世代の断層

 さいのあったおかもとノみやけて、あらたにてられたばかりの百済くだらノみやで、そのせいだいじゅうさんねんふゆじゅうがつここのてんのうにわかやまいおこしてこんじょうえた。かまからみてじゅういちねんほどしたなかノおおえノは、かぞえてじゅうろくさいになっていた。

どりしんすることし。どりしんすらくは、これいえほころびならむ」

 とか、

婦人おみなまつりごともはらにせば、くにしずまらず。どりしくかば、あるじさかえず」

 といったしょもつところを、ここはどういうことかけと、なかノおおはこのごろ、亟々しばしばかまめいじている。

 このときたって、おうけいしょうこうにんあった。ひとやましろノおおえノで、じんぼうたかいものがあるとはいえ、かつておかもとノてんのうくらいきそたちり、そのけんゆずって退しりぞいたことがかげとしていた。もうひとかるノだが、やはりあしやまいがあることでとみられている。ふるひとノおおえノは、てんのうではねんちょうではあったが、ほほてノ郎媛いらつめはらまれたことで、たからノうとまれているらしい。なかノおおえノてんのうたからノちょうではあるものの、まだとしがゆかぬというてんよわみがある。


神代かむよより れば ひとさわに くににはちて あじむらの 去来かよいけど うる きみにしらねば ひるるるまで よるくるきわみ おもいつつ がてにと かしツらくも ながきこの

 

 こんなうたが、たからノがひっそりとしたおうきゅうよいうたったものとして、されたとしけである。それはほんとうであるかどうかからない。おういたままで、たからノしばらせいっている。そのままおうけんにぎるつもりだ、といううわさかげささやかれるのを、ひとびとがただもありなんとめるなかで、がくもんによくしたがものだけが不快こころよからおもっている。

どりしんすらくは、これいえほころびならん」

 めすにわとりおすわってあさげれば、そのいえにはくないことがあろう、というなかノおおかえむ。ちちのこしたものをははうばおうとしている、とうったえるのだ。かまたいするしたしみをこのおうかくさない。ろうきょうにあるそうみんしょうあんよりずっとわかいことが、なかノおおたいするかまいんしょうきょう調ちょうしていた。

「それどりのただしくくにしも、なおいえほころび、さかえずということばあり。いわんやいんようたいえ、めいじつわりあらたむるとは、これまことおおきになり」

 かまかえし、んでおしえる。


 このとしには、はるさんがつからなつがつにかけてはながあめがあり、なつろくがつからあきしちがつにかけては旱魃ひでりつづくというさいやくがあった。がくもんによれば、こうしたへんいんよう調ちょうみだれることによってこる。いんようみだれは、ひとにはびょうとしてあらわれることがある。

 かまちちは、このなつわりににわかし、ふたたたぬひととなった。

「けだしおおきみもツともされるところとなりけむ」

 と、叔父おじくにって、おくった。なかとみノむらじこノかみは、によってあとぎが、ついにめいされなかったので、ならいにしたがってくにのものとなった。

 そうそうれいの、どおしのしきに、わびしくいていると、うじというきずなとらわれているおのれを、あらためて甚大いたかんじさせられる。かまというも、ちちせんからってけたのだということを、おもわせる。このはわがうじしばけるじゅのようだ。

 このしばりからけたい、けたいとおもっているのに、しゅっもしないし、うみわたることもずにいる、このぶんとはいったいどんなそんざいなのであろうか。かまおもう。もしもっとたかうじまれていれば、こんなことはかんがえなかったのであろうか。

 かんがえてみれば、うじというのはおのおのぜったいてきけをっているわけではなかろう。がノおみだって、むかしかづらきノきみしたがしょうぞくぎなかったとうではないか。それががりものになり、あのもののべノおおむらじさえもしっきゃくさせて、いまゆいいつおおおみとなっている。だからこそ、そのほかぞくおとしめられているのではないか。がるものがあるから、それだけしずものもあるのだ。


やまとなる しのひろを わたらむと づくり こしつくろうも


 といううたは、ひろがわわたろうという、そのじゅんうたったぞくようぎないのだが、がノえみしノおおおみがこれをとくげてうたった、それはなにやらのあることだといううわさこえる。それはほんとうらしくもないとしても、はなしおもしろさをこのむようなひとびとくちにはのぼっている。

 おおおみがそのうじはかいとなむのに、かつてしょうとくたいかしきひめノみことよりたまわったりょうみんを、おうりょうして使つかっているといううわさもある。それはしょうとくたいむすこであるやましろノおおえノかたれするがわからているらしい。じっさいには、やましろノおおみずからいして、そのりょうみんおおおみやしなわせているのだともわれる。


 あきしちがつわりに、ひでりんであめきざしがあり、はちがつになるとさめくにうるおして、おおくのひとよろこばせた。こんあめは、ほどよくいつしてやんだ。うわさでは、これはたからノみなぶちかわかみでまして、てんあめいのったことのこうげんであるとう。そのことがつたわると、だれくちからともなく、くにきみたるべきとくありとして、たからノとうとしょうして、

のちノおかもとノてんのう

 とこえがってる。たしかにたからノけんりょくしょうあくすすめている。

 ときに、

どりしんすらくは、これいえほころびならむ」

 というを、なかノおおがとうとう、たからノめんかってったとか、ということがひとびとささやこえなかこえる。そのけんそうみんだらノみやしをらったので、それがうわさでないとは、かまたしかにったのであった。なかノおおは、がくもんがまだはんだとして、じょうじゅするまでほうこうめと、そのははからめいじられた。


すみし わがおおきみの あしたには たまい ゆうべには いたしし らしの あずさゆみの かなはずの おとすなり あさりに いまたすらし くれりに いまたすらし らしの あずさゆみの かなはずの おとすなり


 おかもとノてんのうそうそうれいが、ようやくこのふゆじゅうがつおこなわれることがまり、そのせいしのうたが、ひとびとくちのぼる。このうたうわさによればいまよりろくねんまえてんのうりをもよおしたさいに、なかノおおけんじたものだとう。かまなかノおおがまだおさなぶんに、こんなうたつくったとはらない。よりたしかなすじからいたところでは、はしひとノむらじおゆというものが、ちかごろんだものだとする。それもほんとうかどうかはからない。うわさというのは、すべてこのたぐいなのであった。

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