第八話 遥②
下絵に絵筆を落とす。伸びの良い透明の水彩が私の指先の動きに合わせて滑らかに紙面の上で踊る。バターみたいに柔らかで温かみのある色が彼女を彩っていく。降秋さんの言葉を思い出す。色んなきっかけが結実して、終わろうとしている。彼も、佳波多くんも、遥ちゃんも、そしてもちろん私も。
「遥ちゃんと会えなくなるのは、寂しいな」
「私も寂しいよ。今までこの家に来た人の中で、羽美ちゃんが一番好き」遥ちゃんはそう言って一呼吸置いてから、「でもなんとなく、羽美ちゃんが最後なんだろうなって思ってた」と続けた。
「どうして、そう思ったの?」
「ただの勘」
その言葉には勝てないな、と私は笑った。
言葉を交わしながらも彩色は続いていく。
時折沈黙が部屋に居座る時もあれば、会話に花が咲く時もあった。長い時間の中で私は遥ちゃんを描いていく。果たしてこれは絵を描いているのだろうか。絵筆を走らせれば走らせるほど、目の前の遥ちゃんが薄く消えていくような気がする。その代わりに、キャンバスの中で彼女は存在を強めていく。まるで命をキャンバスに移しているようだった。
私は、彼女の何かをこの絵の中に閉じ込めようとしている。何故だか、そんな気がした。そしてそれは、確実に終わりへのきっかけへと結実しているとも思った。私は彼女の何かを終わらせようとしている。
「私は、多分、ちゃんとした日常を作っていくんだと思う」
遥ちゃんの声がした。私は何も言わず、筆先から目を離さない。
「のめり込めることはどれだけ探しても見つからなかったけど、要領よく、まともな道を作ることだけは得意なことが分かった。だから結婚して、子供を作って、そうやって当たり前の日常を謳歌していく。佳波多みたいな生き方ができない分、佳波多がやらない生き方を全うするの」
一つ二つ。同じ日に、同じ顔をして生まれてきた二人が全く別の道を歩んでいく。
「佳波多と私は、お互いにパズルのピースみたいに欠けていて、ぴったりと組み合わさると一人の人間になるようにできてるのかも。だから、互いに見てる場所も違えば、好きなことも真逆で、性別だって違う」
筆が止まった。
私は無言のままキャンパスをじっと見つめている。私はまだ終わった感触がないのに、筆はぴたりと止まってしまった。いつもの感覚だ。まだ何かあるような不安が私の胸をざわつかせる。
遥ちゃんは私の後ろから覗き込むように絵を覗く。しばらくじっと見つめた後に「うん」と横で呟いた。踏ん切りがついたような、名残惜しいような、明るさと寂しさの混ざりあった声色で、遥ちゃんはこう言った。
「出来上がってるね」
「完成してると思う?」
私が尋ねると、遥ちゃんは首を横に振った。
「これ以上足すとこ、どこにもないよ」
これまで私は、色んなかたちで絵を発表してきた。
色々なアカウントを使って、交流があって、自分の絵を好きだと思う人がいて。幸江と一喜一憂を繰り返しながら描いてきたものを他人の前に飾っていった。メモ書きに残していたパスワードから数年ぶりにログインを続けると、いくつかは削除され、いくつかは今でもちゃんと残っていた。私はそれら全ての目を通しながら、何枚も更新されていく他人の絵に埋もれた自分の小さな美術館を眺めて回った。
これは幸江が好きだと言ってくれたもの。
これは私はいまいちと思っていたが、当時の彼氏が推してくれたもの。
アカウントをフォローしていた人からのリクエストで描いたもの。
拙いものから、今見ても悪くないと思えるものまで、玉石混交の作品群を覗き込みながら、私は頬杖を付く。
細やかなメッセージを残す人、生きているか心配だと冗談交じりでコメントする人、久しぶりにあなたの絵が見たいと言う人。案外忘れないでいてくれる人はいるものだ。数多といるしがない絵描きの中で私の絵を好んで見てくれる、いつか復帰してくれることを願ってくれるのだから。
私は、そこに一言コメントを残すことにする。メッセージ欄をクリックして、キーボードを叩いていく。もう随分と使っていなかったアカウントだ。反応は来るか、いや、ないだろう。それでも、発信しておくことに意味はある。
いろんなきっかけが結実して、終わりに向かおうとしている。
私もまた、滞留から抜け出すことを決めた。まだ不安はある。でも遥ちゃんは出来上がっていると言ってくれた私の中に残る「まだ完成していない」感覚と遥ちゃんが言ってくれた感覚をうまくすり合わせる為には、これからまた何十年と絵を描く必要があるだろう。そして、きっと死ぬまでこの溝は埋まらない。でも、せめて落としどころくらいは見つけてから、私は死にたい。
幸江にはもう連絡を済ませた。
私はコメントを何度も見直し、そして、エンターを叩く。
【ご無沙汰しています。個展をやることになりました。詳細は、後日発表します】
打ち込み終えて、次にヨルベさんに電話をした。携帯を耳に当てたまま、アトリエの真ん中に置かれた、淡く彩られた遥ちゃんの姿を私は見つめる。憂いを帯びた目は、色をつけることでどこか諦めがついたような、ホッとしたような、温かみが宿っていた。佳波多くんの演奏を切り取った絵とはまた違う魅力があった。
「ヨルベです」
いつもの穏やかな口調で彼女はそう名乗った。
「ご無沙汰しています。ヨルベさん、少しご相談したいことがあるのですが」
「構いませんよ、遠慮なく仰ってください」
「海を、見たいんです」
私の言葉に、ヨルベさんは黙った。これだけで、なんとなく伝わったと思う。
「……いいの?」
「いいです」
ヨルベさんの言葉に私は即答する。ヨルベさんはまたしばらく黙った後、やがて分かったと答えた。
「今度連れていってあげる。私のスケジュールを教えるから、あなたの都合のいい日を教えて」
「ありがとうございます」
「いいのよ、なんとなく、あなたが最後になりそうって思ってたから」
ヨルベさんは若干笑みを含んだ声でそう言った。
「遥ちゃんにも言われました、それ」
そう言って私は予定を伝えた。彼女はその日程を了承すると、特に雑談もなく電話は切れた。結実している、と私は通話の途切れた電話を見下ろしながら思った。
再び私がパソコンに目を向けると、何件かのメッセージが飛んできていることに気が付いた。私はそのうちの一つを開け、文面を見つめる。
【おかえりなさい】
「うん、ただいま」
その言葉に返答はない。
小さくて、細やかな個展のことを思い浮かべる。静かな部屋の中に飾られた書きかけの絵たちを眺めながら、幸江とともに座って時間を過ごし続ける。時々降秋さんや、佳波多くん、遥ちゃんが遊びに来てくれるかもしれない。でも、多分それくらいだ。
きっと心地いい空間になるだろう。
遥ちゃんの絵は、何よりも良いところに飾ってあげよう。もしかすると佳波多くんが贔屓だとへそを曲げるかもしれないから、【舞台の上】は隣に。
色んなきっかけが結実していく。終わりが見えている。
奥さんの消えた海辺を想像しながら、朝が良いと思った。描くなら、朝だ。
霞むように淡く青い早朝の海辺を頭の中で思い描く。
うまくできるだろうか。彼が思い描き続ける海辺で、全てを終わらせることが私にできるだろうか。
私が目を閉じると、潮騒が聞こえた。鮮明に、はっきりと。
淡い青が、私の脳裏を染めていく。
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