第十二話 個展「未完」②
ワンピースの女性が去った後も、入れ替わりで二、三人ほどが個展に足を踏み入れた。どこかで絵を見たことがある人だったり、旧来の懐かしいOBやOGもいたり、何気なく目に留まった看板で興味を示してくれた人だったり。理由は様々だったけれど、少ないながらも私のことを記憶の片隅に置いてくれていた人や、興味を抱いてくれた人がいたことが、嬉しかった。
数少ない部数の画集はまだ半分くらい残っている。誰もが買っていってくれるわけではないが、それでも、予想以上に手に取ってもらえた。
「今日、やってみてどうよ」
隣で幸江が聞いてきた。目の前で、私の飾った未完の絵を眺め、それぞれがそれぞれの咀嚼の仕方をしている。その光景を眺めながら、私は膝においた両手をぎゅっと握りしめ、自然に胸の内に湧いた言葉を口にした。
「良かった」
「そう、それは良かった」
「ねえ、幸江」
「何?」
私は一瞬口を閉じた。言っていいのだろうか。でも、言わないといけない。深く息を吸ってから、再び私は口を開く。
「絵を辞めた理由って、私なの?」
「なによ突然」
幸江は眉根を寄せて私を見つめる。私は構わず続ける。
「さっき、そういう話をしてたから。私がいなかったら、絵を続けてたって。それがちょっとだけ気になったの。ねえ、そうなの?」
「こんな時にする話じゃないと思うんだけどな。私が口を滑らしちゃったのは謝るから、今日は個展がそれなりにうまくいきましたって感じで綺麗に終わらせられない?」
私は首を振る。
「今聞きたい」
「アンタって、頑固なとこあるよね。まあいいけどさ、あんまり良い話じゃないよ」
額に手を当てて困った顔を浮かべる幸江に向けて、私は頷いた。
彼女は額に当てていた手を動かして頬杖をつくと、鑑賞する人たちを眺めながら、「羽美のせいよ」と言った。
「私はそれなりに描けるほうだってずっと思ってた。将来は絵で食べていってやろうって漠然と思ってたし。だからそういう進路に進むことを中学くらいの時にはもう決めてたし、教室に行って技術も磨いて、自分に自信を持ってた。ねえ、覚えてる? 入学したての頃に初めて互いの絵が並べられた日のこと」
幸江は懐かしそうに遠くを見つめて微笑んでいる。
「評価は私のほうが上だった。なのにね、私は隣の羽美の絵を見てやられちゃったの。作法とか技術とかそういうのじゃない、なんていうんだろう、見方が違う人がいたことに。どっか外れてる人の絵を見た時、評価ってなんだろうって分からなくなった」
あの日、幸江の絵はとても綺麗だった。サイズ幅一杯に色彩と視界をまとめることができる人で、無駄がなくて、私はとても感動した。引っ込み思案だった自分が、興奮のあまり講義の後に思わず声をかけたくらい、幸江の絵に見惚れた。
「最初に良い絵だって言われた時、イヤミかと思ったの。変な話よね、私のほうが評価貰えたのに、私の中では羽美に負けたって感じてたんだから。思い返したら、あなたの言葉は純粋に喜んで良いものだったはずなのに」
ひどく侮蔑されたというような目で私のことを睨んだあの日を、幸江が自分の目線から語っている。
「それから、描いても描いても、評価されても、隣でそんなこと気にすることなく自分の世界を構築して楽しむあなたのことばかりが気になった。一緒に行動するようになってからも、心の内ではあなたと私で一体何が違うんだろうってずっと思ってた」
来訪者が画集を買って去っていく。階段の軋みが二つ聞こえて、入れ替わるように高齢の男性が入って周囲を眺め、私たちに気がつくと小さく会釈をしてくれた。
「羽美に責任はないよ。でも、そうやって長い間隣で描いているうちに、私は違うんだって思った。勘っていうのかな。私はこれ以上逸脱できないって思った。それが、私が道を決めた瞬間」
まばらな人びとの隙間からちらり、と一枚の絵が見えた。幸江が描けてるのにと言った絵だった。当時の私はこれを全然駄目だと言った。何一つ出来ていないと。その想いは今も変わらないけれど、周りはその絵を見て楽しんでくれている。どんな感想を抱いているのかは分からないけれど、少なくともそれを一つの「作品」として見ている。
「私ね、羽美に会わなかったら良かったのにって、何度も思ったことがあるの。今も時々思う」
「私と?」彼女は頷く。
「そうしたら、何も知らず、何も悩まず、絵を描けたと思うから。それはそれで幸せだったと思う。勿論、今も隣にいてくれる人を見つけて、毎日を当たり前のように過ごして、羽美とか双子ちゃんと遊べて幸せよ。でも、それとは全く別の幸せのあり方もあったのかなって思うとね」
「私と会わなければ」
「道を決めるのなんて、その人次第なんだけどね」
幸江は肩を竦めて笑ってみせた。
「ねえ、羽美は絵をやめないでね」
「どうして?」
「ずっと恨ませてほしいから。あなたがいなかったら違う道があったのにって、ずっと思っていたいから」
勝手なことだけど。幸江は呟くように付け足すと、画集を手にやってきた高齢の男性と購入のやり取りをした。彼女らしい人の良さそうな明るい笑顔で男性にお礼を言って画集を渡す。
「この絵を描いたのは、あなたですか?」
「私は売り子です」
高齢の男性は私に視線を向ける。綺麗な白髪をオールバックにした体格の良い人だった。顔には長い仕事で着いたのか、目元に笑い皺が見える。彼がどんな表情を一番浮かべてきたのか、顔に刻まれた皺でなんとなく分かった。
「ネットで見た少女の絵が気になって思わず来てしまいました。あの、【舞台の上】と並ぶ絵です」
