第九話 トロイメライ②
車を降りて浜辺に足を踏み入れる。砂の感触は思ったよりも硬かった。もっとさらりとしていると勝手に思っていたけれど、随分しっかりしていた。私たちは波打ち際まで歩いていく。
「降秋さんと奥さんは、ここで愛を誓って、ここで離れていった」
ヨルベさんは私の傍でそう呟くと、波打ち際まで一人まっすぐに歩いていく。普段とは違うシャツにジーンズとスニーカーというラフな姿で、砂に足を取られることなくまっすぐに進んでいく彼女の後ろ姿を見ていると、そのまま海へ入っていってしまうのではないかと、得体の知れない不安を覚えた。
「失踪宣告を受けた今でも時々ひょっこりと彼女が現れるんじゃないかって思う時があるわ。でも、そんなことないのよね。どうして彼女が消えたのか、どうして彼女が消えなくちゃいけなかったのか。未だに全部分からないまま」
ヨルベさんはスニーカーを脱ぎ捨てる。小さな足先が水面に波紋を生む。白波の中で彼女は後ろ手に手を組み、しばらく波打ち際をじっと見下ろしていた。
「ヨルベさんは、会ったことがあるんですね」
「ええ、とても綺麗な人だったわ。あまりにも綺麗過ぎて、時々現実味を感じなくなるくらい」
私もヨルベさんの真似をして、靴を脱いで砂浜に素足をつけてみた。ひんやりとした感触と、指の隙間に潜り込もうとする顆粒状の砂の鬱陶しさを感じながら、ヨルベさんの隣まで歩く。季節外れの波に濡れた浜辺はちくりと刺すように冷たい。波打ち際のぬかるんだ地面のささやかな温もりが有り難かった。
「あの子は、どこに消えたのかしら」
この波に浚われて、足先から少しづつ消えていった彼女を目蓋の裏に思い浮かべる。降秋さんの夢の中で、彼女は決してこれからとけていく自分を悲観してはいなかった。来るべき時が来たとでもいうように穏やかで。ただ一つ、降秋さんを残すことに対してだけ、後ろ髪を引かれるような思いを抱いていたように感じられた。
薄く濁った波打ち際の奥に群青色をした海面が広がり、やがて最奥の水平線で空と混ざり合い、ぴったりと世界を綴じていた。
不意に、歌が聞こえた。
私とヨルベさんが振り返ると、佳波多くんがポケットに手を突っ込んだままぶっきらぼうに歌っている。歌詞はなく、メロディーだけをラ、ラ、ラと。
それを聞いてヨルベさんはすぐに曲名が分かったらしい。彼女も彼に続くように歌い始める。この曲はなんだろう。どこかで聞いたことがある気がするけど、気がするだけで、彼らのようには歌えない。
私はそのまま一歩、二歩、と歩みを進める。膝下まで冷たい水面と温い海中が包み込む。
私が歩みを進める中で、佳波多くんとヨルベさんは歌い続けている。時々少し笑みを含んだような、少し照れくさいような声色で。
私が海へ向かっていっても、つま先は決してほどけてはくれない。足先がとけてきえることもない。薄いブルーのワンピースの裾が水を吸って重たくなって、むしろ動きづらくなるだけで、何一つ気分は軽くならない。
こんな中で、彼女は、どうしてあんなにも穏やかに消えていけたのだろう。
目を閉じると、海の感触と、生ぬるい匂いと、潮騒と、二人の口ずさむ歌が私を包んだ。
背後に降秋さんがいるような気がした。そんなことあるわけないのに。
降秋さんは、私の後ろ姿を見ている。特に追うでもなく、悲しむでもなく、そこに立って、海の中に立った私がどうなるのかを見つめ続けている。
このまま、彼の前でそっととけてしまえればいいのに。
「羽美ちゃん」
佳波多くんに呼ばれて私は目を開けた。晴天と群青とを綺麗に分かつ水平線が目の先に見えた。私は振り返り、波打ち際を出ると傍に置いた靴を拾い上げて佳波多くんのもとへ向かう。
「そんなに浸かってたら風邪ひくよ。タオル持ってきた?」
私は首を振る。彼は呆れた顔で自分の鞄からタオルを一つ渡してくれた。
「もう帰ろうか」
「そうね、ちょっと、辛くなってきちゃった」
「何が?」
「あまりにも寂しすぎて」
私はそれ以上何も言わず足を拭いた。砂だらけのままスニーカーに足を突っ込むと、細かな砂が親指と人差し指の間を転がって少し痛い。そして何よりも、胸の奥が痛かった。私は手にしたタオルを顔に当てる。潮の匂いで湿ったタオルに顔を埋めたまま、じわりと滲んだ熱い涙を拭う。
