第十話 コンサートホールにて①
これまで自分が作ってきたものを改めて見返すことなんてあまりしてこなかった。描ききったらそれでおしまい。見返すこともなく次へ目を向けていた。とにかく積み重ねるように前進だけを続ける毎日。そんな頃が自分にあったことが懐かしい。
けれども、それは辿ってきた足跡がどんな道を形作ったかを確かめることを先送りにしていただけだったのではないだろうか。歩き続け、植え続けてきた想像の種がはたしてどうなっているかと振り返った時、そこに広大な砂漠が広がっていたとしたら……。何もかもが枯れて、朽ちて、彩ってきたものは全て砂に埋もれてしまった。そんな光景を見てしまうことが、何も成せなかったことを自覚してしまうことが、何よりも怖かったのかもしれない。
だから、正直なところ今は少し安堵していた。振り返った景色には、今も変わらずに私の足跡があった。果たしてそれらが芽をつけるのか、風化して消えてしまうのかは未だ皆目検討もつかないけれど、少なくともそれらは今も私を支えてくれていた。
一つひとつの作品を見る度に安堵する私と違って、佳波多くんと遥ちゃんは作業場で寝転がりながら呑気に私の絵を楽しんでいる。ちょっとした個展みたいだと二人は喜んでいたし、私もたった二人の観客に向けた発表会をしているみたいだった。気恥ずかしさとくすぐったさを感じながらも、二人がいてくれたお陰で私はなんとか砂のイメージと戦えている。
コンサートが間近なのに佳波多くんは最近私の部屋にいることが多くなった。遥ちゃん曰く、練習量も減っているという。どうしてか尋ねてみたが、追い詰められる必要はないから、と言った。
「お、双子ちゃんたちがいる」
ノックもなく入ってきた幸江は室内に転がる二人を見て愉快そうに笑う。片手にぶら下げたコンビニのビニール袋には缶ビールが四、五本ほど見えた。私は呆れながらも彼女からビニール袋を受け取り、二つ取り出すと幸江に手渡した。
「いくら休みとはいえ、昼間から飲むのはどうなの?」
「いいじゃない、どうせしばらくしたらこんな休日の使い方もできなくなるんだから」
「できなくなるんですか?」
遥ちゃんが見上げるようにして尋ねる。幸江は缶ビールを片手で開けるとはしたなく一口飲んで喉を鳴らし、それから彼女の頭を楽しそうに撫ではじめる。
「遥ちゃん、だったわね。綺麗な髪。私もこういう子を産みたいなあ」
「予定あるの?」
「引っ越しと式の準備で貯金全部吹き飛んじゃうからしばらくは無理ね」
ため息をついているが、どこか充足感のある幸江の表情を見てなにそれ、と私は笑った。
「そういえば、羽美が最近描いた二枚はどれ?」
「そこの二つだよ」
佳波多くんが壁際に立て掛けられた二枚の絵を指差す。舞台上でレット・イット・ビーを演奏する佳波多くんを描いた【舞台の上】と、遥ちゃんを描いた絵。
幸江はその二枚を観察するようにじっと見つめていた。腕組みをして、片手で顎を撫でながらじっくりと。
誰かに見られてこんなにも緊張することが今まであっただろうか。少なくとも幸江に見られて心臓が苦しくなることなんてなかった。胸の前で握った手に、じんわりと汗が滲む。
不意に、その手を遥ちゃんの手が触った。包み込むようにふわりと、小さくて、冷たくて、柔らかな手が私の震える手を宥めてくれる。隣を見ると佳波多くんも私を見ていた。彼の細められた目が、大丈夫、と言っていた。大丈夫。何が大丈夫なのだろう。幸江の評価か、私自身の不安か、見られることへのプレッシャーか。
やがて幸江はうん、と呟くような声を共に深く頷く。
「この二枚、一番素敵なところに飾ろう」
「そうなの?」
