第十一話 佳波多①

 バターの香ばしい匂いで目が覚めた。

 ベッドから起き上がってトースターに食パンを押し込み、一度大きく伸びをする。普段から寝起きは良い方だが、今日は特に良い。どうしてだろう。考えながらも身体は自然と身なりを整える行動を続ける。洗面所で顔を洗い、卸したてのタオルで拭く。歯ブラシに歯磨き粉をひり出して歯を磨く。鏡の前に映る私を見つめる。顔色も悪くない。なんとなく化粧乗りも良さそうだ。

 今日は何をする日だったか。個展の準備は昨日でほとんど済んだから、完璧なオフのはずだ。たまには、リハビリも兼ねて外でラフスケッチでも描きがてら散歩でもしてみようか。

 洗面所を後にし、寝間着を脱ぎ捨てて下着のままローテーブル前に胡座をかく。焼き立てのトーストにバターとママレード・ジャムを塗りたくり、テレビを点けてチャンネルをいじる。今日も世界は悲報で溢れている。もやしのほうがまだ食べられるだけマシ。双子の言葉をささやいてみると少しだけ笑えた。

 カレンダーは平日。時刻は十時を回っている。ほんの少し前だったら、今頃は朝礼を終え、事務作業をこなしながら今日のランチについて考えていたところだろう。そんな日々から離れてしまったと思うと、それはそれで少し寂しかった。

 退職願は、私が想像した以上にスムーズに受理され、ひと月後には自由の身となった。それなりに身を尽くしていたつもりだったが、まわりにはなんとなく感づかれていたのかもしれない。あいつはもう辞めるだろう、と。実際私もそのつもりだった分、話が早いに越したことはないが。

 個展のスケジュールも定まって、告知もSNSを使って行ない始めた。とはいえ数年近く何もしていなかったしがない絵描きにつく反応は少ない。地道に貯金してきた未完成の絵たちを掲載するくらいしかできないし、新しい作品もほとんどないのだから当たり前だろう。会場の代金は貯金でどうにか賄えた。元々採算度外視での企画だから熱を入れすぎる必要もなければ、期待を掛ける必要もないことが唯一の救いだ。もっと何かするべきじゃないかと悩む私に自惚れるなと叱咤した幸江には感謝しかない。もしあのまま不安にかられて今からアピール用に絵なんて描き始めていたら、今頃また潰れていたに違いない。

 ノックの音がしたので、どうぞと大声で返事をする。遠慮なく開けられた扉から遥ちゃんが顔を覗かせた。ブラウスとスカートを身に着けた彼女は、私のだらしない身なりに呆れた顔を浮かべ、眼鏡の位置を整える。


「羽美ちゃん、仕事辞めてからどんどんだらしなくなってる」

「そうかな、あまり普段と変わらないと思うんだけど」


 部屋に入ってきた遥ちゃんはクローゼットからスキニージーンズを引っ張り出して私に押し付ける。よりにも寄って締め付けのあるパンツを選ぶなんて、と思いながら、遥ちゃんの鋭い視線に促されて渋々身につけた。


「というか、むしろこっちが羽美ちゃんの素顔なのかもしれないか。なんか、残念だけど」

「どうしてそう思うの?」

「似たようなのがうちにもいるから」


 随分な言いようだが、否定のしようもないので私は反論をする代わりにトーストを齧る。


「個展、もうすぐだね」

「日取り、こんなにすんなりと決まるとは思わなかった」

「幸江さん、すごい人だよね。自分のこともあるのに、羽美ちゃんのこと進んでやってくれてる」


 顔合わせを終えてきたと幸江は言っていた。入籍は年明け、式は来年の夏頃だという。式場見学をしながら旦那さんと筋道を立てている最中で、その筋道がとても大変だと彼女は嘆いていた。


「幸江は、なんであんなに私に良くしてくれるんだろうね」

「羽美ちゃん、分かってないの?」


 トーストの最後を食べ終えて、皿の上で手を払う。遥ちゃんに目を向けると、彼女はキョトンとした顔を浮かべていた。私の言ったことは、そんなにも不思議なことだったろうか。


