第十二話 個展「未完」①
八帖ほどの小さな部屋を、私は片隅からぼんやりと眺めていた。
レトロ感溢れる家具とアンティークの小物で揃えられたフローリング仕立ての洋室と、レール越しに区切られた色褪せた畳の和室で構成された部屋だ。私はその部屋それぞれに絵を飾りつけた。自分の絵で構成された小さな展示会のあまりの現実味のなさに未だに私はここで起きている出来事を信じきれていない。全ての準備が終わり、和室の片隅に用意した小さなテーブルチェアに腰掛けている今ですら。
部屋に沿うようなL字型の廊下を進んだ先に階段を降りると玄関へ繋がっている。その階段から踏み抜いてしまいそうなほど大げさに軋む音がして、やがて幸江が姿を現した。彼女は私の隣に座り、大きなため息をひとつ吐く。
「玄関先も準備できた。あとは来るか分からないお客さんを待つだけ」
「来ないでしょ。随分活動してなかったんだよ。ただでさえ知名度も毛が生えた程度なのに」
「そうやって自分を卑下しない」幸江はテーブルに頬杖をつく。「学校でアンタの絵に見惚れてた人、沢山いるんだからね。それこそ、嫉妬するくらい」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
幸江は私を見て呆れたように笑う。
「羽美がいなかったら、私は今も絵を描いてたもの」
彼女の言葉に、なんて返したらいいのだろう。隣の幸江の表情は変わらず穏やかなままで、むしろ口の端を上げて微笑む余裕が見える。
「それにしても本当に家みたいな貸し部屋ね」
「安心感があるよね。学校の展示会なんかよりずっとリラックスできる」
大きく背伸びする幸江を真似て、私もぐっと体を伸ばす。無意識に緊張していたのか、ほぐした肩にじわりと血が巡るのを感じた。
「あ、羽美ちゃんと幸江さん」
軋む音とともにやってきた記念すべき一組目が私たちに手を振る。佳波多くんと遥ちゃんは、部屋の中を飾る絵をそれぞれ興味深そうに眺め、わあ、とかすごい、とか、そんなシンプルな感嘆の言葉を呟いている。幸江は席を立つと二人の鑑賞している洋室へ向かい、得意げに顔を綻ばせた。
「すごいでしょ、双子ちゃんたちが選んだのも、ちゃんと並んでるよ」
「額縁に入れると見え方が変わるね」
「でしょう、額縁は私が全部選んだ。羽美はその辺センスないからね」
幸江の自慢げな言葉に佳波多くんが声を上げて笑う。
「確かに。全然なさそう」
「こら、佳波多」
三人の談笑が、私には額縁に飾られた絵のように見えた。綺麗だな、絵に残したら綺麗なんだろうな。会話の内容は私についてなのに。何故だろう。そこに加わることができない。
みんな、吹っ切れた人だからだろうか。未だに何か、枷のようなものを引きずっている私からすると、家に戻ることを決めた遥ちゃんも、結婚を決めた幸江も、自分の進路を選んだ佳波多くんも、みんな輝いて見える。
「羽美ちゃん、このイラスト集も手作りなの?」
いつの間にか目の前にいた佳波多くんに気がついてわっと声が出た。不思議そうにする彼に、私は両手でなんでもないと制し、一呼吸置いて説明する。
「そう、データを幸江にまとめてもらって、印刷所で刷ってもらったの」
「へえ、綺麗に印刷できてるね」
そう言って彼は画集をめくった。表紙は、ピアノを弾く佳波多くんとスタンドマイクで歌う女子高生の二人に焦点を当てた【舞台の上】だ。あの、佳波多くんが好きだったアイちゃんは今、どうしているだろう。佳波多くんに想いは告げられたのだろうか。目の前で熱心に画集を覗き込む彼の真剣な眼差しを見ながらふと思い出したのは、あの子の歌声だった。
「二人とも、学校の友だちとか連れてきたら良かったのに」
洋室の壁に寄りかかったまま幸江は腕を組んでいた。
「誘ったんですけど、よくわかんないって言われちゃいました」
