第十三話 青
クーパーのエンジン音を聴きながら、私は窓を見つめ続けていた。
左右に流れていく景色の中、道のずっと先だけを。それが緊張からか、それとも集中できている証拠なのか、理由は定かでない。ただ少なくとも、今日は描けると私は確信していた。根拠のない自信だ。けれども、その自信の有り無しで気持ちの入りようは変わる。完璧なモチベーションは存在しないし、今日はできそうとか、今日は気分が乗らないだとかメンタルによって創作との付き合い方は変わっていく。励ましてみたり、あえて距離を置いてみたり。定期的な調律が必要なピアノのように、作り手も調律のようなメンテナンスが必要だ。そういう意味では、今日は絶好調だった。
ヨルベさんはすぐに運転を承諾してくれた。そればかりか私たちを送り届けた後、連絡があればすぐにピックアップに向かうとまで言ってくれた。作業の合間は邪魔になるからどこかで適当に時間を潰すそうだ。
もう構図は決まっていた。その中に降秋さんはいない。ただ絵を描いている間、私は降秋さんを海辺に立たせようと思っていた。それがどれだけ残酷なことか分かっている。だとしても、その行為が私の表現したい絵の中に必要であるのなら、例え彼自身を犠牲にしてでも私はその構図を実現させる。
「不思議ね、降秋さんが海辺に行くことを了承するなんて」
「羽美さんに負けました」
降秋さんはにっこり笑いながら、穏やかにそう言った。私はうまく言葉が出てこなかった。
「羽美ちゃん大丈夫?」
「大丈夫です。彼女は描きます」
私が返答する前に、降秋さんが答えた。彼に目を向けると、いつもの柔和な笑みがそこにあった。結末を知っているかのようだ。
終わりに向けて、全てが結実していっている。私は胸の内で呟く。
「私、降秋さんとは斡旋の付き合い程度だけど、それなりに貴方のことを知っているつもりよ。貴方が聞いたらそうじゃないと一蹴されてしまいそうな気もするけど」
ステアリングを人差し指と中指で交互に叩く。まるで鍵盤でも扱うような繊細なタッチだった。
「そんなことありませんよ。貴方は、私の親しい友人です。貴方に頼んで良かった」
「私も、とても刺激的な日々を送れた。こんなに楽しいのは、久しぶりだった」
「彼のことが気になりますか?」
弾かなくなったヨルベさんを、再び弾かせた男性の話。彼は果たして、スランプを克服して、演奏者としての自分を取り戻すことができたのだろうか。ヨルベさんはその結末を、その人物の詳細を話したがらない。私に話す必要はないと判断している。
「どうだろう、もう随分経っちゃったから」
「もう一度、連絡を取ってみてはどうですか」
「考えてみます」
私の視線に気がついたのか、彼女はバックミラー越しに私を見て唇の片端を歪めてみせた。
「やっぱり聞く? 私の話の結末」
ヨルベミチコと連弾をした、スランプになったピアニストの話。
「やめておきます」
「どうして?」
「なんとなく」
「そう、残念」
ヨルベさんはアクセルを踏む。クーパーが唸るようにエンジンを回し、車道の景色が飛ぶように後方へと消えていく。ビル郡、繁華街、住宅街、商業施設、その全てを吹き飛ばしていくうちに、やがて片側に海が見えてくる。一度見たことのある海岸線。佳波多くんが口ずさんでいたトロイメライが不意に頭をよぎる。
晴天の下で、海は群青色に輝いていた。空を飛ぶウミネコを映したような白波が海面を揺れ、やがてそれは浜辺へと打ち上げられて消え去っていく。誰かのつけた足跡が波に飲まれて消えていく。
「ああ、懐かしいですね」
降秋さんが、感慨深そうに言った。表情は変わらないが、目の色が変わったことだけは分かった。
「ここで消えたんです。私の妻は」
少し涼しくなった風も、海沿いにくるとまだ少し生ぬるさが残っている。潮の匂いがする砂浜を、イーゼルと道具を抱えて踏みしめる。靴を脱いで裸足で砂を踏みしめると、指の間がざらりとした。
