波乱の海へ

ゆうれば ぐらやまに 鹿しかは よいかず いねにけらしも


 のちノおかもとノてんのうはこのごろそんなうたりらしく、よくつぶやきにうたっている。


 ふたたけんとう使おくすというなかノおおえノかまたりけいかくは、このとしなつからあきとしてすすめられた。こんこうは、まえのようにちくしノくにから西せいなんくれすのではなく、百済くだらノくにみなみしまきそこから西にしくというけいかくてた。これならうみわたにっすうさいしょうげんとどめられ、また新羅しらきノくにるのとちがってふねえるい。

 なかノおおには、新羅しらきノくにとおりょているのはゆるせぬことでもあった。それでは新羅しらきノこにきしきょうりょくもとめるひつようがあって、しょうとそのこくそむくことになるし、なによりははいちせいこうしたみちむのでは、むことのいのだ。

 てんのうそくだいねんあきしちがつみっさかベノむらじいわしきたい使もりノむらじふく使として、とうつかわされる使せつだんが、なにみなとからふたつのおおぶねむ。なかノおおみずかおうしょうして、こうていてたこくしょたせる。ふねには陸奥みちのくかられてさせた蝦夷えみしせられる。けんとう使によってとうじんせ、やまとノくにばんぞくふくさせるぶんめいこくだとしめそうというのである。

 ろくねんまえおなじように、りっそうされたせきおおぶねが、すうひゃくにん使せつだんせ、なにすみノえはままつにして、西にしかってった。おくったなかノおおかまたりとしては、じゅん調ちょうそのもののふなであった。


 じゅん調ちょうであるということは、しかしとうおおぶねせられたひとびととすれば、しかりとはえぬところであった。なかノおおえノとしじゅうけんこだわったために、にっていもっとのぞましいよりややおくれて、なみかぜれがちなせつにさしかかっている。

 ふねちくしノくにみなとたのは、もうはちがつじゅういちにちになっていた。それからきたきノくにつしまノくにて、ちゅうけいとしてもくてき百済くだらノくにみなみしまいたのは、やっとがつじゅうさんにちのことであった。

 じゅうよっふつぎょうあさともけて西にしへ、ふたつのふねぜんしておおうなばらはなた。いわしき舷側ふなべりからうみろすと、くろしずんでどこまでふかいのかわからない。


ゆうれば ぐらやまに 鹿しかは よいかず いねにけらしも


 どこかでいたうたおもわされる。いつもはよるになるとやまくはずの鹿しかが、こんているらしくしずかだ。そんなよるやまおくぶかおそろしいかんじが、このうみとよくているようながする。やまおくみちは、黄泉よみノくにつながっているとう。

 うみはいつまでもしずかではなかった。じゅうにちりのころいわしきふねつよかぜかれ、なみながされてふねうしなった。

 ふねたんどくで、ていこうからははずれたものの、さいわいにしてたいなく、じゅうろくにちはん唐土もろこしえっしゅうかいけいけんおきしゅがんざんいた。そこからひとってやくしょれんらくけ、せっこうのほとりようけんみなとはいったのはじゅうにちであった。そこでさらにこうしょうがあり、かいけいけんしゅうちょうばれたのは、じゅうがつぎてうるうじゅうがつ一日ついたちになっていた。

 えっしゅうからえきあたえられてほく西せいへ、じゅうにちけいちょうあんいたった。しかしこうていとう行幸みゆきしていたので、またこうしょううえひがしせてじゅうにちにそのらくよういた。とうらくようは、いわしきふねっていたはずのやまとノあやノあたいさかベノむらじいなつみにんさいかいした。

 らによると、そのったふねかじうしなってみなみただよい、ひとつのしまながいた。ふねはそこでがんしょうれててんぷくした。いわしきらはしまびところされ、ただにんだけがげてしまびとふねぬすみ、西にしいでどうにか唐土もろこしかっしゅういたった。しゅうやくにんがこのにんらくようおくってくれた。

