第六話 舞台の上②


 普段はバスケットボールやバレーといったスポーツに打ち込む為に使われている空間がブルーシートに侵され、並べられたパイプ椅子は大半が遊び疲れた生徒で埋まっていた。舞台上では四人組のバンドが音を鳴らしている。

 遥ちゃんは周囲を見て回りながら慎重に私の後をついてくる。思い切って私が背筋を伸ばして歩くと、彼女もそれを真似して隣に並んだ。表情はまだ強張っているけれど、怯えて動けなくなるよりは、虚勢を張ったほうがいいだろう。

 両親の姿が見当たらないところを確認してから私と遥ちゃんは体育館の隅に座った。ブルーシート越しに冷たい感触がする。でも悪くない。


「あら、降秋さんのところの」


 顔を上げて私は驚いた。


「ヨルベさん」


 彼女はアーモンド型の目をきゅっと細めて笑った。淡いブルーのブラウスと紺色のガウチョパンツでまとめられた今日の彼女は、普段訪ねてくる時より比較的ラフに見えた。私の考えていることが分かったのか、ヨルベさんは自分の身なりを見て今日はオフだから、と笑った。


「遥ちゃんも一緒なのね。さっきご両親がいたわよ。前の方に座っていたから、多分ここなら見つからないと思う」


 ヨルベさんの言葉に遥ちゃんは視線を下ろす。彼女は口角を上げ、私の隣にやってくる。


「目的は、佳波多くんの演奏ですか?」

「ファンなのよ、私。彼の先生と話している時に偶然聴いてね、丁度お休みも取れたから来ちゃった」


 それで、どう。ヨルベさんの問いかけに、私は顔を上げて彼女を見た。吸い込まれそうなくらい彼女の瞳は澄んでいて綺麗だった。彼女は返答を求めていた。


「頑張ります」

「それは良かった。皆瀬さんの作品、楽しみ」

「もしよかったら、上手くいった時のご褒美に、ヨルベさんのピアノを聴かせてもらえたりしませんか」


 彼女は目を丸くする。私は目を逸らさずじっとヨルベさんを見つめ続ける。


「聴きたいんです。一体どれほどの人が損なわれてしまったのか、私は知りたい」


 彼女は吹き出すように笑った。腕組みをしたまま少し屈むようにして、くつくつと震えている。途端に私は少し恥ずかしくなって、顔に熱を感じる。


「急に笑ってごめんなさいね。違うの、まさかそういう返しが来ると思ってなかったからびっくりしちゃって」


 しばらく笑った後深く呼吸をすると彼女はすっかり元通りになっていた。落ち着いていて、大人びたどこか陰を孕んだ女性に。


「それは約束してあげられないかな。もうかれこれ十数年弾いていないし、今更何が弾けるのかも分からない。こればっかりはどうしようもないことなの」

「残念です」

「私はただの仲介人だから、この先あなたに何かしてあげることもできないし、私が変わることもない。皆瀬さんは何か変わったのかもしれない。でもそれは私にとっては、美術館に並べられている額縁のついた絵や、楽譜に起こされた楽曲に過ぎない。もちろん、佳波多くんや遥ちゃん、降秋さんの生活もね」


 準備が始まったみたいよとヨルベさんは会話を切るように舞台上を指差す。視線の先で、スタンドマイクが一つと、舞台袖に移動されてあったグランドピアノがステージ上に動かされる。蓋が開けられ、鍵盤上の赤く厚いフェルト質のクロスが除かれ、手前に一脚椅子が置かれた。

 袖から現れた佳波多くんはピアノをしばらく眺めた後、椅子に座り、高さを調節してから鍵盤に手を置いた。一つ一つの感触を確かめながら、彼は丁寧に旋律を重ねいく。予め決められていたかのようにてきぱき動く彼には、もうピアノ以外見えていないようだった。

 柔和で伸びやかで、無神経な明るさを持った彼のピアノが会場に響く。彼にとって準備運動に違いないその演奏も、会場で雑談に耽る生徒たちを黙らせるには効果的で、次第に激しく技巧的に鳴らされるピアノの音に私を含め、皆が引き込まれていくのが分かった。


「佳波多くん、すごいね」


 ポツリと呟くような声に、遥ちゃんが頷く。ヨルベさんは目を閉じ、腕組みをしたまま満足そうに彼の音を聞いている様子だった。

 感触が掴めたのか、彼はぴたりと演奏をやめるとブレザーとネクタイを脱ぎ、舞台袖に放った。受け取り手がいたのだろう。袖に軽く手で礼をしてから誰かに手招きをした。やがておそるおそる出てきたのは、大人しそうな風貌の女子生徒だった。

 緊張しているのか、何度も毛先を弄っている。セミロングの黒髪で、サイズの大きい制服を着ているのかどこか野暮ったく感じられる姿を見て、私がイメージしていた積極的な子とは大分かけ離れているなと思った。


