第十話 コンサートホールにて③

 彼は軽いお辞儀の後に着座する。グランドピアノの重厚な輝きの前に座っても怯むことなく笑みを浮かべていた。

 やがて演奏が始まる。両手を滑らかに動かし、彼は音を紡いでいく。溺れるのではなく、浸れるように、包み込めるように。彼は決してその音で私たち観衆に挑むようなことはしない。ただ、自分の楽しめる音を、同じ視点で見てもらえるように。そんな気持ちを感じる演奏だった。

 さざなみのような優しい音が私たちの心を彼に引き寄せていく。あの日見たレット・イット・ビーのように、彼は楽しげに鍵盤を叩いている。誰もが彼の演奏に心惹かれている。会場の空気が彼一色になっている。


——この子は、もしかすると逃れられないのではないだろうか。


 脚光を浴びる佳波多くんの演奏を眺めながら私は思う。どうしてか、彼はいつまでもあの場所に座っているような気がした。

 きっと佳波多くんは、いつまでもあの場所に座り続けるに違いない。同時に、彼もそれを心のどこかで容認しているような気がした。自分が望んだ道のりとは真逆の世界へ浚われてしまうことが分かっているような、そうなってしまう前の【最後】を楽しんでいるような、そんな演奏だった。

 

——ねえ、今日はとても空気が澄んでいて綺麗ね。


 波に浚われながら、予め決められていたことのように振る舞った、降秋さんの奥さんが、私の耳元でそう囁いていた。



 全てのプログラムが終わって、ホールを出ようとしたところで佳波多くんと遥ちゃんに出会った。ヨルベさんもいたというが、佳波多くんと一言二言会話をしてすぐに帰ってしまったという。初めて彼らの親御さんと顔を合わせることにもなった。文化祭でちらりと見ていたからすぐに分かった。佳波多くんと遥ちゃんの紹介を受けた彼らは、私を見て「ああ、あの」とポツリと呟いた。


「あの、ですか?」

「いえ、失礼しました。うちの子たちが特に懐いているもので、どこかで一度お会いしてみたいとは思っていたんですよ」


 困ったように笑う二人の父親に、遥ちゃんが得意げな顔をして私の腕に抱きついた。


「羽美ちゃんはすごいんだよ」

「何かすごいことしたっけ?」

「絵がとても上手なの」


 抽象的な褒められ方に苦笑しながら、私は改めて自己紹介をした。絵を描いています、とするりと付け加えられたのは、ここが始めてだった。


「でも良かった。早く会っておきたいと思っていたので」

「何かあるんですか?」


 二人の父と母は少し寂しそうに顔を合わせると、実は、降秋くんの家を出ることになるんです、と告げた。


「引っ越しは卒業と大学入学の合間なのでまだ時間はありますが、遥は私たちの住む家に。佳波多は進学先の寮にそれぞれ入るつもりです。ですから皆瀬さんにお会いできるのもそう機会がないと思いましたので」

「そう、ですか」

「寂しい?」


 佳波多くんが私に尋ねる。よく見ると、彼は制服だった。てっきりスーツでも着ているとばかり思っていたからか、舞台の彼に比べて随分と幼く見える。


「うん、寂しいよ」

「引っ越した後も会ってくれる?」


 躊躇うような彼の申し出に、私は喜んでと答えた。


「佳波多くんはこっちに残るんでしょう。私としては、遥ちゃんと会えなくなるのが悲しいかな。向こうの学校にしたんだね」遥ちゃんは頷く。

「志望校も決めたから、あとは、そこに向かっていくだけ」

「じゃあ、それまでたくさん遊ぼうね」

「ほんと?」


 嬉しそうなその声に、私も嬉しくなって、うん、と頷いた。



 双子たちに別れを告げ、私と降秋さんは二人で帰路につく。行きも一緒だったはずなのに、どうしてだろう、帰りは少し空気が違った。夕闇に染まり始めた町並みのせいだろうか、少し生ぬるくなった風のせいだろうか。それとも、佳波多くんの音を聴いたからだろうか。


「実は、佳波多くんの演奏を聴いている時に、妻のことを思い出しました」


 ポツリとこぼした彼の言葉を聞いて、私と同じだ、と胸の内で呟いた。


「あの夢ですか?」


 彼は首を振る。


「いいえ、妻と過ごした日々のことです。幸福に満ちた時間でした。とても幸福で、思わずその思い出に手を伸ばしたくなるくらい」


 遠くを懐かしむように見つめる彼は、傍から見ると夕景に見とれているようだった。その視線の先に、彼の奥さんの姿があるのだろうか。隣で同じ方向に目を向けても、私には綺麗な夕焼けの橙しか見えない。


「ねえ、降秋さん、私今度、個展を開くんです」言うとしたら、ここだと思った。「描き終わらなかった絵と、佳波多くんと遥ちゃんに刺激を受けて描いた絵を飾るつもりです」

「それは面白そうですね。個展はどこで開くんですか?」

「多目的で使える小さな一軒家があって、その二階を使わせてもらうつもりです。玄関から階段、奥の部屋まで全てに絵が飾れるんです」

「一軒家、ですか。私も美術館になら行ったことがありますが、そういう個展は初めてですね」

「そうなんです。足を踏み入れたら、そこから全て、私の世界です」


 降秋さんの前に立つと私は踵を返し、彼に向き合うように立つ。夕景を遮るようにして、後ろ手に手を組み、彼を真正面から見据える。


「私を見に来てください」

「いいんですか?」

「ええ、そして、もう一つお願いがあります」


 降秋さんは私を見ながら、それでも私の奥の夕景に見とれているようだった。いや、はじめから、彼の目は何も映してはいないのかもしれない。彼に残っているのは、あの潮騒だけで、それ以外は全て、何物でもないとしたら。


「いいですよ、何でも言ってください」


 降秋さんの言葉に、私は深呼吸をする。約束ですよ、と私は胸の内で呟く。


「私と、デートしましょう」

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