 いっこうよくじつこうていえっけんけ、またじゅういちがつ一日ついたちにもさくたんとうしゅくせきばれ、ふたたえっけんした。


ゆうれば ぐらやまに 鹿しかは よいかず いねにけらしも


 ながたびさんつかれたひとびとは、くにうたをそれぞれにかいしゃくして、むねうちたのみとする。


 このとしは、とうさんせいこうていけんけいねん百済くだらおうだいじゅうねん新羅しらきしゅんじゅおうだいろくねんほうぞうおうだいじゅうはちねんたった。とうとうほうたいしてはえんこうきんこうさくり、これまで新羅国しらきノくにむすんで高麗国こまノくにきょうげきすることがおおかった。新羅国しらきノくに高麗国こまノくに百済国くだらノくにとのせいりょくあらそいをゆうにしようと、とうぐんりゃくしたがってきた。

 高麗国こまノくにはしばしば百済国くだらノくにむすんで新羅国しらきノくにたいこうしたが、しかしとうたいしてはてっていてきあらそうことはせず、ひょうめんじょうはい退たいしてしゃざいし、とうようきゅうまんぞくさせた。てんもんに、

せいおうへいごうしてきょうし、むをずしてのみこれもちいる」

 というのがある。だいおうじゃならばへいひつようければ使つかってはならないのである。高麗こまノこにきしあたまげるなら、てんたるこうていとしてはこうげきするめいぶんくなるので、もうそこでてっ退たいしてしまう。これにはえんせいぐんするたんおもさというだいもあった。新羅国しらきノくに百済国くだらノくにけんせいけるので、とうへいじゅうぶんえんすることがない。とうつぎ新羅しらきノこにきし高麗国こまノくにによるがいうったえるまでしゅっぺいひかえ、それをっておなじことをなんかえした。

 こむしゅんじゅ新羅しらきノこにきしとなると、これまでのとうほうしんけるばかりのかたはんせいした。もっとしゅたいてきとうようせねばならない。高麗こまなんといってもいちばんきょうてきである。きょうてきせいせいどうどうたたかいをするのは、てんだいおうじゃであればこそほこりかもしれないが、兵法へいほうげんそくにははんする。まずは百済くだらくだして高麗こまりつさせるべきなのだ。

 百済国くだらノくにとしても、なんとしても新羅国しらきノくにめねばならないゆうがあった。それはかつて新羅国しらきノくにうばわれたほくりょうもどすためである。そこはけんこくおうのあるべきところである。そのためにこのなんじゅうねんものあいだ新羅しらきたたかいをいどんできたのである。

 しかしそこは新羅国しらきノくににとっても、もうばなすことのである。この百済くだらほくであったところうしなうと、西にしうみじかふねせるみなとくなる。そうするととうかよみちふさがれることになり、むかしのようなとうこくてんらくして、百済くだら高麗こまつうわねばならなくなる。それはいまゆるされないのだ。

 新羅しらきはこのなつがつ百済くだらがしきりにこっきょうおかすとして、使つかいをつかわしてとうはいらせ、こうていすいうた。とうとしてはりくじょうきょういきせっする高麗こまへのたいさくゆうせんであり、ひがしうみえて百済くだらめるにはしんちょうけんおおい。ちょうあんちょうていふゆじゅういちがつゆうれいぐんちゅうろうしょうせつじんらをつかわして高麗国こまノくにようさぐらせた。じんらはさかいえて高麗国こまノくにはいり、そこでわずかにいをしただけでげた。とうはんのうにぶいことは、れいせいちんちゃくもっられたしゅんじゅかおうれいのいろかばせたほどであった。

 

 よくねんてんのうそくだいろくねんはるしょうがつ一日ついたち高麗こま使しゃちくしノくにおとずれ、それによってけんとう使しょうそくと、さいきんかいがいせいじょうやまとノくにつたえられた。

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