　豊（ふ）璋（しょう）が百済（くだら）へ帰（き）国（こく）してから二（に）年（ねん）目（め）、唐（とう）の竜（りょう）朔（さく）三（さん）年（ねん）、秋（あき）九（く）月（がつ）になると、唐（とう）と新羅（しらき）のために惨（みじ）めに打（う）ちのめされた倭（やまと）の軍（ぐん）勢（ぜい）の生（い）き残（のこ）りが、難（なに）波（わ）の港（みなと）に引（ひ）き揚（あ）げてきた。また百済（くだら）から戦（せん）災（さい）を避（さ）けて逃（に）げた農（のう）民（みん）などの舟（ふね）も、津（つ）々（つ）浦（うら）々（うら）に滔（とう）々（とう）と流（なが）れ込（こ）んで来（き）ていた。

　こうした難（なん）民（みん）が浮（ふ）浪（ろう）者（しゃ）になって秩（ちつ）序（じょ）を乱（みだ）さぬように導（みちび）くには、百済（くだら）の王（おう）族（ぞく）や貴（き）族（ぞく）の協（きょう）力（りょく）が是（ぜ）非（ひ）とも必（ひつ）要（よう）である。

　百済（くだら）の貴（き）人（じん）たちの中（なか）には、唐（とう）に投（とう）降（こう）してしまう者（もの）と、倭（やまと）国（ノくに）に残（のこ）っていた豊（ふ）璋（しょう）の弟（おとうと）、禅（ぜん）広（こう）を慕（した）って来（く）る者（もの）とに分（わ）かれていた。難（なに）波（わノ）宮（みや）で待（ま）っていた禅（ぜん）広（こう）の許（もと）には、法（ほう）家（か）の学（がく）を修（おさ）めた余（よ）自（じ）信（しん）や沙（しゃ）宅（じゃく）紹（じょう）明（みょう）、儒（じゅ）学（がく）に明（あか）るい鬼（き）室（しち）集（じゅう）斯（し）や許（こ）率（そち）母（も）、兵法（へいほう）に通（つう）じた谷（こく）那（な）晋（しん）首（しゅ）、木（もく）素（す）貴（き）子（し）、憶（おく）礼（らい）福（ふく）留（る）、答（とう）㶱（ほん）春（しゅん）初（そ）、薬（やく）学（がく）の鬼（き）室（しち）集（じゅう）信（しん）、徳（とく）頂（ちょう）上（じょう）、吉（きち）大（だい）尚（じょう）、陰（いん）陽（よう）学（がく）の甪（ろく）福（ふく）牟（む）といった、身（み）分（ぶん）ばかりか教（きょう）養（よう）も高（たか）い貴（き）族（ぞく）たちが集（あつ）まってきた。

　大（おおし）海（あ）人（まﾉ）皇（み）子（こ）は、百済（くだら）の人（ひと）々（びと）に豊（ふ）璋（しょう）の消（しょう）息（そく）を尋（たず）ねて回（まわ）った。

　豊（ふ）璋（しょう）はこの夏（なつ）六（ろく）月（がつ）、福（ふく）信（しん）に謀（む）反（ほん）の疑（うたが）いをかけ、その寝（しん）室（しつ）を掩（おそ）わせてこれを捕（と）らえ、首（くび）を斬（き）って殺（ころ）してしまったのであった。唐（とう）と新羅（しらき）は高麗（こま）への侵（しん）攻（こう）を一（いっ）旦（たん）諦（あきら）めて、百済（くだら）の鎮（ちん）圧（あつ）に転（てん）向（こう）し、大（たい）将（しょう）を失（うしな）った百済（くだら）の軍（ぐん）勢（ぜい）は負（ま）け続（つづ）きとなった。秋（あき）八（はち）月（がつ）二（に）十（じゅう）八（はち）日（にち）に最（さい）後（ご）の決（けっ）戦（せん）があり、倭（やまと）の水（すい）軍（ぐん）は白（はく）村（すき）江（ノえ）という所（ところ）で、劉（りゅう）仁（じん）軌（き）の水（すい）軍（ぐん）と戦（たたか）って潰（かい）滅（めつ）した。

