ドネーション

茶碗虫

本文

 夕立は激しさを増して、しきりに窓をたたく。曇った窓からのぞく外は、全体的にグレーがかった色をしていて、雲は分厚い。7月中旬の関東は、このような天気が続いている。

 街のはずれの一軒家には、私の母方の祖父が住んでいる。祖母は数年前に亡くなって、1人で暮らしている。もう90を過ぎたこともあって、私の母は、しばしば様子を見に行っている。

 だから、今日みたいに、くたくたになって帰ってくる。


 母の服はわずかに雨に濡れていた。おそらく傘でも防げなかった雨粒が数滴落ちてしまったのだろう。母は濡れた肩のあたりを一瞥したが、気にしていないかのような顔をして、その上着を脱ぎ捨ててキッチンに直行した。


「またケンカしたの」


 興味はなかったけど、知っておかなければならないことだから、ソファに腰かけてテレビを見ながら私は一応尋ねておいた。

 キッチンのほうから、ずいぶん低い声が返ってきた。


「お父さん、まだ言ってるのよ。俺の金は俺の自由だろ、って」


 母と祖父は、こうやって、お金のことで揉めている。祖父の意見をまとめると、「まだ俺は生きている、つまり、俺の金は俺の判断で使うことができる。俺はそれを、がん研究の団体に寄付したい。妻みたいに死ぬ人を減らすために」とのこと。

 対して母は、「顔も知らない人に全財産を与えるとは信じられない。もっと現実的に、いま私たちが生きるために使うお金を確保すべき」とのことだった。

 そんな口論が始まったのがおよそ一週間前。


 私も、ずっと考えている。

 正直、私は結論を出せないと思う。そもそも最終的な結論を出す権利はないのかもしれない。でも、いざ自分が母の立場になったら、とか、祖父の立場になったら、とか、そういうことを考えるのは自由だ。


 祖父の主張はとても人道的というか、絶賛されるべきふるまいである。自分はもうすぐ死ぬから、そのお金は有意義に使われるべきだ、といいたいのだ。

 対して母の主張もわかる。現実的な、いわゆる地に足をつけた思考。


「支援をしない」ことが、そのままその人を「非人道的だ」と批判する材料になり得るかと問われれば、私はノーと言うだろう。人間、だれしもが生涯でとんでもない量のお金を稼げるわけではない。自分が生きるための、あるいは愛する人やその人との間に生まれた新しい家族を生かすためのお金を稼ぐので精いっぱいなのだ。それは仕方のないことであるし、理解の余地があることだろう。


 では人間だれも他人にお金を使う必要がないのかと訊かれれば、そうではない。現に、格差という問題が世界で議論されている。アフリカの人々の話だったり、ホームレスの話だったり。つまり、私や母が今生きているのは、「ラッキーだった」からなのかもしれない。だとしたら、そんな人間は、だれかを助ける義務がある。見返りを求めない援助をする必要があるのだ。


 今、母は、「絶対に自分は祖父よりも長生できる」と思っていることだろう。きっとその慢心は、私にもある。そんな保障はどこにもないのに。ある日突然がんが見つかって、突然余命宣告されることだって、絶対にないとは言い切れない。

 もし私たちががん団体に寄付をすれば、助かる命があるのかもしれない。もちろん、寄付をしたからといって、がんの研究が格段に進んで、だれもがんで死ななくなるという保障もない。結局何の進歩もなく、無駄なお金だった、となる可能性もなきにしもあらず。


 結局、こんな議論をするときは、ほとんどが仮定の話になる。どっちが正しいわけでも、間違っているわけでもない。もっと言えば、どっちかが正義で、どっちかが悪であるなんていう構図でもない。必ずしも正論の反対が間違っているというわけではないのだ。


 神様は正解を知っているのだろうか。どっちが正しくて、どっちが間違っているのか。あるいは、どっちのほうがより効果的なのか。神様だけが知っているのかもしれない。


「ほら、ごはん冷めちゃうよ」


 キッチンからため息交じりの母の声が聞こえた。ふと机の上を見たら、いつの間にか夕食を乗せたトレーが置かれていた。


 何かを考えていた気がしたけど、すっかりおなかが減ってしまっていたので、何も思い出せなかった。私はソファから腰を離して、ごはんの前に座る。目の前に置かれた箸を右手で持って、小声で「いただきます」と言った。そんな小声も母には聞こえたみたいで、「どうぞ」と返事をする。気づいたら、さっきまでの低い声は息をひそめ、いつもの声に戻っていた。


 不思議な違和感を感じて、窓のほうを振り向いた。

 夕立は嘘のようにやんでいた。

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ドネーション 茶碗虫 @chawan-mushi

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