ざりり、ざりり。聞こえてくる砂を噛む音が二つ。私の後ろを、降秋さんも裸足で歩く。互いの間に会話はなかった。ただ、彼がこれまで閉ざしていた思い出の場所に足を踏み入れているからだろうか、ほんの少し、彼は私を受け入れてくれているような気がした。
思えば降秋さんの話はどこまでもちぐはぐだった。思い出に縋るだけで、現実味のない話だけ。それはヨルベさんも、佳波多くんも遥ちゃんも察していた。
確かに降秋さんに奥さんはいたのかもしれない。でも彼はその全てを閉ざし、生活感すらも消している。
「ねえ、降秋さん」
「なんですか」
「降秋さんの奥さんは、どうして消えたんでしょう」
「どうしてでしょうね」
やがて目的の場所に辿り着くと、私は砂浜の真ん中にアルミフレームのイーゼルを広げ、刺すように立たせる。潮風で悪くなるだろうか。まあ、その時はまた買い換えればいい。それに、この絵を描き終えたら今持っている資材の一式をほとんど買い換えようと思っているし。それが単なる気分なのか、私自身の小さな禊なのか。答えは私の中でもうまくまとまっていない。
「いい波」
「いい波ですね」
降秋さんは波打ち際で水平線を見据えている。足首を波が濡らしているが、彼は特に気にする様子もなくそこに立ち望んでいる。
「私は何をすればいいでしょう」
「この場所にいてください。動いたり、座ったり、喋ったり、何をしていただいても構いません」
「それだけでいいのですか?」
「はい、降秋さんには、ここにいて欲しいんです」
「それが、貴方に必要なことなんですね」
支度を終えた私は顔を上げた。降秋さんは私のことをじっと見つめていた。私が頷くと、彼はそうか、と何度か頷いた後、一歩、二歩と波打ち際に進む。
「懐かしい。妻と初めてここに来た時の話は……しましたね」
「ヨルベさんからも聞きました。勝手にごめんなさい」
「気にすることはありませんよ」
彼は足首を洗う波を見下ろすと、少し寂しそうに目を細めて再び水平線に目を向ける。
「何も見えない中で、海辺を漂うノクチルカの輝きだけが見えた。あの景色は今でも忘れられない」
絵筆を用意する。筆洗に溜まった水には多少の砂が浮いて見えたが、私は構わず筆を濡らすと、パレットに練り固められた絵の具を撫でるように梳かす。下書きの済んだ絵をキャンバスに置いて、私はそこに一筆目を落とした。
「妻が消えた時、私が殺したのではないかと言われたこともありました。私が殺したのかもしれないと思った時期もありました。彼女がどこかで生きているかもしれない、誘拐されたのかもしれない。沢山の不安要素を考えていきましたが、そのどれも、納得できるものではありませんでした」
コバルトブルーの海を筆で伸ばしていく。じわりと染みていく色彩が淡いムラを作っていく。
「私は妻を愛していました。それだけは決して変わることがありません。ただ、もしかすると私は、この海で生きる妻の姿に見とれていたのかもしれません」
「だから、奥さんが海で行方を晦ましたと聞いても、穏やかでいられたのですか?」
「穏やかかは分かりませんが、なんとなく合点がいったんです。もし妻が消えるとしたら、この海しかないと。あのノクチルカの光の中だろうと」
海と空の境界を線が走る。ただほんの少し色が違うだけで、一枚の景色として切り取ると、海も空も結局のところ変わらないような気がして、その度に私は得体の知れない浮遊感を感じていく。落ちているのか浮いているのか分からない感覚だ。
「あの輝きはとても美しかった。暗闇に妻がとけて、代わりに潮騒と、水面を跳ねる音と、彼女が歩く度に青白く輝くノクチルカが見える。あの瞬間、彼女は確かにとけていた」
波打ち際に立ち望む若い女性の後姿。白い幅広のフレアスカート・ワンピースに身を包んだ女性は、長い髪を右手で後ろに掻きながら、こちらに向かって微笑んでいる。色を差し込む度に彼女は血色を取り戻していく。遥ちゃんの時のように色が入らないなんてことはなかった。彼女は確かに、色を欲していた。
