第七話 いつか、ノクチルカが①

 絵の中で佳波多くんがピアノを弾いている。

 その傍には少女が一人、憂いを帯びた目でマイクスタンドに両手を添えて歌を歌っている。あの時の光景を覚えているうちに描いておいて良かった。下絵でも、十分な力と手応えがある。果たしてこれを最後まで描き切れるかは別にしても、良い出だしだ。

 降秋さんが望む絵は、今も長く広い迷路を彷徨い続け、下絵にすらたどり着けないでいるのに、彼らを写したこの下絵ははっきりと、行き着く先を指し示していた。着色を待つ線画を眺めながら、私はずっとスツールの上に胡座をかいている。マグカップに入った珈琲を啜り、空想の中で色を乗せる。

 カレンダーにたっぷりと入った赤いバツマークの、丁度真ん中辺りに私はいた。幸い仕事にとっぷりと浸かっていた時期がある分、使える休暇は多く、その溜まりに溜まった有給で私は長い休みを取得した。上司には旅行と伝えておいた。長い長い白紙の旅だ。私の休暇理由を聞いて彼は一瞬顔をしかめたが、いってらっしゃいの一言だけで、それ以上は何も言わなかった。


「音楽の道には行かないよ」


 演奏を終えて戻ってきた佳波多くんは、ヨルベさんの言葉通りはっきりとそう口にした。私は、彼がこの先どこへ行くつもりなのか聞きたかった。あれだけ弾けて、将来性もあると周囲に言われながら、どうして敢えて違う道を選ぶのだろう。

だが、その疑問を尋ねることは叶わなかった。


「ほんとに?」


 私の言葉よりも先に遥ちゃんの問いかけがあったからだ。


「ほんとだよ」


 短い返答を聞いた後、遥ちゃんはもう何も聞かなかった。佳波多くんもそれ以上この話題に触れることはなかった。おそらく、双子だからこそ汲み取れる何かがあったのだろう。

 降秋さんはもちろん、ヨルベさんですら二人の静かな問答には触れなかった。

 それから二人は両親と久々に会って、何気ない会話をして文化祭を終えた。部外者である私とヨルベさんは遠巻きにその光景を見ていたが、言い争うこともなく、ただ近況報告を語り続ける佳波多くんと遥ちゃんの姿は、少しだけ、いつもと違うよそよそしさがあった。

 後ろめたさと、レールから外れたい反抗心と好奇心とがないまぜになって、どうしたらいいのか分からなくなっているのかもしれない。


【たまには帰ってきなさい】


 父親の言葉に佳波多くんははにかみ、遥ちゃんは目を逸して頷いていた。



 あれからしばらく二人には会っていない。時々降秋さんが私の部屋にやってくるが、二人の話題が出ることはなかった。そういう期間なのだろう。特に遥ちゃんにとっては、今一人になるべき時期で、私は彼女が自らやってくるまで待ち続けるしかない。

 それに、私も彼女のことだけを考えている訳にもいかない。チューブからスチール・タイプの水彩パレットに色を移し、筆洗に筆を突っ込む。どこから塗るべきだろう。足元にマグカップを置き、左膝の上に右足を乗せたまま身を屈めて絵をじっと見つめる。遠景から捉えた二人の演奏風景。左右にまとめられた分厚い暗幕と、スポットライトに照らされた二人の姿。今でも鮮明に思い出せる。白色光の下でてらてらと輝く鏡面仕上げのグランドピアノの色気のあるあの黒色も、スタンドマイクの凛とした佇まいも、全てが美しかった。

 それにしても、彩色なんていつぶりだろう。ブランクがあるのに、緊張もプレッシャーも気難しさもなく、ただ良いと思う色を落とせる自分に少し戸惑う。イメージしたままに、色がしなやかに伸びていく。私は今、とても調子がいい。

 カーテン越しに日が暮れていく。シーリングライトの無感動な白色光に照らされた下絵に次々と色を塗り込んでいく。彼女の声が頭の中で響く。嘆くような、鬱屈を吐き出すような切ない高音の叫びから、気だるそうな低音の囁きまで、全てが愛おしい。あれこそまさに青春の味だった。

