失意の外交

 高麗こまノくにだいじんいりは、新羅しらきとうせんりょくれて百済くだらノくにほろぼそうとしているとさっして、やまとノくに使つかいをおくってきたのであった。百済くだらられると高麗こま西にしみなみりょうしょうめんとしてたたかわねばならなくなる。やまとノくにむかしから百済くだらかんけいふかいので、じょうきょうればかならえんぺいすはずである。けん使もくてきはここにある。

 しかしほんとうとう新羅しらきようせいこたえるか、このふゆにはまだうたがわしくかんがえられた。そこではるしょうがつ一日ついたちちくしノくにいたった使しゃは、しばらくそこにとどまってひがしへはかわず、ほんごくれんらくりつつ、ちくちょうとおしてやまとノくにしょうそくわした。


 こうした賓客ひんきゃくかかわらず、ちくしノくににはいつもうみきたとのおうらいがあり、それによってさまざまじょうほうつたえられている。おおしまノきさきひとあまこノいらつめちちであるむなかたノきみとくぜんは、ちくめいであった。そのえんおおしみみには、かいがいけいせいいちはやはいってくる。

 このとしはるには、

かわみずあかくなることいろごとし」

 とか、

西にしうみはまにて、うおれをなしてにき。百姓ひとびとこれをうに、くすことあたわず」

 といったようなうわさ百済くだらほうからこえている。 

 こうしたかいうわさながれるのは、ひとびとがそのくにくんしゅまんかんじていることのあらわれなのだ。おうじゃせいじゅうぶんとどかないなら、せまたいしょすることはむずかしくなろう。

よろずかぞえ、うえあつまりてけり」

 とか、

王都みやこいちひとゆえくしておどろきてはしる。たおれてぬるもの百人ももたりあまり」

 などということがかれたのは、なつがつのことである。このころになると、とうこうていみことのりして、じゅうさんまんごうするたいぐんひがしかわせたらしいというじょうほうはいっていた。そのほこさき高麗こまノくになのか百済くだらノくになのかは、まだたしかにはからなかった。


いくさつたなくしてはやきことはきしも、いまたくみにしてひさしきことはゆることなし」

 おおしがくもんといってもじゅほうより、へいがくがよくあたまはいたちであった。いくさはやいということはあっても、くてながくということはい。もしあにしょうとのから百済くだらへいすつもりなら、はやくせねばどうにもならなくなる。せんそうおくれるくらいならなにもしないほういのだ。

 しかしなかノおおえノいまになって、

ふね

 とした。しゅっぺいひつようぐんせんりょうけいさんしてつくれというのである。ふねならある。このはるにもははぜんからのほうしんけいぞくとして、ほくとうばんぞくへのけいりゃくのためにひゃくそうごうするすいぐんしている。それはちいさくてぼくだがけんろうふねであって、百済くだらへのかいにもえるはずなのだ。だがあにとしてはそんなおおむかしからあるようなぶねでは、とう百済くだらたいせるにはずかしいとおもっているのらしい。

ふねつくるべし」

 おおきくてりっふね調ととのえよとめいじる。


 がつ一日ついたち使しゃちくからなにはいった。それによってとうたいぐん百済くだらかっていること、そのじんようだんいものであることがれた。こうていすいみことのりはっしたのははるさんがつのことで、えいたいしょうぐんていほうしんきゅうどうこうぐんたいそうかん新羅しらきしょうぐんこむにんもんふくたいそうかんとし、えいしょうぐんりゅうはくえいゆうえいしょうぐんほうきょうえいしょうぐんほうこうこうらをひきい、やはりへいすいりくじゅうさんまんべているということであった。また新羅しらきノこにきしこむしゅんじゅぐうどうこうぐんそうかんとし、そのくにへいひきいてがっせいするようにめいじたとのことである。

 使しゃけんとう使らがちょうあんとどめられているらしいとのしょうそくつたえてくれた。なかノおおはそれを、しゅっぺいいそがないもうひとつのゆうにした。らにたせたこくしょには、百済くだらノくにしょぐうについてのけんべてある。らがまだこうていひざもととどめられているということは、それについてまだこうしょうつづいているということだ。こうしょうちゅうであるじょうこうていほんとう百済くだらめよとはめいじていないはずだ、とかまたりなかノおおしんげんした。

 ――戯気たわけものめ!

 とおおしはらそこかまたりののしった。つたえられたところただしくえば、らはこうていちょくによってちょうあんゆうへいされている、というのである。それはとうちょうていやまとノくに百済くだらしたしいとって、いくささまたげをせぬようにめているのにちがいない。だいいちこうにはへきえんしょうこくつかってかんひかえねばならないなどありはしないのだ。

いかりはさかしまのみちなり。つわものまがしきものなり。あらそいはすえことなり」

 おおしてんもんつぶやいて、こころかせる。

 たしかにぐんおこすのにじょうもある。きたうみえてへいおくるということは、かつてさんびゃくねんまえにあったらしく、むかしばなしつたえられているのみで、だれにもけいけんいことなのである。なんまんほこなんぜんふねなんびゃくひとがどれだけあればじゅうぶんだとえるのか、はんぜんけいさんもの一人ひとりい。

 百済くだらからはこのつき

いぬありてなり鹿しかごとし。西にしよりかわきしいたり、こにきしみやかいてバウバウゆ」

 などといううわさがまたもながれてくる。

 ははあにたいしていそげともめよともわず、おおしにはただすぐれたまごしいというはなしだけをしている。


 百済くだらでのたたかいはあきしちがつはじまった。使しゃはしばしかいひょうとのれんらくたもち、じょうきょうぶんせきをしていたが、ついにやまとノくにへい使めいむなしくわることをおぼえ、じゅうろくにちになるとなにからげてった。

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