　蘇（そ）我（がノ）倉（くらノ）山（やま）田（だノ）石（いし）川（かわノ）麻（ま）呂（ろノ）臣（おみ）は、中（なかノ）大（おお）兄（えノ）王（み）子（こ）に次（じ）女（じょ）を嫁（よめ）として献（ささ）げたことで、退（の）き引（ひ）きならない立（たち）場（ば）に置（お）かれたことをやがて知（し）った。

　密（みつ）議（ぎ）の場（ば）は、飛鳥（あすか）の嶋（しま）殿（どの）であった。ここはかつて故（こ）蘇（そ）我（がノ）馬（うま）子（こノ）大（おお）臣（おみ）が建（た）てたもので、今（いま）は法（ほう）興（こう）寺（じ）に施（せ）入（にゅう）されて、その離（はな）れとなっている。この庭（にわ）には川（かわ）が引（ひ）き入（い）れられて池（いけ）に流（なが）れ、池（いけ）には中嶋（なかじま）が作（つく）られている。嶋（しま）の容（よう）子（す）が美（うつく）しく珍（めずら）しいので、人（ひと）々（びと）は口（くち）に渾（あだ）名（な）して馬（うま）子（こ）を嶋（しまノ）大（おお）臣（おみ）と呼（よ）び、また屋（や）敷（しき）の名（な）ともなったのであった。

　王（み）子（こ）の呼（よ）び出（だ）しを受（う）けて参（さん）上（じょう）し、坊（ぼう）主（ず）に案（あん）内（ない）されて奥（おく）に入（はい）ると、人（ひと）払（ばら）いがされて、中（なか）には六（ろく）人（にん）だけが残（のこ）った。中（なかノ）大（おお）兄（え）、中（なか）臣（とみノ）連（むらじ）鎌（かま）足（たり）、百済（くだら）の王子（せしむ）豊（ふ）璋（しょう）、加（くわ）えて下（か）級（きゅう）貴（き）族（ぞく）崩（くず）れの破落戸（ごろつき）のような、佐（さ）伯（えきノ）連（むらじ）子（こ）麻（ま）呂（ろ）、稚（わか）犬（いぬ）養（かいﾉ）連（むらじ）網（あみ）田（た）という荒（あら）くれ者（もの）、それに石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）である。

　石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）は、心（こころ）を決（き）めねばならなかった。父（ちち）の雄（お）当（まさ）が、境（さかい）部（べﾉ）摩（ま）理（り）勢（せﾉ）臣（おみ）という人（ひと）について言（い）っていたことを思（おも）い出（だ）す。摩（ま）理（り）勢（せ）という人（ひと）は、馬（うま）子（こ）の弟（おとうと）であったが、境（さかい）部（べﾉ）臣（おみ）という蘇（そ）我（が）の支（し）族（ぞく）を領（りょう）する地（ち）位（い）に就（つ）かされていた。そのために、馬（うま）子（こ）が死（し）んだ後（あと）、蘇（そ）我（が）一（いち）族（ぞく）の長（ちょう）老（ろう）であるにもかかわらず、甥（おい）の蝦夷（えみし）に大（おお）臣（おみ）と氏（こﾉ）上（かみ）の位（くらい）を取（と）られ、風（かざ）下（しも）に立（た）たねばならなかった。

　炊（かしき）屋（や）姫（ひめﾉ）天（てん）王（のう）が他（た）界（かい）して、跡（あと）継（つ）ぎが問（もん）題（だい）になった時（とき）、蝦夷（えみし）が崗（おか）本（もとﾉ）天（てん）王（のう）を推（お）したのに、摩（ま）理（り）勢（せ）は山（やま）背（しろﾉ）大（おお）兄（え）を擁（よう）して対（たい）立（りつ）した。山（やま）背（しろﾉ）大（おお）兄（え）が王（おう）位（い）を辞（じ）退（たい）したために、摩（ま）理（り）勢（せ）の企（くわだ）ては失（しっ）敗（ぱい）し、氏（うじ）の掟（おきて）に背（そむ）いた罪（つみ）を着（き）せられて殺（ころ）されたのであった。

　石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）もまた蘇（そ）我（がﾉ）倉（くらﾉ）臣（おみ）という支（し）族（ぞく）を任（まか）されて、すでに蘇（そ）我（が）の主（しゅ）流（りゅう）から外（はず）されている。このままではあの入（いる）鹿（か）などという、生（う）まれた時（とき）から大（おお）臣（おみ）となることが決（き）められていて、ぬくぬくと育（そだ）った奴（やつ）に、全（すべ）てを獲（と）られるのである。良（よ）かろう、ここで一（いっ）生（しょう）一（いち）度（ど）の大（おお）勝（しょう）負（ぶ）を仕（し）掛（か）けてみよう。失（しっ）敗（ぱい）すれば殺（ころ）されるかもしれないが、死（し）んで済（す）むならそれまでのことだ。

