第三話 ヨルベミチコ②


「皆瀬さんが入居してから、二ヶ月くらい経ったかしら」

「三ヶ月です」

「そっか、時間はあっという間ね」


 ヨルベさんはそう言うけれど、言葉に感慨の類は一切感じられなかった。淡々とした調子で語る辺り、ここの入居者に対して、彼女は特に興味がないのだろう。

 ここに入ってくる時も、大した審査はなかった。何ができるのかという一点だけ聞かれ、それでおしまい。私の場合は絵。他には作曲家とか、声楽とか、デザイナーなんかもいたらしい。結局どれもこれも契約満了か、それより短い期間で去っていったそうだ。


「ヨルベさんは、どうしてここの斡旋を担当しているんですか」

「別に私がなろうとしたわけじゃないわ。彼が私を選んだだけよ」


 ヨルベさんは退屈そうに答え、テーブルの真ん中に置かれたクッキーを一つつまむ。


「私はスッパリと諦められた人間だったから、夢の切れ端を追いかけている人をうまく選別してくれるとでも思ったんじゃないかしら」

「ヨルベさんは、以前なにをされていたんですか」

「ピアノ」彼女は一呼吸置いてから更に続ける。「何度かコンクールに出たけど、結局興味が湧かなくなっちゃって辞めたの。それなりに弾けたんだけどね。この先ピアノに自分の全てを賭けられるか考えた時、長続きしないなって結論が自分の中で出ちゃって、それ以来ピアノはほとんど触ってないわ」

「全てを賭けられるか、ですか……」

「ようするに、心中相手としてはイマイチだったのよ」


 薬缶の笛が悲鳴をあげる。私は火を止め、ティーポットに湯を注ぐ。たっぷり吐き出される湯気から柑橘の柔らかな香りがする。重たくなったティーポットをテーブルに運び、二つのカップに紅茶を注いでいく。


「降秋さん、必ずこの紅茶を用意してくれるのよね。私が柑橘系が好きだって知ってるから」

「降秋さんは、どうして奥さんの話に固執するんでしょう」


 向かいに座って私も紅茶とクッキーを口にする。柑橘の香りと、程よく甘いクッキーの組み合わせが丁度いい。いくらでも食べられそうだ。

ヨルベさんは「知らない」とだけ言ってクッキーをかじった。


「てっきりヨルベさんは知っているのかと」

「あまり踏み込むの、好きじゃないのよ」


 ヨルベさんは口の端についたクッキーの欠片を指でつまむときれいに舐め取る。


「私ね、人にあまり興味が持てないの。必要な情報だけ受け止めて、終わったらすぐ忘れちゃうから、降秋さんくらい長い付き合いの人ってほとんどいないのよね」

「でも、知らない」

「はじめに必要な連絡事項だけ受け取って、それだけ。定期的に入居者とか彼の様子を見に来たりはしているけど」


 だから、あなたも知らないほうがいい。

 ヨルベさんの言葉の端々から感じるそれを受けながら、でも、知らなければ何のしようもないとも思う。だって私は、彼の見たい景色を描かなくてはいけないのだから。


「そうやって、人の目を気にしてきたのね」


 いつの間にか伏せてしまっていた顔を上げる。カップに紅茶を再び注ぎながら、彼女は続ける。


「感受してもらえることに慣れていくと、知らないうちに自分と周りの意識の境目が分からなくなっちゃうのよね」


 マドレーヌを手にとり、紅茶に浸して食べる。ヨルベさんはマイペースに自分の楽しみ方でティータイムを楽しんでいる。私は、彼女の様子をただ眺めていた。


「昔ね、私に執着していた子がいたの。彼も似たようなイップスに陥ってた。途中で弾けなくなっちゃうっていう精神的な不具合ね。どうにかしなくちゃって思えば思うほど弾けなくて、とても辛そうだった」

「その人は、どうなったんですか?」

「さあ、どうなったのかしら。弾かなくなった私のことを勝手に恨んでた。それだけ弾けるのに、なんでそんなにきっぱりと諦められるのか理解ができないって。随分な執着だったわ。仕方がないから、彼と一回だけ連弾をした。彼も必死だったわ。イップスを克服する為にできることを探し続けていた」