遥ちゃんの薦めで掲載を決めた絵だ。似顔絵を大多数に公開していいものか悩んでいた時に本人に訪ねたところ、絶対に見せるべきだと推されて載せたのだ。
「あの絵、タイトルはなんて言うのですか。画集の中にも、どこにも載っていませんでしたので」
そういえばつけていなかった。なんとなく自分の中で似顔絵と呼んでいた。さて、どうしようと幸江を見ると、彼女は「本人につけてもらえば」と部屋の奥を指さす。さされた指に気が付いた遥ちゃんが、なんだろうと首を傾げながらこちらにやってくる。
「呼んだ?」
「ほら、あなたの似顔絵、タイトルついてないじゃない。何かいいのないかしら。こちらの方がとても気に入ってるのよ」
遥ちゃんと似顔絵を見比べて、驚いたようにしばらく見つめた後、彼は穏やかな表情に戻ると小さく会釈した。彼女も温かな笑みで彼を迎えると、腕組みをして思考を巡らせている。
「遥でいいんじゃない」
「そのまま?」
「うん、そのまま」
遥ちゃんはきっぱりと言うと、男性に向き直り、お辞儀をする。
「その絵を好きになってくれて、ありがとうございます」
「ええ、こちらこそ素敵な絵に出会えました。モデルの方にも出会えるとは思いませんでしたからびっくりしました」
彼は遥ちゃんにお辞儀を返した後、再び画集に目を落とすと、画集の中の「遥」をそっと指で撫でた。
「淡いタッチの中に色んな感情が見えました。等身大をそのまま切り取ったような空気感がとても良かった。はじめは娘が見ていた絵だったのですが、いつの間にか私がこの絵に引き込まれましてね。生憎娘が来られませんでしたので代わりに。でも、代わりに来れて良かった」
男性が去っていく階段の軋む音を聴きながら私たちは彼のことを見送った。
「ねえ、改めて言わせて」
「何?」
「私に、恨ませて。ずっと、恨ませて」
幸江を見る。彼女は私を見ていた。笑うことも泣くことも、怒ることもなく、ただじっと見つめていた。彼女の瞳の中に映る小さな自分が頷いた。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん、好きなだけ恨んで」
それが私たちの約束。幸江と私たちの関係は、これでいい。
双子が帰り、鑑賞者もほとんどいなくなった夕暮れ過ぎに、降秋さんはやってきた。
白髪混じりの髪は整髪料と櫛で固められ、ストライプのボタンダウン・シャツにグレーのジャケットを羽織り、よく磨かれた革靴を履いている。いつもの外行きの格好を見て私はそういえば、ヨルベさんには来てもらえなかったなと思った。お誘いはしたけれど、彼女も何か予定があるのだろう。そもそも私と彼女は佳波多くんのピアノと、住居の斡旋を通して繋がっているだけの関係だから、私にはそこまで興味はないのかもしれない。
「素敵な個展ですね。全て幸江さんと羽美さんで準備を?」
「双子ちゃんたちも手伝ってくれましたから、実際のところ私たちだけではないですね。羽美はこういうの全然駄目な子ですし、大変でしたよ」
「幸江はすぐにそういうことを言うんだから」
「なによ、本当のことでしょ。私と二人がいなかったら、今頃この個展の会場すら取れてないんだから」
確かに、それはそうなんだけれども。私は言い返すことができず押し黙ってしまう。
「この場所は幸江さんが見つけたんですか」
感心したように周囲をぐるりと見回す降秋さんに、幸江は首を振る。
「ずっと、この場所に羽美の絵を飾りたかったんです。テーマとか、内容の構想は当時とは全く変わってしまいましたけど、飾れて良かったです」
「羽美さんは、どうですか」
「私、ですか」
「個展開いてみて、どうでしたか」
降秋さんの目は変わらない。全てを見透かすような、何も見ていないような、奥さんのことだけを見つめているような、哀しげな目だった。きっと、ここにあるどの絵をもってしても、彼は救えないんだと私は思う。あの男性が「遥」を見て衝動的にここにやって来たように、彼も私の絵で救えたらいいのに。
「今度は、未完なんてテーマを付けないでやりたいなって思います」
降秋さんの目を真正面から見据える。彼はずっと探るような目のまま私を眺め、やがて目を細めるとうん、と頷いた。
「そうですか」
「だから、まずは個展の後の一作目をちゃんと完成させます」
「海の絵、ですか」
私は頷く。
「降秋さん、付き合っていただけますか」
その問いに、彼は二つ返事で答えてくれた。隣の幸江に目をやると、彼女は羨ましそうに目を細め、微笑んでいた。
「黄昏と小屋の絵、残しておけば良かったね」
幸江はやっぱり覚えていたんだ。衝動的に捨ててしまったあの絵を。【未完】のきっかけとなった絵の記憶は、私と幸江の中にしかない。だから、この気持ちは、私たちでしか分かつことができない。
「今見たら、羽美はどう思うんだろうね」
「分からないけど、あの絵のおかげで、今の私はあるよ」
そうだね、と幸江は笑った。
「羽美さん、私の我儘を、どうかよろしくお願いします」
降秋さんは私に深く頭を下げる。慌てて立ち上がった後、私は深呼吸をしてから、お辞儀をする彼を見下ろす。あんなに大きく見えた人が、今は小さく感じる。こんなにも寂しそうな背中をしている人だっただろうか。
「精一杯描きます。その出来がどうであれ、あなたの為に、描かせてください」
私から言えることはそれだけ。
感動とか、満足とか、救うとか、売れるとか、そういうことを考えられるほど私は器用じゃないから。
貴方の覗く光景と、私が描きたい絵が合致していますように。
ただ、そう願うのみだ。
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