　鎌（かま）足（たり）の案（あん）では、決（けっ）行（こう）の時（とき）は六（ろく）月（がつ）某（ぼう）日（じつ）としてある。夏（げ）至（し）を過（す）ぎたこの時（じ）季（き）、宝（たからﾉ）王（み）女（こ）は倉（くら）梯（はしﾉ）宮（みや）に行幸（みゆき）している。倉（くら）梯（はしﾉ）宮（みや）は夏（なつ）の行（こう）楽（らく）に使（つか）われる王（おう）室（しつ）の別（べっ）荘（そう）で、王（おう）宮（きゅう）よりも警（けい）戒（かい）が緩（ゆる）い。しかも石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）が入（いる）鹿（か）の下（した）請（う）けで、倉（くら）梯（はしﾉ）宮（みや）の衛（えい）兵（へい）を手（て）配（はい）することになっている。

　豊（ふ）璋（しょう）から百済（くだらﾉ）国（くに）を代（だい）表（ひょう）して宝（たからﾉ）王（み）女（こ）へ、暑（しょ）中（ちゅう）見（み）舞（ま）いに蜂（はち）蜜（みつ）を献（けん）上（じょう）するということにする。鎌（かま）足（たり）と子（こ）麻（ま）呂（ろ）、網（あみ）田（た）は、檐（つば）が寛（ひろ）く背（せ）の高（たか）い百済（くだら）流（りゅう）の帽（ぼう）子（し）を被り（かぶ）、豊（ふ）璋（しょう）の供（とも）仕（づか）えを演（えん）じる。石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）が豊（ふ）璋（しょう）の代（か）わりに、上（じょう）表（ひょう）を読（よ）み上（あ）げる。入（いる）鹿（か）は大（おお）臣（おみ）の名（みょう）代（だい）として宝（たからﾉ）王（み）女（こ）に供（とも）をするから、その場（ば）に出（で）て来（く）る。

　石（いし）川（かわﾉ）麻（ま）呂（ろ）の朗（ろう）唱（しょう）に皆（みな）が耳（みみ）を奪（うば）われている隙（すき）に、鎌（かま）足（たり）が合（あい）図（ず）をすれば、子（こ）麻（ま）呂（ろ）と網（あみ）田（た）が入（いる）鹿（か）を斬（き）り棄（す）てる。内（だい）裏（り）では人（ひと）は剣（けん）を脱（ぬ）ぐことになっているが、豊（ふ）璋（しょう）には王（おう）族（ぞく）に対（たい）する礼（れい）として、帯（たい）刀（とう）のまま入（はい）ることが許（ゆる）されているので、それを使（つか）うのである。そこで中（なかノ）大（おお）兄（えノ）王（み）子（こ）が現（あらわ）れて、宝（たからﾉ）王（み）女（こ）に対（たい）して、軽（かるﾉ）王（み）子（こ）に天（てん）王（のう）の位（くらい）を譲（ゆず）るように迫（せま）る。

「何（なに）すれぞ吾（われ）にこそ譲（ゆず）らせぬや」

　と中（なかノ）大（おお）兄（え）は不（ふ）満（まん）を言（い）う。鎌（かま）足（たり）には考（かんが）えがある。

「軽（かるﾉ）王（み）子（こ）は王子（きみ）の叔父（おじ）なり。然（しか）るを越（こ）えて尊（とうと）き位（くらい）を践（ふ）みたまわば、人（ひと）の長（かみ）を恭（うや）まい遵（したが）う心（こころ）に違（たが）わむ」

　しばらくは軽（かるﾉ）王（み）子（こ）を立（た）てて人（ひと）の望（のぞ）みに叶（かな）えば、また可（よ）いではないですか、と鎌（かま）足（たり）は学（がく）問（もん）じみた理（り）屈（くつ）で答（こた）える。可（よろしい）、と中（なかノ）大（おお）兄（え）は鎌（かま）足（たり）の案（あん）を聴（ゆる）した。

　軽（かるﾉ）王（み）子（こ）は、中（なかノ）大（おお）兄（え）と鎌（かま）足（たり）の企（くわだ）てを知（し）らなかった。夏（なつ）六（ろく）月（がつ）十（じゅう）二（に）日（にち）、まだ暑（あつ）い夕（ゆう）方（がた）に、古（ふる）人（ひとノ）大（おお）兄（え）が小（お）足（たらし）媛（ひめ）の家（いえ）に駆（か）け込（こ）んで、