　豊（ふ）璋（しょう）の姿（すがた）は、流（なが）れ着（つ）く百済（くだら）の人（ひと）々（びと）の中（なか）には無（な）く、その行（ゆく）方（え）は杳（よう）として知（し）れなかったが、幾（いく）通（とお）りかの噂（うわさ）も、馬（うま）に乗（の）って北（きた）へ奔（はし）ったという点（てん）は一（いっ）致（ち）していた。

（さは思（おも）いけるが如（ごと）し）

　と、大（おおし）海（あ）人（ま）は肚（はら）の底（そこ）で納（なっ）得（とく）をする。たとえ他（ほか）に生（い）きる道（みち）が無（な）いとしても、豊（ふ）璋（しょう）がこの倭（やまと）国（ノくに）に帰（かえ）りたいとは思（おも）うまい。

　百済（くだら）では、遅（じ）受（ず）信（しん）のみが任（にん）存（ぞん）城（じょう）に拠（よ）って抵（てい）抗（こう）を続（つづ）けているとのことであったが、この冬（ふゆ）には劉（りゅう）仁（じん）軌（き）が降（こう）将（しょう）黒（こく）歯（し）常（じょう）之（し）らを起（き）用（よう）して、これを攻（せ）め陥（おと）したとのことが伝（つた）えられてきた。

　翌（よく）年（ねん）は、唐（とう）の麟（りん）徳（とく）元（がん）年（ねん）に当（あ）たる。

　春（はる）三（さん）月（がつ）、中（なかノ）大（おお）兄（え）は亡（な）き天（てん）皇（のう）の名（な）で、禅（ぜん）広（こう）を百済（くだらノ）王（こにきし）に封（ほう）じ、亡（ぼう）命（めい）者（しゃ）たちを慰（い）撫（ぶ）せしめることとした。

　鎌（かま）足（たり）は百済（くだら）の人（ひと）々（びと）のために、筑（ちく）紫（しノ）国（くに）に城（じょう）塞（さい）を築（きず）く事（じ）業（ぎょう）を準（じゅん）備（び）し、これを号（なづ）けて、

「水（みず）城（き）」

　と呼（よ）んだ。これは百済（くだら）から生（い）きて還（かえ）った、河（かわ）辺（ベノ）臣（おみ）百（もも）枝（え）らの意（い）見（けん）によったものでもあった。百（もも）枝（え）らは帰（き）国（こく）して以（い）来（らい）、新羅（しらき）の脅（きょう）威（い）を強（きょう）調（ちょう）し、防（ぼう）備（び）を固（かた）めるべきだと主（しゅ）張（ちょう）していた。その様（よう）子（す）は、或（ある）いは白（はく）村（すき）江（ノえ）で惨（ざん）敗（ぱい）したことによる衝（しょう）撃（げき）から、精（せい）神（しん）に異（い）常（じょう）を来（きた）したのではないかと思（おも）われるほどであった。鎌（かま）足（たり）は百（もも）枝（え）らの意（い）見（けん）を取（と）り上（あ）げ、中（なかノ）大（おお）兄（え）に進（しん）言（げん）して、築（ちく）城（じょう）の計（けい）画（かく）を具（ぐ）体（たい）化（か）した。その狙（ねら）いは難（なん）民（みん）どもに仕（し）事（ごと）を与（あた）えて、禅（ぜん）広（こう）や貴（き）族（ぞく）らの顔（かお）によって組（そ）織（しき）し、国（こっ）家（か）の良（りょう）民（みん）として陶（とう）冶（や）することにある。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）が百済（くだら）の貴（き）族（ぞく）らに期（き）待（たい）するもう一（ひと）つの役（やく）割（わり）は、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）の学（がく）問（もん）の師（し）となり友（とも）となることである。采（うね）女（め）の宅（やか）子（こ）に手（て）を付（つ）けて産（う）ませたこの子（こ）も、もう十（じゅう）八（はち）を数（かぞ）える青（せい）年（ねん）となっている。今（いま）までも出（で）来（き）るだけ学（がく）問（もん）に努（つと）めさせてきたが、これを機（き）に一（いっ）層（そう）と高（たか）い教（きょう）養（よう）を頭（あたま）に詰（つ）め込（こ）んで、立（りっ）派（ぱ）な跡（あと）継（つ）ぎになってほしいものだ。そうだ、この敗（ま）ける戦（いくさ）を敢（あ）えてしたことも、これが目（もく）的（てき）であったのだ。

