踊る殺意

 すうげつあいだかまは、まりかいなかノおおえノめられたといういつとともに、いささかなかこえるようになった。それでかまはいくらかかたはばひろくなったようなおもいをあじわうことがた。はんめんうえからはよりきらわれるようになったとかんじる。なかでもあのがノいる鹿などはひときわこのかまねたんでいることであろう。

 そこで、

 ――いつかは入鹿いるかめを殺さねばならじ。

 とまでおもめるようになったのは、あきがつのことがきっかけであった。


 このときたからノはは、つまりなかノおおえノたる、びツひめノかいした。それでたからノなかノおおそうそうれいさんれつするようにめいじた。なかノおおはははんぱつしている。しょうはそのこくおどかしているりんごく新羅しらきじょおういただいていることもあり、じょせいせいることをにくんでいて、なかノおおどうじょうはげます。なかノおおかまないとった。

 かまなかとみノむらじとしてのしょくしょうから、おうしつれいてんしっこうするにんたらねばならない。ひつぎまいのうするとうじつは、あさからつめたいあめがしとどつづけ、ときあられじるというれたてんであったために、しきゆうがたまでとどこおっていた。しきだいたからノはつあんによって、むかしからのほうぶっきょうしきわせにした、しんほうしきくわだてられていた。

 黒雲くろくもおおわれてくらそらしたに、さちにょらいぞうかがりらされて、ひとびとながめていた。

 ひとびとなかに、おおおみらしくおうよう姿せいある入鹿いるかる。

 ――ころさねばならぬ。

 そのせつ、そうおもった。あれがおおおみになってしまえば、もはやこのかまきるみちくなる。われきるにはかれなねばならない。ぜんいんでもあって、そんなえんになっているにちがいないのだ。

 入鹿いるかをそれとさとられぬようにった。まだあめこぼれていて、みなかさかぶっているから、かおだれわかりにくい。入鹿いるかおうぞくらしいかさあたまげた。ふるひとノおおえノらしい。すこはなれているので、こえりにくい。みみましていると、

ねずみあなかくれてき、あなうしないてはぬと」

 とふるひとノおおったところだけが、なんとかこととしてみみはいる。なんなのかはわからない。そこでふとまわりのひとになり、そのからはなれた。


 ふゆじゅうがつとおかま飛鳥あすかからきたのぼって、斑鳩いかるがかった。いかるがでらことほうりゅうとなって、いかるがノみやがある。ここはもともとしょうとくたいみやで、いまやましろノおおえノそうぞくされている。そのしきまわりにはこのがたから、ものものしくほこかかげたへいはいされていた。ほうかたたいしょうは、かるノだということになっているが、あしやまいのためにしゅつもせず、がノえみしノおおおみい、おおおみやまいしょうしていえもり、じっさいには入鹿いるかぐんばいにぎるものとこえている。

 このたいげんいんは、がつそうそうれいにあった。そのときやましろノおおなにしったいがあって、たからノれることとなったらしい。かまはそこでなにがあったかはらない。だがかつておかもとノてんのうおうあらそたちにあったあいを、たからノけいかいしていることはだれにでもすいさつできることである。けんりょくにぎってしまえば、ひとまっさつするためにつみうたがいをつくるなど、かんたんなことなのだ。

なにをしにつるや。いましはいるべきところにはあらぬぞ」

 うまうえからしたかって、ほうがたじんちかいたかまを、そうしかってめたのは、せノとこだノおみである。せノおみといううじは、がノおみえんちかく、そのゆうとうしている。

なかノおおえノみこともちて、いくさしめたまうによりてくだたる」

 ぶんもったいなくもなかノおおである。だからとうぜんじんなかかみしょうじられるべきだ。

なにわめきおるぞ。いまし身分きわによりて、それなりのところね」

 とこかましゅちょうなどかいさず、かるくあしらう。かまいてあらそいはせず、フンとはならして、きびすかえす。くちげてじんちかくをうろうろしていると、みなみからじんらしいうまじゅうしゃいっこうが、ゆるゆるとすすんでるのをる。入鹿いるかだ。いきひそめてよううかがい、そのおくった。

 かまはそのままいかるがノみやまわりをあるきながら、じんうごくのをった。入鹿いるかは、かたむいてそらあかくなっても、みやをただにらんでいるようだった。

 やましろノおお入鹿いるかとは、ははかたとおして従兄弟いとこあいだがらで、ごころれたなかだとう。入鹿いるかとしては、やましろノおおちにくかろう。あるいはやましろノおおかつし、かえってたからノやいばけることもかんがえられぬではない。入鹿いるかにとっておうぞくにはもうひとふるひとノおおという従兄弟いとこがある。ふるひとノおおなかノおおあにだとはいえ、ほかきさきであることから、たからノにはうとまれているとく。もし入鹿いるかやましろむすび、ふるひとてば、たからノからじっけんうばうことはゆめでもなさそうにおもえる。

 ところがそのうち、いかるがノみやからがり、あれよというあいだしきいた。入鹿いるかほのおたいしても、こまねいているようであった。やましろノおお姿すがたわれてあらわれることはかった。うちからたのか、そとからはなたれたのか、られなかった。かまみやきるのをて、みなみあるした。じょうげんつきてんらしている。


 かま高市たけちいえかえったのは、けというにもあさちかときになっていた。やツこはしためなどは、しゅじんって、あかりをともしている。せいぼうたかかったしょうとくたいあとぎだけに、やましろノおおのことはだいにならないではない。いかるがノみやなにがあったのか、きたがっているのがかんじられる。

 きしたことをおしえてやろう、というになる。しかしまあ、たからノけんりょくかためるためにやましろノおおころさせた、というのでははなしとしておもしろさにける。それではあまりにげんじつてきだ。そうだ、ふるひとノおおやましろノおおあいだかくしつがあったということにしてはどうであろう。どちらもけたおうであり、いる鹿をもんだこつにくあらそいとあればきょうかずにはおくまい。

がノいる鹿かノおみの、ふるひとノおおえノててきみとせむとして、いかるがノみやおそいけること」

 として、ものがたりをはじめる。入鹿いるかせノおみなどをけると、みやからはやツこなりなるものが、舎人とねりじゅうにんあまりとともにふせぎ、ゆうかんたたかった。入鹿いるかがたじノばノむらじなにがしが、なりあたってんだ。せノおみおそ退しりぞいて、

ひとひとなみとはなりうか」

 とった。もしないことがくちからる。われながらしたなめらかなことにおどろきつつ、まかせにつづける。そこで入鹿いるかせノおみめいじてはなたせた。やましろノおおうまほねってどこき、きさきいくにんかのじゅうしゃひきいて、すきし、こまやまかくれた。入鹿いるかはいなかほねいだし、あやまってやましろノおおんだとおもって、かこみをいてった――。

 さあやましろノおおやまでいかがなされるやらと、うわさきなものたちはささやって、けまでひとやすみをった。

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