「韓（から）人（ひと）、入（いる）鹿（かノ）臣（おみ）を殺（ころ）しつ。我（わ）が心（こころ）痛（いた）し」

　と訴（うった）えた。小（お）足（たらし）媛（ひめ）は軽（かるﾉ）王（み）子（こ）の妃（きさき）である。小（お）足（たらし）媛（ひめ）は人（ひと）を遣（や）って軽（かるﾉ）王（み）子（こ）の宮（みや）にこのことを報（しら）せた。軽（かるﾉ）王（み）子（こ）はままならぬ片（かた）脚（あし）を輿（こし）に委（ゆだ）ね、古（ふる）人（ひとノ）大（おお）兄（え）を伴（ともな）って、嶋（しま）殿（どの）へ急（いそ）がせた。中（なかノ）大（おお）兄（え）や鎌（かま）足（たり）は、肉（にく）を毟（むし）り喰（く）った犬（いぬ）のような顔（かお）をして、嶋（しま）殿（どの）に還（かえ）って来（き）た。子（こ）麻（ま）呂（ろ）と網（あみ）田（た）とかいう二（ふた）人（り）は、着（き）物（もの）を血（ち）に濡（ぬ）らして、首（くび）桶（おけ）を手（て）に提（さ）げている。紅（あか）い月（つき）が昇（のぼ）り始（はじ）めた。

「知（し）らず、何（なに）ごとかありつるや」

　軽（かるﾉ）王（み）子（こ）は縁（えん）側（がわ）に足（あし）を投（な）げ出（だ）して、中（なかノ）大（おお）兄（え）と鎌（かま）足（たり）を呼（よ）び付（つ）け、やや叱（しか）るように問（と）うた。よく看（み）ると、二（ふた）人（り）の着（き）物（もの）にも点（てん）々（てん）と、生（なま）々（なま）しい血（ち）の粒（つぶ）が著（つ）いている。中（なかノ）大（おお）兄（え）は答（こた）える。入（いる）鹿（か）が朝（ちょう）廷（てい）にあって奸（かん）邪（じゃ）をなすのでこれを討（う）ち、母（はは）には軽（かるﾉ）王（み）子（こ）が王（おう）位（い）を継（つ）ぐことを認（みと）めさせた、と。そして一（ひと）つの古（ふる）びた紫（むらさき）色（いろ）の小（こ）袋（ぶくろ）を差（さ）し出（だ）した。

　それが、

〔倭（わ）王（おう）之（の）印（いん）〕

　というものであることは、軽（かるﾉ）王（み）子（こ）には開（あ）けずとも察（さっ）しが付（つ）いた。手（て）にするとずっしりと重（おも）みがある。中（なか）のものには、黒（くろ）ずんだ血（ち）の痕（あと）が残（のこ）っているはずだ。それはかつて炊（かしき）屋（や）姫（ひめノ）尊（みこと）が玉（ぎょく）座（ざ）を奪（うば）うために、あの倉（くら）梯（はしﾉ）宮（みや）で、長谷部（はつせべノ）王（おおきみ）を殺（ころ）させた時（とき）のものなのである。

　それほどこの母（はは）のすることが気（き）に入（い）らぬなら、汝（いまし）らの好（す）きに国（くに）を治（おさ）めてみるが良（よ）い、ただし天（てん）王（のう）とは称（しょう）させぬ、と宝（たからﾉ）王（み）女（こ）は言（い）って、倉（くら）梯（はしﾉ）宮（みや）の奥（おく）から、その金（きん）印（いん）を出（だ）して来（き）たのだと、中（なかノ）大（おお）兄（え）は謂（い）った。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）はもとより、女（じょ）帝（てい）と仏（ぶっ）教（きょう）の匂（にお）いが強（つよ）い、この天（てん）王（のう）という称（しょう）号（ごう）が好（す）きではなかった。倭（わ）王（おう）という方（ほう）がまだしも、古（ふる）臭（くさ）さはあるとはいえ、男（だん）性（せい）的（てき）で好（この）ましい。だがそれよりも、律（りつ）令（りょう）という文（ぶん）明（めい）的（てき）な制（せい）度（ど）を象（しょう）徴（ちょう）する、

「皇（こう）帝（てい）」

　というものに軽（かるﾉ）王（み）子（こ）を仕（し）立（た）て上（あ）げ、自（じ）分（ぶん）がその二（に）世（せい）になろうというのである。それが鎌（かま）足（たり）の計（けい）算（さん）なのであった。

　ああ何（なん）と悪（あく）々（あく）しいことをするのか、と軽（かるﾉ）王（み）子（こ）は思（おも）った。あの政（せい）治（じ）的（てき）意（い）欲（よく）と才（さい）能（のう）に恵（めぐ）まれた姉（あね）が、このまま引（ひ）き下（さ）がるとは考（かんが）えられないし、自（じ）分（ぶん）には姉（あね）と争（あらそ）うほどの精（せい）力（りょく）がとてもありはしない。そんなことをするより、脚（あし）を労（ねぎら）って安（あん）穏（のん）に暮（く）らしていたいのだ。こんなものは古（ふる）人（ひと）にでも渡（わた）せば良（よ）いではないか。