「遥ちゃんは分かるの?」

「なんとなくね」


 遥ちゃんは私の傍に座ると、肩に身を寄せる。温かな彼女の肌の感触に、心が落ち着く。


「羽美ちゃんはあったかいな」

「遥ちゃんだって」

「卒業したら、全然会えなくなっちゃうね」


 彼女の言葉に私は口をつぐむ。先日、彼女は推薦で志望の大学への合格を決めた。佳波多くんはまだ受験活動が続くので、やっかまれているのか気遣っているのか、最近は彼女が私の部屋でくだを巻くようになった。私も私で離職してから余裕ができたので、彼女と過ごしたり、出かけたりすることが多くなっている。


「ねえ、羽美ちゃんも、そのうちここを出ていくんだよね」


 遥ちゃんの問いかけに、私は頷く。


「そうね、元々期間というか、条件付きでの契約だから。その条件がクリアされたら終わり。新しく住むところも探さないと」

「そうしたらさ、佳波多の寮に近いとこで探さない?」

「佳波多くんの?」


 繰り返した私に、遥ちゃんはにっこり笑って両手を組んだ。細くて綺麗な指先をくるりと回しながら、本気だよ、お兄ちゃん、と彼女は言った。


「本気なんだ」

「羽美ちゃんは嫌?」

「分からないかな。だって四年以上も待つ必要があるんだよ。その時、自分が何してるかだって分からないんだから」

「そうかな、四年なんてあっという間だと思うけど」

「大人の四年と子供の四年って感じ方も、何もかも違うんだよ」


 遥ちゃんの頭に触れる。さらりとした綺麗な髪質が心地よくて、ずっと触っていられる。遥ちゃんはまるで猫みたいに目を細めて、私に触れられていた。


「それに、佳波多くんは、きっとピアノを続けるだろうから」

「そんなこと言ったら、羽美ちゃんだって同じじゃない」


 遥ちゃんは身体を起こすと、私を見て口角を上げる。


「佳波多と同じ、羽美ちゃんも続ける人でしょう。だから、大丈夫だよ」


 あんまり根拠のない理由だな、と思いながら私はくすりと笑った。



 この扉に触れるのは、初めてだ。これまで降秋さんの部屋に招かれることはあっても、双子の部屋を訪れることは滅多になかった。なんとなく、二人との間柄に少し距離感を感じていたこともあるのだと思う。ノックをすると「入れば」と返事があった。冷たくもなく、かといって過度に温かいわけでもない。兄妹ならではの距離感を彼の一言から感じた。遥ちゃんと勘違いしているのだろう。私はノブを回して二人の部屋に足を踏み入れる。玄関には紺色のハイカットスニーカーが一足だけ。私の靴より一回りも大きな靴の隣で自分のパンプスを脱いだ。玄関マットは遥ちゃんの好みだろう。淡いライトグリーンに鍵盤の刺繍で縁取りされている。

 部屋の構造はほとんど私や降秋さんの部屋と変わらない。部屋の奥に佳波多くんの背中が見えた。


「遥、ごめん、もうちょっとで終わるから」


 とてもシンプルな部屋だった。勉強机が二つと、窓際に二段ベッド、中央に丸くて小さなローテーブルが、ラグカーペットの上にちょこんと乗っかっている。テレビはどこにも置かれていない。彼はヘッドホンを付けたまま参考書に目を落としている。やがて遥ちゃんから返答が何もないことに気がつくと顔を上げ、私が立っていることに気がついた。明らかに戸惑った顔を浮かべているのを見て、してやったりと思う。


「やってるね、受験生」

「羽美ちゃん、どうしたの?」


 ヘッドホンを外した佳波多くんは私を見て目を白黒させている。私はなんだかその反応がおかしくって、漏れた笑いを隠すように口に手を当て、再び佳波多くんを見た。


「遥ちゃんからお願いされたの。佳波多くんかなり根詰めてるみたいだから、ちょっと外に連れ出して欲しいって」


 今頃遥ちゃんはすごく悪い顔をしているんだろうな。でも、珍しく動揺する佳波多くんを見れたから、良いか。にっこりと彼に笑いかけたつもりだったけれど、多分、彼からはとても意地悪く見えているんだろうな。そう思いながら、でも私は浮かべた笑みを決して崩さなかった。きっと今、遥ちゃんと私は同じような顔をしている。同じ場所にいなくても分かる。

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