 どうしようもないくらい人を好きになってしまう瞬間が人にはある。どれだけ気をつけていても落ちてしまう時は一瞬だ。眼鏡の少女にとってのその瞬間はきっとあの時だった。腰砕けになった彼女に手を差し伸べる彼の姿と、それを受け取る彼女の姿を見て、叶うにしても叶わないにしても、きっと彼女は想いを告げるだろうと思った。

 佳波多くんはそれを聞いて、どう受け取っただろうか。

 彼は、一体何に恋をしているのだろう。音の道に踏み込まないというのなら、どこへ行こうと言うのか。

 ヨルベさんは理解できたのかもしれない。見えている道筋をわざわざ閉ざす意味を。

 不意に、筆を落とした指先が痺れるような感覚を覚えた。酸素を求めるダイバーのように没入していた意識が浮上していく。気が付かないうちに、目の前の絵画は鮮明な色を映し出していた。こんなに色を出していただろうか。小さなパレットの縁を更に細かく割り、もはや混ざりすぎて薄気味悪い色の箇所すらあるくらい、様々な色が手のひらの上で生成されていた。

 小さな痛みのような感触に離した筆の先を見つめると、そこには一人の少女の下絵だけが残っていた。満遍なく色を塗り込んだ世界で、彼女だけが真っ白で、ブランクになっている。すぐに分かった。これは遥ちゃんだ。

 私は遥ちゃんの色が分からない。演奏している時の佳波多くんと歌う少女の色は鮮明に浮かんだのに、それを見つめる彼女の後ろ姿にだけ色を落とすことができなかった。こうなってしまったらお手上げだ。私は絵筆を筆洗に投げ入れ、パレットを置くと床に身を投げだした。天井のライトが眩しくて、私は左手で光を遮り、目を閉じた。



「羽美さん、入ってもよろしいですか?」


 どれだけ意識が飛んでいたのだろうか、降秋さんの声で私は跳ねるように起き上がった。

 どうやら私用を終えて帰ってきたらしい。

 それにしても、彼がいつどこで何をしているのか、私は未だに知らない。この住宅内での姿を除いて、彼はそういう部分をひた隠しにしているきらいがある。

 みんな、もっとシンプルになれたらいいのに。自分のことで精一杯だったはずなのに、いつの間にか、色んな人たちについて考えてしまう。遥ちゃんは、こんな風に周りのことばかり考えていたのだろうか。扉を開けると、降秋さんはいつもの外出用のグレーのジャケットとストライプのボタン・ダウンシャツを着て立っていた。手には洋菓子用の紙袋を持っている。


「帰りに美味しそうなタルトを見つけたんです。よければ一緒にどうです?」


 彼は袋を目の前に掲げる。降秋さんのチョイスに間違いはない。


「いいですね。お茶、淹れます」


 彼を部屋に招き入れながら、私は茶葉をティーポットの茶漉しに入れ、薬缶を火にかける。降秋さんはローテーブルに袋を置き、ジャケットを脱いで掛けられる場所を探していた。私は彼からジャケットを受け取って、クローゼットの中に残っていたハンガーに掛ける。


「長期休暇はいかがですか」

「長く休むと逆に調子が出ないものですね」


 彼は明るい声で笑った。


「あれほど余裕を欲しがっていたのに、いざ有り余るとそれはそれで苦痛で……。一日中イーゼルの前に座り続けるとおしりも痛くなるし、集中力も保たなくて、雑念ばかりで手が動かなくなります」

「今日も何か描いていたんですか?」


 私は頷く。作業場の方を指差すと、彼は興味深そうに部屋に足を踏み入れ、イーゼルの絵を覗き込んだ。


「この絵にタイトルはあるんですか?」

「私は【舞台の上】って呼んでいます」

「いいですね」


 降秋さんはしばらく絵を観察した後、キッチンに立つ私を見て、言った。


「彼女は無色のままでいいんじゃないでしょうか」

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