第九話 トロイメライ①
「これが多分、最後だから」
そう言って笑いながらコンサート・チケットを差し出した佳波多くんは、不思議と満足げに見えた。彼が決めた最後の晴れ舞台のチケットを眺めながら、私はテーブルに突っ伏していた。
短冊状の薄っぺらいこの紙に、彼の生き様がプリントされている。佳波多くんはいつからこの道を決めていたのだろう。レッスンや勉強で忙しくて、彼とはしばらく会えていない。
私はチケットをショルダーバッグにしまう。鞄の中の携帯が小刻みに震えているのを見て手に取ると、ヨルベさんから連絡が入っていた。下に車を停めて待っている、と端的に送られてきたメールを閉じ、一度全身鏡で自分の服装を眺める。薄いブルーのワンピースに、厚手の白いカーディガン。行く先のことを考えて、靴は紺色のマリンデッキスニーカーを選んだ。
玄関を抜けて階段を降りる途中、ふと気になって振り返り、上階を見上げる。踊り場の先は薄暗くしんとしている。降秋さんは出かけたのだろうか。今日は姿を見ていない。
「あれ、羽美ちゃんだ。おはよう」
「佳波多くん」
丁度家を出ようとしたところで佳波多くんが部屋から現れた。彼は私を見てにっこりと笑う。さっきまで眠っていたのか、ひどく寝癖のついた髪をそのままに、半袖シャツとポリエステルのジャージパンツというラフな出で立ちだった。彼は眠たそうな目で外に停まるヨルベさんの車をちらりと見て、もう一度私に視線を戻す。眠たそうだった目はもうぱっちりと開いていた。
「羽美ちゃん、俺、今日はオフなんだ」
「コンサート前で根詰めだったしね。そういう日も必要だと思うよ」
「十分だけ待ってて。すぐに支度する」
そう言って返事も待たずに佳波多くんは部屋に消えていった。ぱたん、と閉じられた扉を前に私は戸惑う。
彼はこれから私がどこへ行くか果たして解っているのだろうか。いや、ヨルベさん以外に話していないのだから、知る由もない。
玄関を出ると、路肩に停められた青いミニクーパーの窓からヨルベさんが顔を出した。窮屈な車内にうんざりしているのか、彼女は少し不機嫌そうだった。広い車を買えばいいのに。
「おはよう、皆瀬さん」
「今日は付き合ってくださってありがとうございます。あの、一つ追加でお願いしてもいいですか?」
「何かしら?」
首を傾げるヨルベさんに、私は少し悩んだ後、降秋さんのビルを指差した。
「佳波多くんも一緒にいいですか?」
彼女はキョトンとしたが、やがて玄関から出てきた佳波多くんを見ると、肩を竦めた。
「二人とも後ろね」
クーパーは軽快に車道を走っていく。
運転を始めてからヨルベさんは無言で、私も特に話すことが思いつかなくて窓の外ばかり見ていた。佳波多くんも借りてきた猫みたいに静かだ。あっという間に通り過ぎていく景色を適当に眺めながら、なんとなく佳波多くんのことが気になって私はちらりと彼を見た。白いシャツに赤いカーディガンを羽織り、ぴっちりとした黒いスキニーパンツを履いた彼は普段以上に細く見えた。彼は静かにドライブを楽しんでいるようだった。ピアニストの繊細で細長い指先で太腿をトントンと叩いているのが見えた。
「ヨルベさん、スポーツカー好きそうだって勝手に思ってました」
不意に佳波多くんが口を開いた。ヨルベさんはバックミラー越しに後部座席を見ると、困ったように笑う。
「よく言われるわ。でもそんなもの買う余裕ないし、コンパクトにまとまっているほうが好きなの。佳波多くんは車よりバイクって感じがするわね」
「バイク良いですね。ピアノやってなかったら乗ってたかも」
「事故が怖いものね。まあ、何に乗っていても事故で取り返しの付かないことになるから、あまり関係ないかもしれないけれど」
