あらざればやまとみやこはいることをざるべし。またふみおおきみたてまつらざるなり」

 とくわえて、ちょうしょはこをそのままでかえした。

 そうちゅうぶかかんがえた。このまましゅかえっては、こうしょうしっぱいしたせきにんわれる。このげんいんあいたいにあることのしょうひつようである。そこでらにたいして、いまったことのしゅを、ぶんしょにしてしてしいとようきゅうした。

 らはそうちゅうもんに、ただちにこたえることがず、またきゃくたせてなにもどった。

 そうちく大帥おおみこともちによるちょうしょったのは、ふゆじゅうがつになってのことで、百済くだらったのはそのじゅうにちであった。

 とうちょうていでは、このこうしょうもんぜんばらいにされたことを、れいであるとしてめるよりも、ちょく使すことでゆうつぶほうさくった。あくりんとくねんこうていみことのりしてしゅうりゅうとっこうてん使つかいとしてたせた。とっこうは、がくもんそうがくせいとしてうみわたっててから、ながたいざいしているじんをもひきいて、ふねって百済くだらかった。そしてそうくんらをともない、あきしちがつじゅうはちにちつしまり、こうしょうについてしんするために、さきれの使しゃちくしノくにおくったということが、ほどなくなかノおおつたえられた。

 ちくしノくにからのでんたつによると、ちょく使らいは、くにがくもんそうがくせいおくるのとともに、

ほうぜん

 というものに、おう使しゃばいせきゆるす、ということであった。しょもつでしかたことのことが、いまこのまえしたことに、なかノおおかまたりたかぶらせた。

 ほうぜんとは、おうじゃなかおうじゃでなければおこなえないとされることで、そのらいたいていおうふくにあるとわれ、かつてしんこうていきょこうしたあとは、かんていこうていのみがしっこうしたとつたえられている。

 そのほうぜんが、らいねんはるしょうがつ、およそろっぴゃくねんぶりにおこなわれるというのである。ほうせんしきだいとされ、しょもつにもくわしくしるされたものはい。なかノおおはそのないようすこしでもりたいというよくこした。

 いっぽうかまたりは、かんするじんめい簿にして、そのなかに、

じょう

 というまえけたことに、むねのうちをたんとくとさせた。


 じょうは、じゅうねんほどまえなつがつに、なにみなとからからみちおくされたのことを、すこしもわすれたことがい。ちちかまたりかおこえいたのは、それがさいなのであった。

「ゆめゆめいましめをまもりて、ひたぶるにくべし」

 そのそうべつことばじょうわすれない。

 しかしちちこととはうらはらに、たびきょくせつねばならなかった。ったふねなんしたのは、たしさつまノくにおきであったろうとおぼえる。じょうふないたすがりついて、ひとひとしおながされてごした。よるけるとのぼって、すすむべきほうがくおしえてくれた。くとやまとノくにもとるようにおもえた。

 それかられぬしまき、ひとたよってふねり、しまからしまつたって西にしき、どうにか唐土もろこしてとおもえるところいた。そこはのんびりとしたぎょそんぎなかったが、それでもりってらがあって、そうりょんでいるのであった。

 そうしんせつづかいで、じょうひょうりゅうつかれたからだかいふくさせ、ちょうあんのぼとおしをけることがた。こんてらからてらへとつたってきたき、てんにしてこうていといわれるそんざいする京師みやこいた。そこにはゆびかぞえるにはあまるほどのてらがある。やがてかいかいぼうけいじつどうじょうはいり、しんたいほうとなって、ほとけみちはげむことじゅうねんあまりにおよんだ。

 このりんとくねんなつこうていみことのりもとづき、かんよりめいれいがあって、こくしてぶっぽうひろめるがいとのことで、わかれをげることとなった。こうくだってなんどうはいり、たいざんのぞしゅうというところれてられた。ほかおなじように唐土もろこしとどまってまなんでいたやまとひとたちもあつめられた。

 そこからはしゅうであるりゅうとっこうひきいられて、ひがしかってあるき、みなとふねせられた。うみわたるのはこわいようなもしたものの、こんたびではあぶないことはかった。百済くだらあきしちがつじゅうはちにちつしまノくにいたり、しばらくあってがつちくしノくにはいった。やまとノくにからはもりノきみおおいわさかベノむらじいわつみというひとたちがて、わりにつしまノくにった。どうやらそのもくてきたいざんおこなわれるほうぜんで、ぶんたちのこくはそれとこうかんになっているらしいとった。

 ふゆじゅうがつなにもどり、そしてやまと飛鳥あすかかえると、はこのくにうちからはず、もとはもっとひがしったことをおもした。


 かまたりは、じょうなにもどってもわず、ひとって飛鳥あすかふじわらいえつようにけた。そしてちょく使いちだんひゃくじゅうひとへのたいおうぼうであることをわけにして、じょうのことはしばらくかんがえないようにした。

 じょうは、もうじゅうねんまえんだはずなのだ。

 あのんだのだとあきらめをけたのは、おのれちからなのである。

 じょうきていたならば、このていされることになる。

 このとおりにならないものなど、このそんざいしてしくない。それにこのとししちさいになるなんに、あとぎはするともうめている。じょうれれば、さまたげになるかもしれない。


 とっこうらがこくいてからここのじゅうがつじゅうさんにちじょうんで、きゅうびょうであったとつたえられた。ねんまつだれかがじょうさいのうねたんでどくさつしたといううわさかれた。

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