「初（はじ）めより我（わ）が子（こ）のためとこそ思（おも）いけることなり」

　それがやがては国（くに）のためにもなるのだ、とこの兄（あに）が誰（だれ）に言（い）うともなく口（くち）から漏（も）らすのを聞（き）けば、大（おおし）海（あ）人（ま）の憤（ふん）慨（がい）もまた膨（ふく）らむこととなる。

　大（おおし）海（あ）人（ま）の妃（きさき）、鵜（う）野（のノ）讃（ささ）良（らノ）皇（み）女（こ）も、中（なかノ）大（おお）兄（え）への不（ふ）服（ふく）の思（おも）いを大（おお）きくしている。

　鵜（う）野（の）はこの二（に）年（ねん）ほど前（まえ）に、ようやく大（おおし）海（あ）人（ま）との間（あいだ）に、草（くさ）壁（かべ）皇（ノみ）子（こ）を産（う）んでいた。男（だん）子（し）をその腹（はら）に為（な）しえたことは、母（はは）遠（お）智（ちノ）娘（いらつめ）の死（し）を見（み）てから沈（しず）みがちであった心（こころ）を、いたく躍（おど）り上（あ）がらせた。しかし姉（あね）大（おお）田（たノ）皇（み）女（こ）が、同（おな）じ頃（ころ）に大（おお）津（つノ）皇（み）子（こ）を生（う）み、その産（さん）褥（じょく）の中（なか）に死（し）んだことは、鵜（う）野（の）の瞼（まぶた）に母（はは）の死（し）を重（かさ）ねさせもした。

　鵜（う）野（の）は母（はは）が早（はや）くに心（こころ）を病（や）んで死（し）んだことは、父（ちち）中（なかノ）大（おお）兄（え）のせいであると固（かた）く信（しん）じている。その上（うえ）、父（ちち）が大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）を偏（へん）愛（あい）して跡（あと）継（つ）ぎと決（き）め込（こ）み、他（ほか）の子（こ）どもを無（む）視（し）していることが憎（にく）い。しかも自（じ）分（ぶん）は蘇（そ）我（が）の血（ち）も引（ひ）いた高（こう）貴（き）な身（み）である。大（おお）友（とも）は采（うね）女（め）の子（こ）に過（す）ぎぬではないか。

「妾（わ）れこそは天（てん）皇（のう）となるべかりめり」

　と鵜（う）野（の）は、大（おおし）海（あ）人（ま）の耳（みみ）には遠（えん）慮（りょ）なしに囁（ささや）く。この身（み）には炊（かしき）屋（や）姫（ひめノ）天（てん）皇（のう）、後（のちノ）崗（おか）本（もとノ）天（てん）皇（のう）という偉（い）大（だい）な女（じょ）帝（てい）と同（おな）じ地（ち）位（い）に登（のぼ）るべき資（し）格（かく）がある。大（おおし）海（あ）人（ま）はそれを否（ひ）定（てい）しない。