 私はその状況を想像する。しなやかに、鮮やかなに、丁度この間の佳波多くんのように鍵盤を叩く彼女と、その横に座る手の止まった男。どうにかしなくちゃいけない、でもどうにもできない。背中は縮こまり、指先は固く強ばっていく。すらすらと譜面の音を描き出す彼女の横にただ座るだけというのは、どれだけ苦痛なことだろうか。

 きっとヨルベさんは、もう一度尋ねれば、この話の末路を答えてくれただろう。だが、その連弾をした男の結末を知る勇気が、今の私にはなかった。


「絵、描くことができるといいわね」

「できるでしょうか、こんな私に」

「さあ、私はただ条件に合いそうな人をここに紹介しているだけだから、そんなこと分からないわ」


 でもね、とヨルベさんは続ける。


「この条件を受けたってことは、あの夢の話に興味を持ったってことは、少なくとも火は消えていないってことでしょう。だったら、やるしかないのよ。踏み台にするしかない。誰かの為じゃなくて、自分の為に。私を勝手に恨んだ彼だって、悩み抜いた果てに辿り着いたのは、自分勝手で、利己的な考えだった。すっぱりと諦めて思い出にすることを決めた人の生活に土足で上がり込んでくるのよ。それって結構最低なことでしょう。彼は敢えてその最低を、自分に利があることを選んだ。私は彼の最低な選択をこれからも許しはしない。でも、それが彼の選択を否定する理由にはならない。彼にとって、あれは必要なものだったと私も理解しているから」


 紅茶を飲み終えたヨルベさんは一息つくと腕時計に目を落とし、やがて席を立った。


「随分話し込んじゃったわ。適当に挨拶だけして帰るつもりだったのに」

「降秋さん、不在ですみません。戻ってきたら来たこと、伝えますね」


 気にしないで、と彼女は肩を竦めた。慣れていると言った反応だった。


「あの人ってぼんやりしてるように見えて、意外と察するのが上手いのよね」

「察する、ですか?」

「私が訪ねてきて、あなたと話をすることになるかもしれないと、そう思ったんでしょうね。だからセッティングだけして家を空けた」


 呆れた様子でヨルベさんは玄関に目を向ける。


「多分、二、三十分もしたら彼、帰ってくると思うわ。本当にお節介が上手な人」


 カーディガンを羽織ると彼女は挨拶もそこそこに出ていった。扉が締まる間際、私に向かってウインクをするのが見えた。それがどういった意味のものかは分からなかったが、少なくとも彼女は私という存在を好意的に受け止めてくれたのだと思う。



 彼女の予測通り、カップを片付けているタイミングで降秋さんは帰ってきた。朝のままの汚れ一つない服を見て、本当に彼は私たちの為に家を開けてくれたのかもしれないと、彼女の考えに真実味が増すのを感じた。


「ヨルベさん、いらっしゃったんですね」

「会えなくて少し残念そうでしたよ」


 そうですか、と彼はジャケットを脱ぐと奥の寝室に消えていった。私は再び薬缶に火をかけると、茶漉しの茶葉を取り返る。変わらずヨルベさん用の茶葉を入れた。


「降秋さん、良かったら少しお茶しませんか」

「ええ、構いませんよ」


 寝室から彼の低い落ち着いた返答が聞こえる。新しいカップと淹れたてのポットをテーブルに置き、座って彼を待つ。白シャツとスキニージーンズに着替えた彼は穏やかな表情のまま、向かいに座った。


「ねえ、降秋さん、良かったら、今日も奥さんの話を伺ってもいいですか」


 私が注ぎ入れたティーカップを受け取ると、ゆっくりと味わうように口にし、彼は深く温かな吐息を一つ吐き出した。


「相変わらずいい香りですね」

「今日はじめて飲みました。ずっと前から好きなんですか?」

「妻がとても好んだ香りなんです」


 彼はぽつり、ぽつりと漏らすようにあの話を始めていく。海と奥さんの話を。

 私と彼の昼下がりは、穏やかな柑橘の香りと共にゆっくりと過ぎていった。



 日が暮れて、何もかもが夜闇の静けさに飲み込まれた頃に、私は作業場にイーゼルとキャンパスを立てた。

 丸いスツールに腰掛けて、真っ白い画板と向かい合いながら、私は目蓋を閉じる。想像を膨らませる。ピアノ、連弾、男女、楽しげな女性と、緊張した面持ちの男性。

やがて目を開けた私は、削ったばかりの鋭い鉛筆を手に取った。

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