「真面目そうな子ね」

「アイちゃんは大人しい子だから、この話を聞いた時はびっくりした。だってそんな大勢の前に立つような子じゃないし、好きだからって積極的にそういうことをするとは思ってなかったから」

「好きって、大概そういうものよ」


 ヨルベさんは目を閉じたまま言った。


「正解も不正解も分からないのに、一歩踏み出せるようになってしまうの。良くも悪くも、ね」


 アイちゃんは毛先に触れたまま、恐る恐るマイクに向かって声を出す。小さくて、掠れ気味なその声を聞いた時、緊張の解れていない彼女をちらりと佳波多くんは見ると、ピアノを弾き始めた。ゆったりとした優しいコードの伴奏を聴いて、私はすぐにそれがビートルズのレット・イット・ビーであることに気がついた。

 彼の何度も繰り返される前奏を聴いてアイちゃんは振り返り、微笑む彼を見つめると、深く頷いた。やがて再び正面を向いた時、彼女の表情から緊張は消えていた。

スカートの裾をぎゅっと強く握りしめて、彼女は深く息を吸って歌い始める。

 佳波多くんの繊細で、丁寧な音の折り重ねの中をなめらかに彼女の歌声が馴染んでいく。少しスモーキーになる高音部分を聴いて、私は胸の奥底が掴まれるような気分になった。

 さっきまでの緊張で掠れた声の少女はどこにもいない。

 一人のピアニストと、一人のボーカリストの姿がそこにはあった。

 何故、自分は今日スケッチブックもペンも持って来なかったのだろう。楽しげに、短い時間を丁寧に紡ぎ出す彼と、必死に泣くように歌う彼女の姿を書き残したい。書き残したいのに。

 レット・イット・ビーを歌い上げた後、一瞬の静寂の後、遅れて拍手が鳴り始めた。絞られたピンスポットの中に立つ彼女を、会場が主役と認めた瞬間だった。

 やがて次の曲の演奏が始まる。佳波多くんはただひたすらに歌のために弾き続けている。伴奏に徹し、前に出てくることはなく、彼女が気持ちよく歌える環境を作ることに集中している。以前、私は彼の演奏風景を何度か見たことがある。先生と呼ばれる講師の元で、彼は自己主張の強い演奏を続けては先生に指摘されていた。

 もしかすると彼は、学んでいるのだろうか。学べる相手を見つけたから、この話を引き受けたのだろうか。そう考えると、佳波多くんが伴奏の話を受けた理由もなんとなく納得できた。同時に、ボーカリストの彼女の報われない恋を見せられていることが辛くなった。

 ステージの上で歌う彼女の姿勢は立派だった。

 後でこの風景を、思い出せるだろうか。書き起こせないだろうか。何度も描いては失敗し続けている私の中で、小さなランプが一つ灯るのを感じた。それは、まるで夜道を照らすようなささやかな街灯の灯りのように、私の行く先でぽつんと光っている。

 この絵を描こう。私はそう思った。

 歌を活かすピアノを弾く佳波多くんと、その演奏に負けないように感情を込めて歌うアイちゃん。

 これが描けたら、何かが変わる気がした。いや、描いて変わらなくちゃいけないと思った。

 絞り尽くすように歌い終えたアイちゃんはその場に崩れ落ちた。佳波多くんは立ち上がり、彼女の傍に寄るとそっと手を差し伸べる。彼女は躊躇いながらもその手を取ると彼に微笑みかけ、そして彼にエスコートされながら舞台袖へと消えていった。

彼らが退場しても、しばらく拍手は鳴り止まなかった。

 それくらい、美しい光景を見ることができたという実感があった。


「素敵な演奏だったね」


 私の言葉に遥ちゃんは満足そうに頷く。嬉しいのだろう。友人も、佳波多くんも立派に成し遂げた光景を見られたことか。


「佳波多くん、どんどん上手くなっていくわね」

「前に見たレッスンとは別人でした。きっと、素敵なピアニストに成長しますね」


 私の言葉に、ヨルベさんは振り向いた。

 途端に、拍手の音がぴたりと聴こえなくなった。私も含めて会場中で拍手が続いているはずなのに、今は何も聞こえない。ヨルベさんの顔から目が離せない。


「てっきり聞いているものだと思ってた」


 ああ、その先を言わないで欲しい。胸にちくりと不安が刺さる。返しのついた針みたいに、胸の内に食い込んで離れない。


「佳波多、ピアニストにならないの?」


 振り返ると、遥ちゃんがヨルベさんを見つめていた。


「ピアニストじゃないなら、何になるの?」


 拍手は鳴り止まない。

 鳴り止まないはずなのに、どうしてこんなにも静かなのだろう。

 ステージ上には、鍵盤蓋が開いたままのピアノと、ボーカリストのいないスタンドマイクがスポットライトに寂しく照らし出されていた。

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