第五話 進路相談②


 幸江と再会したのは、電話から一週間ほど経ってからだった。

 仕事を早々に切り上げ、通勤特急にぎゅうぎゅうに押し込められながら飲み屋街に向かうと、改札前で彼女は待っていた。

 身辺が変わると人は身にまとう空気も変えられてしまうものなのだろうか。パーマのかかっていたセミロングの髪は襟元で綺麗に切り揃えられてショートになっていた。私の声かけに振り向いた彼女の耳元で、スイング・タイプのイヤリングが大きく揺れている。これも初めて見た。もしかすると、恋人の前だけで見せていた姿なのかもしれない。


「びっくりした。イメチェン?」

「思い切ってね。いい加減長いのもうんざりしてたから」


 恥ずかしそうに短くなった前髪を弄る彼女の薬指には婚約指輪がぴたり収まっている。てっぺんに一粒のダイヤモンドが光を受けて輝いているのを見て、私は改めて彼女が本当の本当に誰かと一緒になることを実感した。

 絵と向き合っていた頃からうんざりするような退屈な社会人生活へと変化していった中で、幸江はちゃんとその道で生きる意味を見出していたのだ。躊躇っている私とは違って。


「とりあえずどっか入ろう。最近かしこまったところばっかで疲れちゃった。適当な居酒屋とかでいい?」

「いいよ、挨拶とかももう終わったの?」


 幸江の隣を歩きながら尋ねると、ほんと疲れた、と彼女は笑った。義母さんに対する気遣いとか、式場探しとか、顔合わせとか、決めることが多すぎて目まぐるしい日々だと。そう言いながらも、彼女の口ぶりは、その目まぐるしさを楽しんでいるようだった。

 適当に入った狭い焼き鳥屋の個室で飲み物とつまみを頼む。心なしか、彼女の服装も少し柔らかい色合いになった気がする。


「じゃあ、幸江の結婚に乾杯ね」

「ありがとう」


 互いのビールグラスが鈴のように鳴る。美味しそうに喉を鳴らす幸江の姿を見て、私も一口飲む。


「幸江の相手って、どんな人なの」

「職場の人。新人の頃に色々お世話になって、色々相談してるうちに付き合った」

「そっか、学生の頃そういう話したことなかったから、正直びっくりしたよ」

「ずっと絵の話だけだったしね、私たちは」


 好きなことにだけのめり込めていたあの頃のことを、幸江は懐かしそうに思い出しているようだった。私よりも早いペースで飲んでいく彼女を眺めていると、「絵はどう?」と彼女は言った。

「どうだろう」

「まだ悩んでるの」

「何を描こうか、悩んでる」


 私の返答に幸江は顔を上げる。意外そうな顔でこちらをじっと見つめているのを見て、私はグラスを傾ける。


「意外。立ち直ったんだ」

「立ち直ってはいないよ。今も全然描けないし」

「でも、描こうと思ったなら、十分進歩よ」

「私なんかより、幸江のほうがずっと先に行ってるけどね」


 幸江は声を上げて笑い、ビールのおかわりを頼む。頬にチークが広がっていく。


「私はいいのよ。羽美がそれを目指してるわけじゃないんだから」

「でも、結婚でしょう。私だっていつかはするんだろうし」

「相手は?」私は首を振る。「いるわけない」

「羽美はまだしばらくなさそうじゃない。なんか、結構先だと思う」


 嫌な予想だ。でも、相手すらいないのだから否定のしようがない。


「結局のところ、羽美は絵しかないのよ。諦めたって言いながら諦めきれなくて鬱屈して、フラストレーションばかり溜めて生活してる。断筆生活が続くわけないだろうなって思ってた。そんな気持ちで恋だ結婚なんて集中力が必要なものに意識が向くわけないもの」

「そこまで予想されてたの?」

「当たり前でしょう、私はあなたのファンなんだから」


 ファン。その言葉に私はどきりとした。幸江は酔いの進んだ緩い目でこちらを覗くように見つめ、頬杖をついて薄く笑う。


「知らなかった?」


 幸江と過ごした日々で、そんな言葉を聞いたことがなかった。いつだって彼女は私の絵を一番鋭く批判する人で、互いに凌ぎを削り合う相手だった。幸江の描く丁寧で緻密な世界に憧れ、悔しい気持ちを何度もした。彼女の言い返せないくらい的確な指摘に泣いたりもした。少なくとも私は、私の絵は、彼女に好まれてはいないと思っていた。

 だから、私が絵を辞めると言った時に幸江がひどく反対したことに、私はとても戸惑った。他者を気にかけるタイプでないのに、何故自分が辞めた道を、私には強要するのだろう、と。