「ヨルベさんみたいに、弾かないピアノ講師ってのもかっこよさそうですけど」
彼の言葉に、私が顔を上げる。ヨルベさんはため息を一つつく。言ってなくてごめんなさいね、と彼女の目は言っているようだった。
「この仕事の前は、講師をしていたの。ピアノをやめたのは良いけど、仕事がなかなか決まらなくてね。アルバイト感覚で講師をしていたら、わりに教えるのが上手かったみたいで」
「初めて聞きました」
「できれば言いたくなかったから」
クーパーの速度が上がる。ハンドルを握るヨルベさんの指も、佳波多くんと同じくらい繊細で綺麗だ。
「俺、ヨルベさんに一度教えてもらいたかったな」
「佳波多くんのほうがもう上手よ。教えることなんて何もないわ」
ヨルベさんの言葉に佳波多くんは残念そうに頭を掻いた。
「そういえば羽美ちゃん、コンサート来てくれる?」
「ええ、うん。予定は空けてるよ」
唐突にこちらに話題が移ったので私は戸惑いながらも返答する。佳波多くんの表情がパッと明るくなるのが見えた。
「良かった、羽美ちゃんに特に聴いてもらいたいって思ってたから」
「なんで私?」
「羽美ちゃんは、描きたい人だからね」
抽象的な返答だ。彼はそれ以上一言も付け足すことはなくヨルベさんとの適当な話題に移っていった。私もその話題に乗ったが、胸の内ではずっと彼の一言が気になって仕方がなかった。
車を走らせてから二時間ほどして、対向車線側に海岸線が現れた。遊泳期間の過ぎた海辺は閑散としていて、カップルや、家族連れ、犬を連れた高齢者たちがちらほらといるだけでひどく寂しかった。シーズン中はきっと鮮やかだったであろう色彩も、すっかりグレーで塗りつぶされて褪せている。
「降秋さんと彼女が初めて出会った時は、深夜で何も見えなかったそうよ」
ミラー越しの彼女は目を細めて笑っていた。
「ごめんなさいね、皆瀬さん、嘘ついちゃって。でも、私はそこを語るべきとは思っていないし、彼を知ったからといって出来上がるものが変わるとも思ってないの。むしろ引っ張られてしまう気がして、あまり言いたくなかったの」
「気にしないでください。私も、降秋さんを理解しようとか、そういうつもりはないんです」
「じゃあ、どうして?」
そう尋ねる彼の声のトーンは一定で、さっきまでの奔放さはなく、かといってピアノを前にしている時のような情熱もなかった。ただ冷静に観察するような口調だ。私は少し考えて、顔を上げる。
「降秋さんの話を聞いてから、頭から離れない音があって、その正体を知りたいんです」
潮騒は今も私の中に響き続けている。パズルのピースみたいにぴったり収まっていくきっかけを繋いでいくこの音は、終わりに向かう音だと思う。
「その音を追えば何もかもが綺麗に整う。そんな気がしたの。私の中のふわふわもやもやしたこの気持ちをキチンと取り除く為にも、この潮騒の音を明確にするという行為は必要不可欠だって」
私の言葉を聞いて佳波多くんはしばらく考え込んでいたようだった。やがて彼はいつもの奔放な笑みを浮かべ、深く息を吐くとバックシートに身を沈めた。
「よく分からないけど、まあ、いいや。それで羽美ちゃんが満足するなら」
佳波多くんの屈託のない笑みを見て、私も笑い返す。
「着いたわよ」
エンジンを切る音を聞いて、私は外を見た。駐車場には私たちだけだ。もう少し時期が早ければ、遊泳者たちで賑わいのある光景が見られたかもしれないが、今は生ぬるい潮の匂いが寂しく香るだけ。灌木や引き上げられた船、くたびれた網や木台と閉じられた海の家が佇むそこは、まるで何かの終着点のようだった。
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