第六話 舞台の上①

 気持ちも晴れるような晴天の中、チラシで一杯の紙袋を抱えた少女が私の傍を駆け抜けていった。少女は結んだ黒髪を揺らしながら学生たちのひしめく青い喧騒に吸い込まれるように消えていく。正門に建てられたアーチは色とりどりに飾られ、校舎を騒々しくデコレートしている。学び舎は今や学生たちの手の中にあった。こだわり抜かれた全景に圧倒されていると、降秋さんが私の肩を叩いた。振り向くと、降秋さんは山ほどのチラシを抱えてぐったりしていた。


「高校生は元気ですね」

「律儀に受け取っていたらキリがありませんよ」


 私は彼の受け取ったチラシを、予め持ってきていたエコバッグに入れた。喫茶店とか、ストラックアウトとか、お化け屋敷、子供向けプラバン工作、絵画や研究の展示発表。様々な手書きのチラシを見ながら、私は懐かしさに胸がきゅっとなる。


「羽美さんが学生の時は、どんなことをしましたか?」

「今と特に変わりませんよ。絵を描いて展示して、それだけです。あとは頼まれた掲示物のイラストを手伝ったりとかですね」


 幸江や友人たちと集まって、下校時刻を過ぎても熱心にポスターに向かっていた頃のことを思い出す。感覚でやってしまう私と、丁寧さが売りだった幸江とでああでもない、こうでもないと口喧嘩ばかりしていた。そんな時間も含めて充実感があった。


「こういうのって、準備をしている時が一番楽しかったりするんですよね。私、いつもより遅い時間に立ち寄るコンビニが好きだったんです。いつもより緩くなった門限一杯まで友達といたくて」

「戻りたいと思いますか」


 降秋さんの横顔は穏やかなままだった。

 戻りたいだろうか。ただ描くだけで楽しかったあの頃に。


「そろそろ入りましょうか。遥さんが運営委員をしているそうです。ああ、今日ですが、少し別行動をさせてもらいますね」

「何かあるんですか?」


 いえ、大したことではないんです。降秋さんはそう答えると、校舎を見上げる。視線の先には、舞台イベントの垂れ幕が垂れ下がっていた。


「親がね、来るんですよ」


 彼の言葉を聞いて、すぐにその両親が遥ちゃんと佳波多くんのことだと察した。無理を言って家を出てきたという双子たちと、それを助けている降秋さん。きっと、こういう時に定期的に近況を伝えているのだろう。



 リノリウムの懐かしい床が見えないくらい、校舎は生徒や一般の人たちで賑わっている。飾り付けられた教室から勉学の香りは消え、純粋な感性で彩られ、秩序が薄れた屋内は、それでも普段より瑞々しく輝いて見える。晴天の空が似合う騒々しさの中にいると、心穏やかな気持ちになれた。

 生徒たちは怖いものなしだ。一人とぼとぼと歩く私を見ると、女子生徒は元気な挨拶とともに私を囲い、脇を固め、あれよあれよという間に私は二階の一室へ連れて行かれてしまった。四つの机にクロスとビニールを使って簡易的なテーブルを誂え、黒板にはメニュー、傍にはホットプレートと格闘する男子生徒と果物を切る女子生徒の姿があった。気がつけば私は、ケトルとティーパックで淹れられた紅茶とパンケーキを味わいながら、のんびり窓の外に広がるグラウンドの景色を眺めていた。元気な女子生徒の勢いのある言葉に従っていたら、どうしてかこうなっていた。

 窓から見えるグラウンドではPKゲームが催されている。サッカーゴールにはがっちりとした体格の生徒が立ちはだかり、足元のボールをどこへ蹴り込むべきか悩む少年に父親が後ろから熱心に声を掛けている。頬杖を付きながらぼんやりとそれを眺めていると、私を呼ぶ声が聞こえた。

 振り向くと、遥ちゃんの姿があった。腕に運営委員の腕章を身に付け、いつも流している髪はハーフアップにまとめられていた。彼女は私の向かいに座り、小さくため息を一つつく。


「探しちゃったよ。羽美ちゃん連絡しても全然返事くれないから」


 言われて私は手元のショルダーポーチから携帯を取り出す。確かに着信が何度も入っていた。


「ごめん、外の景色眺めてたらぼうっとしちゃって」

「何か珍しいものでもあったの?」

「PK戦」

「サッカー部の出し物? 羽美ちゃんサッカー好きだったっけ?」


 不思議そうにする遥ちゃんに私は首を振る。


「別に興味はないんだけどね」


 どちらかと言えば、純粋にイベントを楽しむ人たちの姿を見るのが楽しかった。もう一度窓の外に目を向けると、さっきの少年はいなくなっていた。彼のシュートは入ったのだろうか、入らなかったのだろうか。


「羽美ちゃん、来てくれてありがとうね」


 遥ちゃんの声に視線を戻すと、彼女は机に突っ伏しながら私を見上げていた。掛けられた声も、どこか力ないものだ。「どうしたの?」と尋ねてみるも、彼女からの返事は呻くような曖昧だ。よほど疲れたのだろう。私は遥ちゃん用に紅茶をもう一つお願いする。


「準備大変だったね、お疲れ様。文化祭って色々やらなくちゃいけないから大変だったでしょ」


 なんとなく彼女の疲労の理由は分かっていた。降秋さんの話にもあった、両親の存在だろう。でもそこに触れて良いのか分からなくて、私はなるべく触れないように彼女を気遣った。


