第十一話 佳波多②

 勉強を無理やり切り上げさせた私は、駅前の小さなショッピングモールに彼を連れ出した。遥ちゃんと頻繁に遊ぶようになるまで仕事帰りに惣菜を買ったりするくらいの場所だったが、行ってみれば意外となんでも揃っていて、休日の暇を潰すには十分な空間が広がっていた。もう少し休日に出かけてみても良かったと後悔を覚えたくらいだ。

 佳波多くんに合わせて、私もカジュアルなルックスで身を固めてみたものの、佳波多くんと並ぶとどうしても親戚のような見え方をしてしまう。店内は早くに受験を終えた学生たちがちらほらと見える。自由登校も増える時期だから、そういう暇を持て余した子たちにとって絶好のスポットなのだろう。


「受験、受かりそう?」

「浪人はしたくないからね。頑張るしかないよ」


 大げさにため息をついてみせる彼を見て、私が心配する必要はなさそうだと感じた。恐らく彼のことだから大丈夫だろうという気持ちは、部屋で勉強にのめり込んでいた姿を見て、一層大きくなった。彼は余裕な表情を見せたがる。それは一種の自分自身に対するプレッシャーのかけ方なのか、とにかく彼がこういう時は裏で精一杯を尽くしている時だ。それを知っているから、遥ちゃんは根を詰めすぎている彼を見かねて私を呼んだのだろう。


「遥はあっという間に進路決めちゃったからなあ」

「遥ちゃんすごいね。流石生徒会長」

「遥は、俺なんかよりずっとすごいよ」

「そう?」

「そうだよ」佳波多くんは顔を綻ばせる。「いつだってなんだって器用にやってのけるんだ。俺なんて集中力が一つのことにしか向かないから、いつもあいつの器用さがすごく羨ましい」

「そうなんだ」

「双子なのにね。遥みたいになれたらって、時々思うよ」


 遠くを見つめる彼の横顔はとても綺麗だ。まつげが長くて、水っぽく潤んだ瞳が館内の照明を受けて輝いている。


「なんで、そんな嬉しそうなの?」

「え、嬉しそうな顔してたかな」

「してるよ。なんか、その顔やだな」


 指摘されてわざと不機嫌そうに表情を変えた佳波多くんを見て、私は思わず口元が緩む。彼はそれを見て今度は本当に不愉快そうにしていたが、そういった幼さも含めて、彼がとても可愛らしく見えた。

 そういえば、私は誰かになりたいと思ったことがない。自分のことばかりで、誰かを見ている余裕がなかいからだ。思い返せば、人の目を気にするあまり、他人に気がいかなくなっていた。そうやって閉ざした果てが、私のイップスであり、限界だったのかもしれない。


「ごめんごめん、お詫びに奢ってあげるから。だから機嫌直して」

「いいの?」


 期限を損ねた佳波多くんにそう声をかけると、彼は途端にまた目を輝かせる。


「クレープとかでいい?」

「バナナとチョコが入ってるのがいいな」


 そうしてフードコートに向かおうとした時、小さな楽器店が目に入った。CDショップと合わさった複合タイプの店舗で、壁には軽音楽器、ケースには金管楽器、そして広場には電子ピアノが複数並んでいる。

 平日の時間は暇なのだろう。店員は軽く作業台から頭を上げてこちらを一瞥した後、再びデスクワークへと戻っていった。何気なく手前の電子ピアノの鍵盤を押し込んでみる。ボリューム・バーは最小になっているが、音はちゃんと出る。私は佳波多くんを見た。


「佳波多くん、電子ピアノで弾いたことはある?」

「まあ、何度かは。別に選り好みして弾いてるわけではないし。できればちゃんとしたアップライトかグランドピアノが良いけど」

「ねえ、ここで一曲弾いてよ」


 突然の私からのリクエストに彼は少し戸惑っているようだった。私は返事も待たず、暇そうな店員に声をかけて試奏の許可を得ると、強引に彼をピアノの前に座らせる。


「今の時間なら、ある程度音を出して弾いても大丈夫だって」

「そんなこと言われても、何を弾けばいいの?」


 リクエストを求められて、私はしばらく考える。私でも分かる曲は何かあっただろうか。これまでの中で聴いた曲を考えた時、不意に出てきたのは、あの日の浜辺で口ずさんでいた佳波多くんの姿だった。