　夏（なつ）五（ご）月（がつ）、対（つし）馬（まノ）国（くに）より使（つか）いがあり、唐（とう）の鎮（ちん）将（しょう）劉（りゅう）仁（じん）願（げん）が郭（かく）務（ぶ）悰（そう）という人（ひと）を遣（つか）わし、百済（くだら）の降（こう）将（しょう）禰（ね）軍（くん）らを従（したが）えて到（いた）り、倭（やまと）国（ノくに）への通（つう）行（こう）を求（もと）めていると報（しら）せてきた。中（なかノ）大（おお）兄（え）は倭（やまと）王（ノきみ）として采（うね）女（めノ）造（みやつこ）信（しん）侶（ろ）、僧（そう）智（ち）弁（べん）らを遣（つか）わして、務（ぶ）悰（そう）に用（よう）向（む）きを問（と）わせた。信（しん）侶（ろ）らは務（ぶ）悰（そう）に、

「表書（ふみ）および献（たてまつ）らむ物（もの）は有（あ）りや不（いな）や」

　と訊（き）くと、務（ぶ）悰（そう）は

「将（しょう）軍（ぐん）の牒書（ふみ）一（ひと）函（はこ）および献（たてまつ）る物（もの）有（あ）りき」

　と答（こた）えた。信（しん）侶（ろ）らは牒（ちょう）書（しょ）の函（はこ）を引（ひ）き受（う）けて難（なに）波（わ）に戻（もど）った。

　函（はこ）には〔唐（とう）泗（し）沘（ひ）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）より倭（わ）王（おう）に宛（あ）てる〕という旨（むね）の表（おもて）書（が）きがしてあり、封（ふう）をした上（うえ）に印（いん）を捺（お）してある。印（いん）を切（き）り封（ふう）を破（やぶ）れば、函（はこ）を開（ひら）いて文（ぶん）書（しょ）を受（う）け取（と）ったことになる。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）は、函（はこ）をそのままにさせて、

「劉（りゅう）将（しょう）軍（ぐん）の意（こころ）たるや如（い）何（か）にあるらむ」

　と鎌（かま）足（たり）に問（と）う。鎌（かま）足（たり）には中（なかノ）大（おお）兄（え）が、福（ふく）信（しん）に手（て）を貸（か）したことで皇（こう）帝（てい）から責（せ）めを受（う）けるのを恐（おそ）れているのだと解（わか）る。鎌（かま）足（たり）はその問（と）いを木（もく）素（す）貴（き）子（し）に投（な）げ、返（へん）答（とう）を取（と）り次（つ）ぐ形（かたち）で中（なかノ）大（おお）兄（え）に奏（そう）上（じょう）する。その意（い）見（けん）はこうだ。

　実（じつ）は唐（とう）の実（じつ）力（りょく）は、世（よ）の人（ひと）々（びと）が云（い）うほどのものではない。強（きょう）大（だい）な突厥（トゥルク）を屈（くっ）服（ぷく）させたというが、それは相（あい）手（て）の自（じ）滅（めつ）に乗（じょう）じたので、正（しょう）面（めん）切（き）って戦（たたか）い勝（か）ったのではない。西（にし）は吐蕃（チベット）に苦（くる）しみ、東（ひがし）は高（コ）麗（リョ）の患（わずら）いがある。百（ペク）済（チェ）の故（こ）地（ち）を占（せん）拠（きょ）するにも、これを維（い）持（じ）するには新（シン）羅（ラ）から援（えん）助（じょ）を受（う）けねばならない。これからまた高（コ）麗（リョ）を討（う）とうとしているのだろうが、新（シン）羅（ラ）にだけ頼（たよ）るのでは不（ふ）安（あん）が残（のこ）る。そこで倭（やまと）国（ノくに）が高（コ）麗（リョ）に加（か）勢（せい）する気（き）があるのか、そうでなければ物（もの）を倭（やまと）国（ノくに）から調（ちょう）達（たつ）できるのかどうか、探（さぐ）りに来（き）たのではあるまいか。