「今日ね、佳波多がピアノ弾くよ」


 唐突に言われて、私は戸惑う。遥ちゃんは顔を上げると、憂鬱そうに視線を窓の外に向けた。あまり正面切って言いたくない話のようだった。


「四時くらいから。体育館の舞台イベントで、女の子の歌に伴奏で混ざるんだって。最近はそんなこともしてたから余計に帰りが遅くなってたみたい」

「何歌うの?」

「知らない。選曲は佳波多がしたらしいから、知らない曲かも。アイツってコンサートもそうだけど、分かりやすい曲とか絶対に選ばないから」

「でも、歌う子が曲を知らないとうまく歌えなくて困っちゃうんじゃない?」


 こういう年頃の子って、特に受けることとか、かっこよさを意識するものだと私は勝手に思っている。学生時代、美術室のベランダから見た中庭の小さなコンサート会場で出演する人たちは、どこかで一度は聞いたことのある曲をやっていた。今でもそういった流れは変わらないのではないだろうか。

 好きなの、と遥ちゃんは言った。


「その子が佳波多を好きなの。私は、佳波多にその子を紹介して、きっかけを作ったの」

「ああ、どうりで」


 一緒の時間を過ごすほうが大事なわけか。若いっていいなと私は思わず笑みを零す。


「なんで遥ちゃんが憂鬱そうにしてるの?」

「だってさ、脈がないのを知ってるのに協力してるんだよ。なんか、申し訳ないっていうか」

「いいのよ、その子は佳波多くんと距離を縮めたかった。遥ちゃんはそれを手助けした。それが結果に結びつくかどうかなんて当事者同士の問題なんだから。遥ちゃんはそのチャンスを作っただけ。変に責任を感じることなんてないよ」

「でも」

「そういう子って、大抵脈がないって気がついてるものだから。それでも行きたくなっちゃうの。限りなくゼロに近くても、打てるだけの布石は打っておく。もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。その可能性に賭けちゃうものなのよ」

「私、恋愛とかわけ分からない。彼氏ってできたらそんなに偉いものなのかな」

「実は、私も未だによく分かってないんだ」

「でも羽美ちゃんは、付き合ったこととかあるでしょ」

「もちろん。でも、あんまり長続きしたことなかったな」


 付き合った経験もあるし、身体の関係を持った人だっている。幼い頃の淡い恋心とか、拙い電話とか、思い切って作ったお弁当とか、初めて触れ合った時とか。

 でも、そのどれもがうまく結びつかない中で、絵だけは淡々と続いた。やがて私にはこれしかないと思い始めて、それからもう随分と恋をしていない。いや、そういうことを考えることをやめた。いや、どちらかと言えば絵を選んだのだ。

 もちろんその後だって何もなかったわけではない。職場で時々良いなと思う瞬間もあったし、このまま付き合ってしまうんじゃないかと思うこともあった。このまま流れに任せたら多分寝るんだろうなと分かることもあった。最近では恋愛を一つのコミュニケーションとして割り切れるようになってきたと、そう思っていた。そんな私が、どうしてこの間の佳波多くんの言葉に動揺しているのだろう。


「私も、いつかは恋とかするのかな」

「遥ちゃんもするだろうね。結構突然くるものよ、好きな気持ちって」

「羽美ちゃんも、そうだった?」


 私は頷く。


「普段から気をつけるようにしていても、恋は突然やってくるものだから。そうなるともう居てもたってもいられなくなる。それくらい手がつけられないものなのよ、恋愛って」

「そうなの?」

「読んだ本で共感した一文の受け売りなんだけどね」

「分からないなあ」

「遥ちゃんもそのうちね、これかって思う瞬間があるかもしれないよ」


 ふうん、と遥ちゃんは無感動に答え、肩を竦めると紅茶を口にした。彼女の青さに甘酸っぱくなりながら食べたパンケーキは、少し粉っぽいけれど、甘くて美味しくて、なにより温かかった。


「今日ね、パパとママが来てるの」


 独り言のように彼女はそう口にした。へえ、と私はなるべく穏やかな口調で彼女の言葉を受け止めることを心がける。


「本当は、二人とも私たちが家を出るのを反対してた。佳波多はともかく、私まで出ていく意味が分からないって。だから、あまり会いたくないっていうか……降秋さんのとこに住まわせてもらったのに何も明確な夢とか、将来が浮かんでないって知ったら、どう思われるのか不安なの」


 遥ちゃんのカップを持つ手に、少し力が入る。


「佳波多だけ出ていくのが嫌だった。羨ましかった。だから適当な理由つけて、私も一緒に出てきた。そうしたら何か見つかるって、パパもママも納得するような理由は後からついてくるって、そう思ってた」


 弱々しい眼差しを手元のカップに向ける彼女を見て、私は微笑む。


「遥ちゃんは、優しいね」

「そんなことないよ」


 首を振る彼女の手に包むように触れた。


「だって、色んな人のことを考えてるもの。私とか、降秋さんとか、佳波多くんとは違う、ちゃんと人のことを、周りを見てる。とっても優しいよ」


 だから。

 だから?

 私は、その先に続く言葉を口にしようとして、一瞬躊躇った。私が遥ちゃんに説く権利なんてあるだろうか。何もかも中途半端にしてきて、今をただ消化するように生きている私に。未来を模索する彼女へのエールなんて。

 少し考えて、それから私は言葉を変えた。


「いつでも逃げ場すればいいよ。私といる時は、自分のことだけ大切にするの。そういう居場所がないと、きっと疲れちゃうから」

「そんなの……いいの?」


 躊躇いがちに私を見る遥ちゃんに、私は笑って頷く。


「いいよ。隣にいてあげる」


 私がそう提案すると、遥ちゃんは不思議そうに私のことを見つめた後、やがてくすぐったそうな、照れた笑みを見せてくれた。初めて見る、遥ちゃんの朗らかな表情に、私も心が和らいだ。

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