第十話 コンサートホールにて②
コンサートホールの天井を見上げていると、だんだん自分の身体が軽くなっていく。目の前の舞台から扇状に広がり、アーチのようにふくらんだ形状になんだか目が回る。
顔を上げたまま両目を手で覆い、座席の背もたれに寄りかかると、多少気分が楽になった。ここではやけに雑音を拾う気がする。音にナイーブな会場はみんなこうなのだろうか。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと慣れない場所に戸惑ってるだけです」
隣を見ると、降秋さんは心配そうにこちらを見て、カップホルダーにミネラルウォーターのボトルを挿してくれた。
「少しでも飲むと、変わりますよ」
「ありがとうございます。とても広いですね、ここ」
ホルダーに置かれたボトルを手にとって起き上がると、私は周囲をもう一度ぐるりと見回す。舞台の中央にはグランドピアノが一台だけ。木目の綺麗な床板と黒い鏡面仕立てのボディがぴったりと収まっているのを見て、あのピアノの為にこの会場があるみたいだと思った。
「盛況ですね」
「それなりの人数が出ていますからね。幼い始めたての子供たちも出ているそうです。幾つかの個人教室が集まってここを借りていると聞きましたよ」
出演順の記載されたプログラムを読みながら降秋さんはそう私に説明してくれた。確かに、入口で記念撮影をしていた家族や暇そうな子供たち、喫煙に勤しむ親類の姿もあった。でも不思議だ。てっきり私はコンクールとか、大きめのイベントで、彼を純粋に楽しめると思っていたものだから。
「彼の先生もはじめは反対だったそうです。出るならもっと、周囲に目をかけてもらえるものに出るべきだと」
まるで降秋さんに心の中を見透かされたようだった。そうか、佳波多くんは、そういったものを全て蹴った上で、ここに出ることにしたのか。
「彼は結局、音楽大学に行くそうです。教育学部に進もうとしていた彼を、先生が必死に引き止めたそうですよ。佳波多くんには、それだけの期待があったのでしょう。ただ、教育に重きを置いた勉学に励むつもりであることに変わりはないそうです。教師になるのか、彼の先生のような個人の音楽教室を開くのかは分かりませんが」
「佳波多くんは、何がしたいんでしょうか」
「多分彼は、楽しみたいだけなんですよ。音楽を。そこに承認欲求はなく、ただ、自分の思うままに楽しんで、それを分かち合いたい」
「承認欲求がない、ですか」
「誰しもが、足跡を残したいと思っているわけではないんですね」
横の通路を、緊張に満ちた顔の子供が俯いて歩いて行く。五、六歳だろうか。初めての演奏なのかもしれない。失敗を恐れている顔だと私はすぐに分かった。
「期待は正しく感じることができれば推進剤になります。ですが、誤ると途端に重圧へと変わります。どんな受け皿にも底があるように、注ぎすぎると、初めにあったはずの大切なことが溢れていってしまう」
「どうしたらいいか、分からなくなっちゃうんですよね。そうなると」
私の絵を良いと言ってくれた人が沢山いたことを思い出す。芸術学校に足を踏み入れた時も、気紛れにインターネットに絵を掲載した時も、評価されることが、見てもらえることが嬉しかった頃があった。でも、絵の為に生きていきたいという気持ちが心に芽生えてきた頃、期待は重圧へと変わっていった。批判の言葉だけに目がいくようになった。
そうやって、気がつくと私は私自身に追い詰められていた。
「ヨルベさんが音楽に全てを賭けられないと思った瞬間って、こんな感じだったんでしょうか」
「どうでしょう、彼女は自分の為のはずのものが、誰かの為のものにされてしまうことが、とても嫌だったのでしょう。楽しく弾いているだけだとしても、曲への理解、作曲者への尊敬、評価がつきまとうことにうんざりしてしまった」
ねえ、見てと家族に見せていた幼い頃が私にもあった。とても上手ね、と言われるだけで嬉しくて、それだけでまた描こうと思えた。あの頃は、描き方もなにもなかった。
「羽美さん、佳波多くんの演奏をちゃんと見てあげてください」
「ちゃんと、ですか?」
「ええ、ちゃんと、です」降秋さんは頷く。「貴方は彼らとは違いますから」
「私も、似たようなものだと思います。結局、誰かに見てもらうことで生きるということに、気持ちが耐えられなかったんですから」
「でも、戻ってきたでしょう?」
降秋さんはそう言って、プログラムの一箇所を指差す。佳波多くんの名前と、楽曲が記載されている。
「雨だれ」
「彼が初めて弾いた曲だそうです。薦められたいくつもの曲を断って、彼はそれを選んだ。当時、時間を忘れるくらい楽しみ、没頭した曲をもう一度弾きたいと思ったそうです」
「最後だから、ですか?」
「分かりません。ただ、少なくともこれから先、佳波多くんは今と同じ気持ちで演奏はできなくなるでしょう。彼もそれをなんとなく察知しているのかもしれませんね。その為にも、当時自分が音楽を楽しいと感じた瞬間を、改めて切り取っておこうと、そう思ったのではないでしょうか」
ベルの音と共にホールの照明が落ちていく。その中で舞台上のピアノにだけ変わらずスポットライトが落とされていた。始まるようですよ。彼は言った。
幼い子たちの緊張と興奮の入り混じった演奏を聞きながら、私はあの二枚の絵を思い出していた。切り取りたいと思った瞬間をただ切り取っただけの絵を見て、彼らはできあがっていると言っていた。
たどたどしさのある演奏から、自信に満ちた演奏まで十人十色の世界を味わっていると、不意に私の脳裏で潮騒の音が聴こえてきた。波打ち際に佇む女性の後ろ姿が次第に溶けていく光景を思うと、自分が一体今どこにいるのか分からなくなった。
どちらが上で、どちらが下か。飛び込んだプールの中で感覚を失ってしまったみたいに私はピアノと潮騒の中で溺れていく。最後の一筆が入らなかった絵たちを眺めながら、就職を選んだ時、幸江に言われた「やめないで」という一言が脳裏に浮かぶ。
思えば、あの言葉がなければ私も迷わず絵を描くことを辞めていたかもしれない。あの時の幸江の気持ちが知りたい。どうして彼女は、私に辞めるなと言ったのだろう。どうして幸江は辞めたのに、私のことは引き止めたのだろう。
不意に拍手の音が聞こえた。
はっとして顔を上げると、舞台上に佳波多くんの姿があった。前後も上下も分からなくなり、思考の海で溺れていた私を引き上げてくれたのは、佳波多くんだった。
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