「結局のところ、私は彼女が消えたことに納得しているのです。ただ、できることならその光景をかたちにして残したかった。私にはできないことです。これまで芸事には縁のなかった私にはとても」
だからビルを一棟買った。三階建てのさっぱりとした住居のうち一室を貸し出して、芸事で私の妻をかたちにしてもらう為に。
「羽美さんと出会うまでのことを考えると、かなりの長旅でした。途中で佳波多くんと遥さんに出会うまでの孤独な旅も、今となってはいい思い出です」
「他の誰かを愛することは、なかったのですか」
顔を上げると、海水は降秋さんの膝下まで呑み込んでいた。彼は振り返って私を見ると、静かに微笑んだ。
「そうできたら、幸せだったのでしょうね」
彼はいつごろ、自分が引き返せないところまで来てしまったことに気がついたのだろう。
水彩が彼女を彩っていく度に、降秋さんが損なわれていくような不安を覚えてしまう。私はもしかして、何か間違っているのではないか。筆を止めるべきではないか。このまま描き続けていった先が怖くなっていく。
「やめてはいけない」
降秋さんの声がした。
「決してやめてはいけない。どんなに不安を感じても」
彼の言葉に従うように、私は紙面上に絵筆を入れていく。ざらつく感触、喉がひどく乾く。水が飲みたいと思った。でも、中断をしてしまうとそのまま戻れなくなってしまう気がして、私は構わず筆を走らせていく。
「羽美さん、貴方にずっと話していた夢の話がありますね。妻がゆっくりと海にとけていく話です。あれを全て現実だとは私も思っていません。ただ、あの中のいくつかは、本当にあったのではないかと思っています」
降秋さんのほうからざぶざぶ、と音が聞こえる。顔を上げると、彼は波打ち際で水を汲み取っていた。掌からこぼれ落ちる海水が水面に落ちて飛沫をあげる。私は女性の足先を海面に溶かしていく。海辺に解けるような肌色の筋を広げる。
「私たちは互いに損なうと、ずっと前から決まっていたと。その言葉は本当に言われた気がするんです。どこで言われたのかは分かりません。ただ聞くとしたら、彼女が行方をくらます間際でしょう」
海面の色を重ねていく度に、降秋さんの気配が薄れていく気がする。
「一つ、最近考えるようになったことがあります。私はもしかすると、羽美さんの為に生きていたのかもいしれないということです。羽美さんが絵描きとして成長するために、私は妻を失うことになった。不思議なもので、羽美さんが現れた時に、私は既に終わりを感じていました。同時に、私たちは何のために生きていたのか。そんな考えが止まらないまま今日まで生活をしてきました」
「それは、違います。私がやってきたのは、ただの偶然です」
「いいえ、少なからず関係していると思いますよ。現に貴方は、自らを立て直し、私と妻を絵に溶かし込もうとしている」
「私が描いているのは、ただの絵です。降秋さんがこの先何度も見返してもらえるような絵を、描いているだけです」
降秋さんはもう、腰まで浸かっていた。
「絵は、出来上がりますか」
降秋さんの問いに、私は頷く。
指先の感覚だけが研ぎ澄まされて、次第に周囲の風景も、景色も、降秋さんも消し飛んでいく。描きたい景色はもうそこにあった。塗り込んでいくだけで、このキャンバスの中に景色が、女性の生命が、降秋さんの見た夢の残り香が染み込んでいく。
空と海の隙間を漂っているような気分だ。海の中に浮いているのか、空の上に沈んでいるのか。全てが消し飛んでいく中で、唯一残った音に耳を傾ける。
潮騒の音がする。
女性の声がする。
降秋さんの慟哭が聞こえる。
絵の中の女性が色を手にすると同時に、周囲の景色も色づいていく。水彩が踊り、アクリルの白波が気持ちよさそうに泳ぐ。雲は空の青を滲ませ、陽光が海面に一筋の光を走らせる。
服の下を汗が流れていく。インナーが張り付いて気持ちが悪い。スツールに密着した臀部がぐっしょりと濡れている。蒸し暑い季節は終わったのに、身体が熱い。動かしているのは指先だけなのに、全身が動いているようだ。