「俺も俺も。みんな、漫画とかライブは好きなのに、コンサートとか絵画とかになると途端に興味なくすんだよな。俺のコンサートにも来てもらえなかったし。学祭すげーとか言ってたくせに」
「アイちゃんは?」
私の迂闊な言葉に奥の遥ちゃんが困り顔を浮かべたのが見えた。佳波多くんは複雑そうな顔を浮かべた後、ぎこちない笑みを作ると画集を閉じる。
「予定あるみたいで、駄目だったよ」
「そっか」
「あの日の絵を描いてくれた人がいるんだって伝えた時は、すごく興味あるみたいだったんだけどね」
佳波多くんは私の前のテーブルに画集を置くと、ポケットから財布を取り出す。
「二部だといくら?」
「え、そんな、いいよ別に。採算なんて考えてないし、二人には元々あげようと思ってたから」
「いいの、受け取ってよ」
彼の言葉に押されるように金額を伝えると、彼は二部を丁寧に鞄にしまった。
「あの子にも渡しておくよ」
「うん、よろしく」
私の勝手に書いた彼女を、気に入ってくれるといいな。
「じゃあ、私も貰うね」
遥ちゃんも財布を取り出す。お金を断ろうとあたふたする私に、彼女はいつもの優しい眼差しを向けると、私の手にそっとお金を握らせた。
「うちのお兄ちゃん、そういうとこ気にするから」
遥ちゃんはそう言って私にウインクした。
二人と話していると、階段の軋む音が聞こえてきた。降秋さんも後で顔を出すと言っていたので、彼かもしれない。彼がここの絵を見たらどんなことを思うだろう。こういう絵を描く私が、一体どんな約束の絵を描くのだろうと不安にならないだろうか。いや、元々何枚かをまとめた私のポートレートを見た上で契約しているのだから、今更そんなことはないと思うけれど。
やっぱり私は、降秋さんに絵を見られるのが怖い。それだけ、彼との約束に対して責任を感じてるのだろう。
やがて入ってきたのは若い女性だった。空色のワンピースにカーディガンを羽織り、ハーフアップでまとめた髪を指で掻きながら丸い眼鏡ごしに周囲の絵を観察している。幸江に目配せしてみたが、彼女は首を振った。知らない人だ。
この個展を知ることができる手段は今日の看板と、借家のオーナーが作っているウェブページの告知と私のSNSだけ。もしかすると何かしらを見て何気なく来てくれたのかもしれない。
それから少しして、二人組の男女や高齢の男性もやってきた。どちらも知らない人だった。
小さな私のプライベートな個展が、徐々に他者が介在する空間へと変わっていく。それまで会話に花を咲かせていた幸江も私の隣に戻り、双子たちも無言になった。
ワンピースの女性が、飾っていた自費制作の画集を手にしてこちらにやってくる。入ってすぐの【舞台の上】を特に見つめていたから気に入ってくれたのかもしれない。
彼女は私たちの姿を見て少し躊躇うような素振りを見せた後、気持ちがまとまったのか、画集をテーブルに出した。
「これ、ください」
その言葉を聞いて、胸の奥に熱が宿るのを感じた。自分の作ったものを求めてもらえた。買いたいと思ってもらえた。自分を、肯定してもらえた気がした。
「ここの絵って、全部未完なんですか?」
そういえば、テーマは「未完」だった。私が頷くと、彼女は不思議そうな顔を浮かべて周囲を見ている。
「どこが未完成なんだろうってくらい、完璧だと思います。もし未完だとしても、私は、その表現も含めて、とても好きでした」
「そう言って貰えるだけで嬉しいです」
「あと、また絵を描いてくれて、とても嬉しかったです」
顔を上げると、彼女は画集を抱きしめたまま、眼鏡越しに私に微笑みかけてくれた。数年放置していたアカウントに送られてきたメッセージを思い出す。おかえり、という言葉がむず痒くて、少し恥ずかしくて、嬉しかったあの日のことを。
「覚えていてくれたんですか?」
ワンピースの女性はきょとんとした顔のあと、照れ臭そうに言った。
「忘れませんよ」
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