「子供の情景」


 私のリクエストに彼は笑う。


「流石に全部は辛いよ。二十分くらいあるよ」

「駄目?」


 両手を合わせる私を見て、彼は観念したのか、肩を竦めてため息をつき、電子ピアノのボリューム・バーを上げた。


「じゃあ、その中の一曲だけ」


 彼は鍵盤の上に優しく両手を下ろす。何を弾くつもりかはすぐに分かった。

 繊細な手つきで奏でられる幼くて、穏やかで、眠りの間際にいるような幻想的な音の紡ぎが店内に広がっていく。店内BGMが止まったと錯覚するくらい、私は彼の音に没入していた。頭の中で情景が生まれていく。淡い水彩でできた幼い子供たち。軽やかな音に誘われて彼らは拙いダンスに興じる。

 隙間から波の音が聴こえて、彼らはみな白波に浸って、溶けて消えていく。そこには痛みもなく、苦しみもなく、ただ、はじめからそうなるように、ゆっくりと損なわれていく。

 気がつくと佳波多くんの周囲には子供たちや家族連れが集まっていた。細やかな二分半が終わると、盛大な拍手で彼は迎えられた。彼は気恥ずかしそうにはにかみ、小さなお辞儀をして席を立とうとするが、すぐ傍で聴いていた少女が裾を掴み、目を輝かせて「もう一回」とねだる。


「佳波多くん、私からもお願い」

「困ったな」


 困り顔を浮かべながらも、少女の頼みを断りきれず、彼は上げかけた腰を再び下ろすと、鍵盤に両手を当てた。


「じゃあ、せっかくだからもっと分かりやすいやつを弾こう」


 そう言って始めた彼の曲は、テレビやラジオでもよく聞くポップソングだった。子供達も嬉しそうに耳を傾けている。次第に電子ピアノの周りに人が増えていく。みんな彼の演奏を楽しんでいるのが見るだけで分かる。

 こうやって彼は、これからも求められていくんだと思う。

 素晴らしいものは、本人の気持ちとは裏腹にどうしても評価されていってしまうものだ。佳波多くんはこれからもこうやって、誰かに演奏をせがまれ続けるに違いない。願うなら、その期待と思いが、彼の願いに限りなく近いかたちになってくれればと思う。

 彼が音楽教師を目指したように、ショパンの雨だれでピアノの魅力に、音楽の楽しさを知ったように。

 誰かが音楽を知る標になれる、そんなピアニストであってくれたらいい。

 更にせがまれたアンコールに彼は再び演奏を始める。幼い子供たちはじっと彼の演奏を見つめる。彼の思い描く演奏風景は、こういう光景なのかもしれない。ただ、それが叶うのは、多分かなり先だ。あの日のコンサートのその先。彼自身も意図しなかったような世界へ、彼は連れていかれるのだろう。

 ああ、私は、あなたみたいな天才になりたかった。



 子供たちから次々と投げかけられるリクエストから逃げるように楽器店を離れた後、フードコートに転がり込み、クレープを片手に私たちは一息つく。佳波多くんはとくに疲れているようだったが、それでもどこか満足げに見える。


「酷い目にあった」

「みんな、佳波多くんがヒーローに見えてたみたい」

「そんなんじゃないよ。ヒーローなんて柄じゃない」

「ヒーローなんて、柄とかそういうのじゃないもの。見えちゃうものなんだから諦めなさい」


 不本意といった顔を浮かべながら、彼はバナナチョコクレープを齧る。私はそんな彼を頬杖をついて眺めている。


「私もね、降秋さんの絵を描き終えたら、すぐに引っ越すと思う」

「本当に? みんな、バラバラになるね」


 残念そうに彼は俯く。


「佳波多くんは、どこの寮に行くことになるの?」


 私の問いかけを聞いて、彼は顔を上げるとしばらく、その質問が理解できないようだった。やがて彼はその不思議そうに細めていた目を広げると、ひどく驚いた表情を浮かべる。

 それを見て、私はくすくす笑う。


「いや、そんな、笑わないでよ」

「だって、そんな余裕がない佳波多くん、初めてなんだもの」


 私がそう言うと、彼はまた、恥ずかしそうに俯いていた。 

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