「羽美ちゃん、どうして泣いてるの?」
「わからない」
震えた声でそう答えるしかなかった。どうして私はこんなにも悲しいのだろう。
不意に、私の身体を包み込む感触がして、タオルの端からちらりと覗くと、すぐ傍に佳波多くんの肩があった。両腕が私の背中に触れる。私は再びタオルに顔を埋めながら涙を流した。
「わからないけど、すごく悲しいの」
「何か感じたのなら、ちゃんと噛み締めればいいよ」
彼の腕に力が入る。
「噛み締めた分だけ、きっと良くなるから」
私は思わず笑ってしまう。涙目のまま顔を上げると、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた佳波多くんの顔があった。
「なんで笑ったの」
「いや、良いこと言うなって思って」
「嘘でしょ、絶対にその笑いは、そういうのじゃない」
彼は両腕を解くとポケットに突っ込んで私と距離を置く。涙をタオルで拭って、鼻をだらしなく啜ってから私は彼の隣に歩み寄った。
「どうせなら羽美ちゃんと同じくらいの歳で慰めたかった」
「どうして?」
「そのほうがもっと、言葉に重みが出たと思うし」
「そんな、気にすることじゃないよ」
佳波多くんは納得がいかない様子だった。私と彼の間には十年近い距離があるのだから、そこに対して少なからず何か思うところはあるのだろう。
「でも、本当に良い言葉だと思ったよ。からかいじゃなくて、本当に」
まだ信じていない様子の佳波多くんに微笑みかける。
「知らない感情を噛み締めて、その分だけ深く潜れるようになるなら、私はもっと色んなことに目を向けないといけないね。降秋さんのことも含めて、これから先も表現者であるために」
「羽美ちゃんは、そういう生き方が合ってるよ」
珍しくしおらしい佳波多くんの横顔を見て、私は目を細めて笑いかけると、彼の脇腹を右肘で軽く小突いた。
「照れてる」
「別に、そういうのじゃないよ」
「あれだけ冗談っぽく私に告白した時は全然普通だったのに」
「いや、だって」
口元をもごもごと動かす隣の少年。ピアノに向かっている時はあれだけまっすぐなのに、こういう時だけ少年らしくなるのは、少しズルい。私は彼の腕を取り、身を寄せる。もしも、と囁くと佳波多くんはこちらに目を向けた。
「佳波多くんが自分の道を決めて、色んなことが見えはじめた上で、もしもう一度私のことを見てくれるのなら、その時は、私も君と向き合う努力をするよ」
遠回し過ぎるだろうか。私の感じる時間と彼の感じる時間には果てしないくらい差がある。そういう意味では、学生の思い切りの良さは正直羨ましい。足踏みする暇もないくらい、若い彼らにとって時間は目まぐるしいものだ。私も通ってきた道だから、今こそ欲しいものだから、すごく分かる。
車に戻るとヨルベさんは、音楽プレーヤーをカーオーディオに接続して再生ボタンを押した。席は行きと同じように運転席にヨルベさんと、後ろに私と佳波多くんが座った。後部座席側のスピーカーから彼女の再生した楽曲が流れ始める。
「良い曲ですね」
「ええ、さっき佳波多くんが歌っていたから、聴きたくなっちゃって」
エンジンの駆動音にも負けずにその曲は滑らかな演奏を続けていく。やがて、先程二人が口ずさんでいたメロディが伸びやかなピアノで演奏される。私はその音を聴いて、まだ足先に残る海の感触を思い出していた。
「ロベルト・シューマンの子供の情景っていう曲だよ。全十三曲の作品集なんだ」
佳波多くんはそう私に教えてくれた。やがて海辺で歌っていたメロディをもう一度彼は口ずさむと、これは七曲目と付け加えた。
「七曲目?」
私の問いかけに、彼は頷く。
「トロイメライ。羽美ちゃんも名前くらいなら知ってるんじゃないかな」
知ってる。私がそう答えると、彼は再び楽曲にのめり込んでいた。私もその楽曲に耳を傾けながら目を閉じた。
トロイメライ。胸の奥で口ずさむと、何故だか足先がほどけていくような気がした。
夢の終わりのような曲だ。
そのうち私は、ヨルベさんの運転する車の中でそっと眠りの中に落ちていった。
夢も見ない、潮騒も聴こえないほどの深い眠りだった。
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