「初めて見た時は、なんでこんな淡いんだろうって思った。水彩なんかにこだわらないで、たくさんの技術を磨けばいいのにって」


 皆瀬さんは、淡いよね。幸江が初めて私と言葉を交わした時の言葉だ。


「そう思うんだけど、誰の批評にも構わず自分の世界を構築して、支持者を増やしていくあなたの姿を見ていたら、この先に何が待ってるのか、見たくなってね」


 グラスを傾ける。底の泡がぷつぷつと立ち上っていく。


「傍で、少しでも刺激になったらいいなって思った。そうしたら近くであなたを見ていられるって。私は何かから外れるほどエネルギーに満ちた絵は描けなかったから。せいぜい優等生止まり」


 ねえ、と幸江は続けた。


「昔描いた絵って、残ってたりする?」


 はじめ、その言葉の意味するところが分からなくて、私は戸惑った。


「資材とかは全部運び込んでるからあると思うけど……どれも未完成のままだから」

「未完成のものをさ、飾ろう」


 ここまで来ても、彼女の言わんとしていることが全く分からないでいた。幸江は変わらずグラスを傾け、朱の差した頬を柔和に引き上げて笑う。グラスを持つ左手の指輪に触れながら、彼女は言った。

「個展を開くの。羽美の」



 終電間際の電車に揺られ、火照りの残る身体を引きずりながらどうにか家まで辿り着く。腕時計はもう0時を過ぎていた。

 あの後も、彼女は一貫して、私のこれまでの未完成の絵を飾る話を続けた。断っても、断っても、彼女は次から次へと予定を組み立てては提案し、私を困らせた。幸江の結婚話を聞くつもりだったのに、結局大したことは聞けなかった。式が決まったら招待状は送るから、と帰り際に彼女は言ったが、気持ちはすっかり私の個展に向いている様子だった。

 重たい身体で階段を一段、一段と上がる。突拍子もない話のせいか、いつもより酔いが回ってしまった。


「羽美ちゃん、大丈夫?」


 手すりに寄りかかって、振り返ると、階下に佳波多くんの姿があった。彼は私の身体を支えて二階まで連れて行ってくれた。ポーチから鍵を掘り出し、部屋の中に入るとそのままベッドに転がる。


「羽美ちゃん、こんなに酔うことあるんだね」

「ごめんね、今日はちょっと色々あって」


 幸江の結婚話とか、個展の話とか、酔いのせいか今日の話が口から漏れていく。佳波多くんは私の支離滅裂な話を頷きながら聞いてくれた。受け取ったミネラルウォーターの冷たさが心地よかった。


「個展で、しかも未完成品だけなんて。変な提案よね」

「そうかな。俺、羽美ちゃんの絵をもっと見たいから、行くよ」

「完成品ならいいのよ。未完成だけだなんて……そんなの、見てくれる人に失礼よ」

「人によって何が完成品で、何が未完成かって分からないもんだよ。完璧だと思っても、他者の気持ち一つで何かが欠けてるって言われること、沢山あるし」


 面倒だよね、何かを表現するって。佳波多くんは穏やかな顔で私にグラスを手渡してくれた。


「一回、できなかったものをまとめて飾っちゃうのも、ありかもしれないよ」

「そう、かな」

「案外楽しいかも」佳波多くんは歯を見せて明るく笑う。一回りも違う高校生に励されて、介抱されていることが恥ずかしくて、私は両手で顔を覆ってしまう。

「お友達の結婚、めでたいね。お祝いしなくちゃ。ほら、ウェルカムボードとか。あれを描くとか、良いプレゼントになりそう」

「作れるかな」

「きっとできるよ。なんなら俺もピアノ弾くし」


 覆った手の隙間から彼を見る。佳波多くんは、私の隣に腰を下ろしている。細長い目元と綺麗なまつ毛が、シーリングライトの白色光を受けて輝いている。


「でもな、しばらく結婚できないなんて言われたし、素直に祝うのもやだな」


 冗談混じりにそう言うと、確かに、と佳波多くんは頷く。


「羽美ちゃんは相手探しで困りそうだね」

「言わないでよ、ちょっとくらい励ましてくれてもいいじゃない」


 じゃあさ、と佳波多くんは言った。


「将来の俺とか、どう?」


 思わず、覆っていた手をどけて、彼を見てしまった。

 さっきまで酔いの回っていた意識も、気だるい胸焼けも、眠気もさあっと引いていく。

 目の前の佳波多くんは、変わらない穏やかな笑みを浮かべて、私を見つめていた。

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