キョトンとしていると幸江は不思議そうな顔で首を傾げている。
「だってこれ、よくできてるもの」
「やっぱりそう思うよね。羽美ちゃんはずっと足りない足りないって言い続けてるけど」
佳波多くんは幸江の言葉に同意する。遥ちゃんも横で何度も頷いている。
できている、という言葉がどうしても私にはしっくり来ない。何度見ても、何をしても足りないような不安があるのに、どうして皆は、そんな簡単にできていると思えるのだろう。
「こればっかりは、見方の違いだよ。それに、完成なんて言葉は、どれだけ掘り尽くしたとしても言えないものよ」
「俺も、できたとは思っても、完成したと思ったことはないかも」
佳波多くんは床の上で小さな歌と共に鍵盤のない演奏をしてみせる。
「別にそれで妥協しろとか、羽美の中のボーダーを下げろって言ってるわけじゃないからね」
「そうなの?」
幸江は舞台で演奏する佳波多くんの絵の前でしゃがみ込み、まじまじとそれを見つめる。遥ちゃんだけ色のないその絵を見て、彼女は眼鏡を外してシャツの襟に引っ掛ける。
「好きなだけ悩めばいいし、未完成を嘆けばいいよ。ただ、日の目を浴びることもなく、完成にだけ執着しても、そんなの何も生まないじゃない。だから個展。羽美の絵を人前に晒して、どんな反応があるか見たら、少なくとも見せないでいた頃よりは何かあなたの中で進展があるかもしれない」
そう言って幸恵は私に微笑む。なんとなくそらした視線の先、ブルーシートの広がった部屋の片隅に、乾いたパレットが立て掛けられているのが見えた。つい最近作ったばかりの新しい色が、仕切りの中にそれぞれこびり着いている。
水で溶けばそれはすぐにでも私の欲しい色になってくれる。頑固でカラカラになった絵の具たちは、私が落とす一滴を待ち望んでいる。
「じゃあ俺は羽美ちゃんの後押しのお手伝いをしよう」
佳波多くんが立ち上がったのを見て、私は時計に目を向ける。もうすっかり昼過ぎだ。お腹すいたと彼はニッコリ笑ってリビングに向かう。遥ちゃんもそれに続く。部屋には私と幸江二人だけになった。彼女は変わらず二枚の絵を眺めていて、私は片付けと並行して飾る絵をまとめていた。
「ねえ、羽美」
「なに?」
私を幸江を見て首を傾ぐ。幸江は眼鏡に掛かった髪を指先で払い落とすと、その指先で私の絵にそっと触れた。
「久しぶりに羽美の絵を見たけど、やっぱり良いね。きっと素敵な個展になるよ」
「そんな、一体何人来るのか分からない個展なのに?」
「いいのよ、何人来るかなんて。採算が取れるかどうかなんて今の貴方に必要なことじゃないわ。見てもらうこと。必要なのはそれだけ」
「見てもらうだけで何かが変わるの?」
「さあね」
幸江は私の問いかけに対して、ぶっきらぼうな返答を投げてよこした。無責任なこと言ってくれるなあなんて思いながら、少し安心していた。見せかけの励ましよりはずっと良い。
「羽美は?」
「え?」私が聞き返すと、彼女が眉根を寄せる。「何か聞きたそうな顔してる」
何を聞こうとしたんだろう。
その問いかけがするりと解けて消えていく。何か、聞きたかったはずなのに。でも、消えてしまうってことは、大したことではなかったんだろう。
「旦那さんと、いつ会わせてもらえるの?」
だから、私はどうでもいいことに切り替えることにした。私自身もまるで興味のない話題に。幸江は私の言葉を想像していなかったようで、目を丸くした後、頬を薄い紅で染めた。
「会いたいの?」
「どうだろう」
「なにそれ」
幸江は呆れた顔で私を見た後、口角を上げて笑う。私もそれを見て笑った。
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