第四話 冷めきったスープ①

 

 遥ちゃんはとても要領がいい。

 自分の頭の中できちんと筋道を立てて行動をするから、何をするにも時間がかからず、テキパキと作業が終わる。ピアノ以外はてんで不器用な佳波多くんとの違いはそこだった。

 住み始めて、今この住居を取り仕切っているのが遥ちゃんであることに気がつくのに、そう時間は掛からなかった。いつも用事を作っては出かけ、時折私との会話や散歩に出ること以外何もする様子のない降秋さんと、ピアノに没頭する佳波多くん、そして賃貸契約者の私。

 この場所をまとめる役割を持つ人は、彼女しかいない。

 たまたま遥ちゃんと二人きりになった時、私は彼女を食事に誘ってみた。有り合わせの食材で作った料理だったが、彼女は美味しいと喜んでくれた。私は私で一回りも違う子との会話に少し気分も良かった。


「遥ちゃんは手際が良いよね。妹にすごく欲しかったな」


 普段とは違う環境で、少し私も気が大きくなっていた。そんな話題をポツリと食事の中で話した時、彼女は少し寂しそうな顔をした。


「私は大したことないです。佳波多のほうが全然しっかりしてます」


 その言葉をはじめ私は謙虚と取った。だが、少し困ったように笑う遥ちゃんの表情を見てしまったな、と思い直した。空になった皿を片付けに遥ちゃんは席を立ち、キッチンへ向かう。


「気にしないで、私は食器を洗うから、遥ちゃんはゆっくりしていて」

「私、お掃除好きなんです。だから、やらせてください」


 キッチンのシンクに食器を置きながら遥ちゃんはとても明るい声でそう言った。その声は、ピアノを語る時の佳波多くんにとても似ていた。


「昔から綺麗にするのが好きだったんです。佳波多がそういうの面倒臭がるっていうのもあったんですけど、両親が掃除している姿を見てて、さっきまで散らかっていたところとか、埃が積もっていた場所とかがピカピカになるのを見てるとすごく気分が良くって」

「掃除が好きって良いね。私、絵を描いてる時なんて特に散らかしちゃうし、そのままが多いから。あの時片付けておけばってよく後悔するよ」


 洗剤を適量垂らしたスポンジで食器を洗っていく。細かい所は指先で撫でるみたいに丁寧に擦っていく彼女の手際を見て、普段の私の洗い方がどれだけ大雑把なものなのか思い知らされた。


「勉強も、散らかっているものをどうしたら綺麗にできるだろうって考えるようになってから上手くいくようになったり、普段の生活でも綺麗にすることを意識してから手際よく動けるようになったんです」

「遥ちゃんの根本にあるものは、綺麗にしたいって気持ちなんだね」彼女は頷く。「私は別に要領がいいとかじゃなくて、自分のしたいことが偶然うまく合致したってだけなんです。だから、自分の手で結果を生み出そうとしてる佳波多とか、羽美ちゃんに比べたら、あまりすごくないんです」

「そんなことないと思うけど」


 遥ちゃんは蛇口の栓を捻った。冷たい水がシンクを叩く。吐き出される水の中に食器をくぐらせながら、彼女は小さな白い手で洗い逃しを確認していく。


「できるのと、したいのって違う気がするんです」


 遥ちゃんは洗い終えた食器を私に差し出す。私はそれを受け取って布巾で拭っていく。その間にも彼女はゆっくりと、汚れのないよう丁寧に食器を水で洗い流していった。



 遥ちゃんを見送ったあと、寝支度を終えて、ベッドに寝転がる。天井をキャンバスに見立てて指先を絵筆のように宙で動かすと、気分が落ち着く。遥ちゃんがいる間はリラックスできたが、一人になって孤独を感じた途端に、どこからともなく不安はやってくる。

 描く約束になっている絵については今も白紙のまま何も進行していない。ラフを描いても、これだと思えるものがなくて、結局右往左往している。それと、再び絵に思考を巡らすようになってから仕事が遅くなった。この辺りに何か関係があるかは分からない。けれど、私は恐らく両立できない人間なのだろう。

 遥ちゃんならできるだろうか。いや、遥ちゃんだって私や佳波多くんと同じだ。生活面での利害が一致しただけで、好きなことを一番に考えてやっているに過ぎない。


「好きなことやって、褒められる」


 単純なこと。でもそれが一番難しいことを私は知っている。私はそのプレッシャーに一度負けてしまった。どこまでも落ちていきたいと思っていた情熱が一瞬にして凍りついた。

 その結果、絵が仕上げられなくなった。

 願わくば、佳波多くんはそのまま落ち続けて欲しいと思う。私の姿を見て、参考にして欲しい。私は一度負けた。負けて飛び込めなくなって、こうして社会に溶け込んだふりをしてどうにか生き延びている。

 私は冷蔵庫に残っていたビール缶を一つ手にし、部屋を出て階段を登る。一階の明かりは消えて、集合玄関の先も静寂が立ち込めている。佳波多くんはまだ帰ってきていないようだった。

 三階のその更に上へ登っていく。屋上の鍵を回そうとして、扉がすでに空いていることに気がついた。私が覗き込むように屋上に目を向けると、空っぽの物干し台たちの中に降秋さんの姿があった。

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