どれだけ疲弊しても、どれだけ不安を感じても私は構わず指先だけに神経を尖らせる。何があってもこの筆を離さない。全てが結実した先にある終わりがどのようなものであるとしても、私はこの絵を完成させなければいけない。降秋さんの長い旅を終わらせるのだ。
私は、今降秋さんの生きる意味を奪い去ろうとしている。
自分の為に、絵を生み出すという理由の為に。
ふと、ヨルベさんが出会ったピアニストの話を思い出した。彼は、こんな気持だったのだろうか。弾くことをやめた彼女を踏み台にして、またもう一度演奏家としての自信を取り戻そうとしていた。「二度と弾かないこと」を条件とした彼女に弾かせてまで。
潮騒が止んだ。
筆が止まる。ああ、終わりが近い。
筆洗に筆を突っ込み、パレットに色を付ける。これまで悩み続けてきた終わり方が、今ならはっきりと分かる。でもその一筆を果たして入れてしまって良いのだろうか。この行為は、何か取り返しの付かないことをしているのではないか。これでいいのか。降秋さんを終わらせていいのか。
旅を続けるだけでも、彼は幸せだったのではないか。
終わらせる必要は、あるのだろうか。
頭の中を様々な思考が巡っていく。様々な人の顔が浮かぶ。やがて卒業し、あの部屋を出て行く遥ちゃんと、佳波多くんの姿。バージンロードを踏みしめる幸江の姿。皆、それぞれの道を選んでいる。
私は、どうなっていくのだろう。
不安が筆を握る右腕を強張らせる。今更考えることではないのに、どうして私は、得体の知れない不安に苛まれているのだろう。辛い。息が出来ない。苦しい。
完成させたくない。ここで止めたい。
「やめてはいけない」
その声が聞こえた瞬間、私の中に音が溢れ出した。それは潮騒ではなく、ピアノの音だった。いつか佳波多くんが海辺で口ずさんでいたあの曲。
トロイメライが鳴っている。
私はきゅっと唇を噛み締める。きつく、きつく。血の味が滲むくらい噛みしめた後、私は指先に力を込め、筆を振った。
顔を上げると、そこには海辺と潮騒の音が戻っていた。貧血にも似た怠さと激しい疲労感を抱えたまま、私はしばらく目の前のキャンバスと海辺とを交互に眺めていた。
少し落ち着いて絵を見た時、初めに感じたのが「青が綺麗」ということだった。海辺に立つ白いワンピースの女性は、こちらを振り向いて笑っている。別れを微塵も感じさせないその姿を見て、私は力なく笑う。
「降秋さん」
顔を上げて彼を呼ぶが、答えはない。
目の前にあるのは、寄せて返す波打ち際と、遠くに見える水平線だけ。私は重たい体に力を込めて立ち上がり、周囲を見回した。どこにも、降秋さんの姿はなかった。
「降秋さん」
もう一度名前を呼ぶが、返事はない。
全てが結実して、終わりに向かっている。
降秋さんの夢の中で、彼女は確かこう言っていた。
【貴方はきっと、私を見つけ出すのでしょうね。なんとなく、そんな気がするの】
私はスツールに再び腰掛ける。
資材鞄から普段使わないアクリルを取り出すと、コバルトブルーをパレットの上に絞り出して筆に馴染ませ、再びキャンバスに筆を向ける。
べったりとした青が白いワンピースを染めていく。彼女の肌を染めていく。
私の脳裏で降秋さんが笑っている。
彼と一緒に、屋上で飲んだビールは、とても美味しかった。
景色の中に確かにあった女性が姿を消していく。足元から、ワンピースの裾から、やがてその青は振り返って微笑む姿を消し去っていく。
彼女の全てを塗りつぶした後、私は小さな声で呟く。
「できましたよ、降秋さん」
自分の頰に触れて、ようやく私が涙を流していたことに気が付いた。それが降秋さんに対してなのか、彼女に対してなのか、それとも達成感から来るものなのか定かではない。
とにかく、今はこの絵の前で泣きたかった。
キャンパスの中に溶けていく。
彼女が海に、とけていく。
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